新宿ピカデリーで「82年生まれ、キム・ジヨン」を観てきた。これは韓国の同名の小説の映画版である。韓国では130万部のベストセラーで社会現象にもなったという。主人公は、幼少期から大人になるまでに、女性ゆえの理不尽や不平等を経験し、家事・育児のために好きだった仕事も辞めたが、そうした出来事が彼女を蝕み、ついに精神を病んでしまうのだった。こういうと鬱々した映画っぽいが、ソフトなタッチで描かれており、映画のラストも前向きなエンディングでとても見やすいと思う。
韓国は儒教文化ゆえに女性の地位が弱い。最近では本作で描かれるように家庭に入ると何かと不自由が多いため、それを嫌って働く女性が増え、非婚が一種のブームになっているという。徴兵等で婚姻年齢が高くなる傾向はあるが、韓国では20代の91.3%が未婚というのには驚かされる。日本は79.7%だから10%以上も高い。出生率も劇的な低下を見せており、2019年には世界で初めて合計特殊出生率が1人を割り込み、今年はさらに低下し0.9人割れがみえてきた。2020年上半期の出生児は前年比9.9%減であり、政府の予測を超えるスピードで人口減少が進んでいる。
本作をみていて主人公は良いマンションに住んでいるなと思ったが、ソウルの不動産価格は高騰しており、主人公が住んでいる水準のマンションは相当な価格のはずだ。人口のおよそ4人に1人がソウル住んでおり、人口密度は東京の3倍ゆえに住宅事情は悪い。文大統領が不動産価格を下げるように政策を出したが効果がない。近い将来、不動産バブルがはじけるかもしれない。こうした不動産の暴騰ゆえか実はソウルは人口減少が続いており、人口は1000万人を割っており、転入超過が続く東京とは対照的である。
本作は現代韓国の社会を知るには良い作品だと思う。
当方が師事しているピアノの先生の娘さんが大学受験生だが、はたから見ていて相当に大変そうである。民間の英語の試験の利用だとか、共通テストで記述式を導入するとか、それが二転三転して見送られたり。挙句にコロナの混乱である。しかも、民間の英語試験の利用やら、共通テストの利用やら各大学によって方針がバラバラで入試方式を調べるだけで相当な苦労を伴う。当方の上司の息子さんも大学受験らしいが、忙しいので(&高給取りなので)予備校の講師やら家庭教師に丸投げで調べさせたりしているらしい(といっても、東大か早慶のことぐらいしか調べないのだろうけど)。雑誌などでも大学入試改革をみたが細かくてようわからない。
ただ怪我の功名ではないが、従来国公立大でとってきた「センター+二次試験」の方式を一部の大学でも採用しているところがある(今後は「共通テスト+二次試験」)。これをみると国公立大と私立大の難易度比較がやや容易になる。特に科目数が3科目入試の国公立大と私立大はそのまま比較が可能である。ただ二次試験については総合問題を採用していたりするので比較が難しい。そこで共通テストのボーダースコアで国公立大と私立大の比較をみてみよう。私立大からは「共通テスト+二次試験」の方式を採用した青学大を採用する。
こうしてみてみると、青山学院大学と、公立大トップクラスの東京都立大・京都府立大とは同等か難易度は青学がやや上で、地方国立大の滋賀大よりは断然に難しいということが分かる。二次試験は科目などがバラバラだが共通テストのボーダーは3科目で共通である。
2020年4月から一定の条件を満たせば学費が国立・公立・私立問わず減免される。これによってかつては家計が貧しいと国公立大しか選択肢がなかった気の毒な学生も、学費に関わらずに好きな大学を選ぶことができる。いままでは血税を投入されて不当廉売して学生を集めていた国公立大も私立大と、従来よりは私立大とフェアに競争しなければならなくなる。大学を市場化し競争力のない大学を淘汰し、競争力のある大学を選抜するという観点では正しい。
なお、個人的な見立てではやはり東京の一強は続くので東京の大学をお勧めする。「田舎の学問より京の昼寝」ということだ。IT技術の進展で場所に関わらずに学べるし働けるという人もいるし、何度もそうした主張はあった。古くはトフラーで「第三の波」で1980年代に近く都市は空洞化すると予測したが外れ、2005年にはトーマス・フリードマンが「フラット化する世界」でIT技術で場所にこだわる必要がないと主張したが外れた。リチャード・フロリダやエドワード・グレイザーの主張するように魅力的都市はより人を集めるし、そして、人が密集して触れ合い刺激しあうこと自体に意味がある。
マスコミはテレワークで住む場所は関係ないと無責任に報道しているし、実際に地方に移住した人もいるが、その是非は数年後に出る。フェイストゥフェイスで知っている人と、画面越しの知り合い、どちらを大切にするだろうか?新入社員や転職してきた人のOJTは画面越しでは成立しないだろう。なぜかといえば、人間の脳は急速な社会の進歩についていかないからだ。社会の進展よりも脳の進化はとんでもなく緩慢であり、人間の脳は従来通りのフェイストゥフェイスのコミュニケーションを好むのだ; サトシ・カナザワによると人間の脳はかつてのサバンナでの生活に最適化されており、現代世界に適応しておらず、それゆえに様々な不具合が生じるという(サバンナ仮設)。
コロナが沈静化すれば、人口の大都市流入は復活する。高度成長期にも郊外化が叫ばれたが、その後、都心回帰が起きた。コロナ禍でも同じだ。一時的に地方にいっても娯楽の無さや刺激の無さに辟易して大都市回帰が起きる。無責任なマスコミの言説に騙されてはいけない。大学受験生も、どうせ来年か再来年に沈静化する一過的な事象のために進路選択を行うのはあまり合理的とは言えない。
話はだいぶ飛躍したが受験生はこれから健康に気を付けて志望校に受かるように頑張ってほしいものだ。
ヨーロッパと違いアジアは宗教的にも政治・経済的にも多様である。ヨーロッパはレコンキスタでイスラムをヨーロッパから追い出してキリスト教覇権が確立したが、それと対比するとアジアの宗教は多彩だ。インドで仏教が生まれ、それが中国・朝鮮・日本へと広がる。しかし、現在、インドではヒンドゥー教信者が8割を占め、李氏朝鮮では儒教を尊び廃仏したので仏教は衰え、戦後にキリスト教が広がり現在ではキリスト教が最大の宗教となっている。日本は神道・仏教・キリスト教などが混在するなか、明治時代に国家神道が確立したものの、結局、宗教が世俗化してしまい無宗教化した。世界最大のイスラム教国家はインドネシアであるが、同じく東南アジアのフィリピンは8割がカトリック信者だったりする。
政治・経済的にみても、日本・フィリピン・マレーシアは資本主義かつ民主主義国家であるが、中国やラオスは共産党の一党独裁であり、ベトナムは社会主義国である。韓国は資本主義かつ民主主義の国だが30年前までは軍事政権であり、昨今の文政権は社会主義的政策の色彩が強い。タイは政治不安定で、王室批判や民主化運動などが勢いを増している。シンガポールは資本主義を受け入れ経済的には豊かだが、開発独裁のようで民主主義国というにはかなり自由が制限されている。
以上のようにアジアはヨーロッパと相対的に比較すると宗教的にも政治・経済的にもかなり多様性をはらむ地域なのである。もちろんヨーロッパもカトリックとプロテスタントの対立等はあったがキリスト教という枠組みの中での分断であり、またソ連崩壊で旧共産圏も資本主義化したことで資本主義・民主主義が支配的な領域となっている(もちろん、経済格差や民族問題等はあるものの)。
こうしたアジア地域における対外認識というのもかなりユニークなものとなっている。そんなアジア諸国の対外認識を豊富なデータを示すことで明らかにしたのが本書である。調査結果の分析が延々と続くので読み物として楽しいかと聞かれると首肯しがたいが、データに裏打ちされた分析はかなり説得力があるものである。ただ一般向けの本という点を踏まえると、データ解釈を延々と繰り広げるのではなく、著者の主張を展開しデータで補強する展開のほうが良かったと思う。
そもそもなぜこのような国民感情が重要なのだろう?国際政治学だとリアリズムに代表されるように国際政治を軍事力・経済力などの数値化できるパワーに還元し物理的に分析する傾向があるが、実際のところ日韓関係をそれらの指標で分析で気かと言えばNOである。やはり歴史的・地理的な背景を踏まえた国民感情というのが影響しており、確実にそれは両国の外交方針に反映されている。ゆえに従来の物理的パワーのバランスの視座だけでは分析として欠けるところがあるのだ。
日本人は中国脅威論が根強いが、アジア諸国も同見解かといえばNOである。本書では中国を経済的恩恵フレーム、平和的台頭フレーム、秩序への挑戦者フレーム、脆弱国家フレームの枠組みで分析しているが、日本・韓国・台湾・ベトナムなどは中国を脅威的な勢力ながら脆弱国家とみなしているが、一方で、インドネシア・マレーシア・タイなどはそのような傾向が弱い。
本書では言及がないがこれは中国への地理的な近接性・侵略された経験があるか否かによるのだろう。タイは新中国なのはもともとビルマに支配され、そこから脱した一方で、ベトナムは明朝に支配され脱したという歴史的な背景によるのだろう。タイは中国と国境がなく、中国との直接的な対立はないが、ベトナムは中国の脅威にさらされてきた歴史的な背景がある。これは中国の諸王朝の恩恵にあやかりつつ隷従されてきた朝鮮半島も同じである。ただ朝鮮半島の場合、対外認識データをみると、中国・北朝鮮・日本の評価が低い。ほとんど四面楚歌の様相である。これは中国と日本の緩衝地帯として両大国のはざまで揺らいできたゆえの認識だろう。
ただ強調しておくべきなのは、中国・韓国・北朝鮮を除くと日本の認識・評価はアジア諸国では相当に高い。これは戦後において平和国家かつ経済大国としてアジア地域に多大なる貢献をしてきた日本の功績である。ただ、一つの現実として、もはや日本の政治・経済への関心は弱くなっており、いま注目を集めているのはクールジャパンのように日本文化である。かつて”ジャパン アズ ナンバーワン”と言われた国としては寂しい気もするが、日本はもはやアジアで抜きんでた国とは思われていないのが現実なのである。
また対比するようにアジア各国は成長著しいものの日本人のアジアイメージはそれについていっていないのも現実であるようで、日本人のアジアイメージの”停滞”がデータから明らかになっている。一人当たりGDPではシンガポール・香港に追い抜かれ韓国にも猛追されている。日本の地方都市であればアジアの大都市のほうが都会で豊かである現実を多くの日本人は知らない。島国だから国際情勢に疎いのは仕方がないが、日本がグローバルスタンダードにどんどん取り残されていく気がしてならない。
パナソニック汐留美術館で開催されている「分離派建築会100年展」に行ってきた。分離派というと「ウィーン分離派」を思い浮かべるかもしれないが、「分離派建築会」とは日本で初の近代建築運動だそうだ(名前はウィーン分離派に由来しているらしいものの)。1920年に東京帝国大の若き建築家6人が結成した会で、1928年まで活動していたという。
パナソニック汐留美術館は初訪問だったが、かなりこじんまりとしていて、ワンフロアの一角を美術館としている。所蔵はフォービスムのジョルジュ・ルオーの作品のみだからほとんどルオー専門美術館といっていいが、企画展示は様々なものを実施している。
当時は鉄筋コンクリートの普及も相まって建築の工学的な面を強調し、建築に芸術性はないとする風潮があったという。質実剛健ともいえる堅牢な構築物が建築とされたのだ。一方で、「分離派建築会」のメンバーは、建築の芸術の可能性を探求し、また従来の建築から分離した近代建築のあり方を模索したのだった。
展示では彼らが影響を受けたであろう彫刻も展示されているが、実際、瀧澤の「山の家」の模型には、彫刻家的な感性が感じられた。あと、お茶の水の「聖橋」のデザインは不思議だったのだが(工学的にはあまり意味がなさそうな開口部のデザイン)、パラボラ型は山田守建築の特徴らしい。(京都タワーやら東京中央電信局(現存しない)が彼のデザインと知り、長年の疑問になんか納得。私は放射線の形が嫌いらしい・・・)
当時、建築と言えば公共の大型建築が多かったが、彼らの郊外の住宅建築も手掛けた。当時は人口増加期であり、大都市化により都市問題が深刻化していた中で、田園都市構想など郊外の住宅への需要が高まり始めた時期だった。彼らはモダニズム的な機能的ながらデザイン性もある郊外住宅を手掛けていった。
それにしても明治時代は赤レンガ建築(おそくら英国ヴィクトリアンゴシックの影響)が主流だったのが、いつモダニズム建築に切り替わったのかと思いきや、やはり関東大震災で多くの建築が大破したのでより堅牢な鉄筋コンクリートが主流になったらしい。これが安藤忠雄建築にまでつながるのだろうか?
「分離派建築会」は、大きなムーブメントにはならなかったものの、しかし、そのメンバーが設計した建築は現在の建築家にも影響を与えているのだろう。日本人は、建築界のノーベル賞こと「プリツカー賞」では米国人と受賞者数で首位争いをしている建築大国であるが、「分離派建築会」の運動は、そうした現代建築家の礎を築く一助となったとはいえるだろう。仰々しい分離派の宣言には若気の至りの感も否めないが、当時はモダニズムがより良い時代を築くという信念があったことが窺える。若き俊英たちの若い情熱を感じられる良い展示会だった。




