本書が「新書大賞2021」に選ばれたというので読んでみた。著者の斎藤幸平はアメリカの大学で政治学を学び、ドイツで哲学を修めて現在は大阪市立大准教授である。ダラダラ長いが一応全部通読したが、本書が高評価なのは、マルクス経済学とかにはまっていた年配世代とかが評価しているんだと思う。彼が若くして准教授になれたのは、彼が若手には珍しいマルクス経済学の研究者であったからだろう。日本の経済学部はその勢力がまだ強いという証左である。そういえば、左翼活動団体SEALsのリーダーだった奥田愛基も偏差値30未満の高校から推薦で明治学院大に入って大学院は一橋大であるが、左翼教授のコネでもあったのだろう(そういえば彼をメディアで全く見かけないが大学院はちゃんと卒業して社会人になれたのだろうか)。
本書は要約すると、気候変動をこのまま放置すれば、この社会は壊滅してしまうので、それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならず、そこで資本主義をやめていまこそコミュニズムが復権するときだという。タイトルの「人新世」とは、人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与える発端を起点として提案された、完新世に続く想定上の地質時代のことをいうそうだ。
個人的には本書は興味深い提言もあるが(お世辞)、前半の資本主義批判は昔からある話で、後半の著者の提言は空想的でナンセンスである。本書はいくつも問題があるが、まず、前提として昨今の温暖化がCO2の排出によるものか否かというのは議論があるが、本書はそこには触れず、炭素が犯人だと決めつけて論を進めている点が乱暴である。また、資本主義のもたらす社会格差などの負の側面ばかりをあげつらって批判するが、現実問題として世界人口のうち最貧困層の占める割合や乳幼児死亡率などは大幅に改善している点など、正の側面を見落としている(これらの改善がなされたのは途上国が経済的に豊かになったためだ)。
そして筆者の提唱するコミュニズムはソ連などの社会主義とは違うというが、共産主義・社会主義が、なぜ私権制限や反対派の弾圧に向かわざるを得ないのかを理解しておらず危険である-実際、著者は特定の職業や特定の業種を役に立っていないとして制限・禁止する論調であり、コミュニズムに自由を脅かす思想が内在している自覚がない(又は意図的に無視している)のは危険である。致命的なのは「脱成長コミュニズム」が実現可能か、実現したとしてどれほどの効果があるのかの考察がないために、ほとんど妄想の域を出ていない点である。結局、「社会をどう変えるの?」という点については、闘争・革命だと「おわりに」で言及して言及している(共産主義・社会主義がどれほどの殺戮を行ってきたのかはあらためて言うまでもあるまい)。
だいたいこの著者の解決策の提言はよくわからない。「使用価値」を重視して人々のニーズを満たすべきだという。しかし、資本主義では価格によって需要と供給によって価格が定まるが、著者の言う「使用価値」とは、どのように決めるのだろう。資本主義では物資不足か生産過剰は、価格に反映されて増産・減産されることでラグが最小化され、効率的な生産が可能である(資本主義は、市場に散逸する情報を集約する優れたメカニズムなのである)。
一方、社会主義では、社会に遍在する情報を中央に集めて計算することで均衡価格を算出しようとしたが、適切な情報が適時に集まらない上に、計算に時間がかかって結果が出るころには実態とかけ離れた数値になっていることがしばしばで、実際、ソ連では物資不足が深刻化して、大勢が飢えに苦しんだ。著者は社会的な計画のもとに生産を行うと書いているが、結局、それは中央が権力をもって政策決定する旧ソ連と何が違うのだろうか。結局、このメカニズムを構築できない限り妄想の域を出ない。
さらに私権制限も堂々と書いていて、広告・マーケティング・パッケージングは禁止だという(共産主義・社会主義は自由の弾圧なくして実現できない。反対すれば粛清するしかない。)。マーケティングをしないでどのように前述の使用価値を測定する気なのだろう・・・?広告やパッケージ無しで、消費者は数ある商品からどのように選択をすればいいのだろう・・・?100人ぐらいのコミュニティなら1人1人に聞いて回ればいいし、商品の数が少なければ見比べれえばいいが、現代ではそんなことは到底不可能である。
おまけに必要のないものを作るのをやめようと書いているが、資本主義社会では需要がなければ生産は停止される。もし生産が続いているのであれば、著者が必要ないと思い込んでいるだけでそれは社会的に必要ということである(僕の意見が絶対に正しくて社会はそれに従うべきだという思考回路がコミュニストらしい)。オートメーション化もロボットの脅威になるからダメというが、我々の世界は機会にあふれて、社会を便利にしているではないか。いまさら原始社会に戻れとでもいうのだろうか。ここらへんの機械批判は産業革命当時の英国でもあったが、機械化が普及した昨今でも路上は失業者であふれていない。
加えて、コンサル・金融・保険・マーケティング・広告を、”くだらない職業”呼ばわりするが、資本主義社会では需要がないのであればその産業は成り立たないわけである。くだらない職業か否かを誰が決定するのかといえば、市場で決めようというのが資本主義だが、共産主義・社会主義社会だと権力者が決める。権力者が決める旧ソ連のような社会では、有無を言わさず禁止されて抵抗すれば粛清される。市場よりも独裁的な権力者のほうが優れているなどという保証はどこにもないし、歴史的な事実として社会主義国家は粛清が起きて人権侵害が甚だしかった。私が権力者だったら無意味な研究を行っている研究者は即刻クビにして研究を禁止しているところだ。もちろん本当にくだらない職業もあるのだろうが、それを権力者の判断に任せることは歴史的な事実として危険であり、不完全なシステムながら市場システムに任せるほかない。資本主義は不完全ながら、どこまでいっても共産主義・社会主義よりはマシなのだ。
本書は、環境問題で世界が滅びという終末論がベースにあるが、こうした終末論信仰はキリスト教的である。キリスト教ではハルマゲドンで世界が滅びるとなっているので、終末論が受け入れられやすい。マルサスは、人口増加が続けば食料が枯渇して世界が滅びると予想し(マルサスの時代から7倍に世界人口は増えているがまだ滅びてない)、核兵器が誕生したら核兵器で人類が滅びると嘆いた。結局、なかなか滅びないので、最近流行の終末論が、環境問題というわけである。環境問題は富裕国に住む意識高い系の玩具である。グレタ・トゥーンベリのような発達障害の子供が環境問題に取り組めるのは、彼女が経済的に豊かな福祉国家スウェーデンに住んでいるからである。最貧国の子供たちは100年後の気温がどうかなんて関心がなく、彼らは今日食べる物が心配なのであり、貧困にあえぐ人々が求めるのは経済成長による生活状態の改善である。
だいたい環境問題ネタで有名になったアル・ゴアがいるが、彼は豪邸に住んで米国の一般家庭の20倍以上の電力を使う生活をしていた。批判を受けて太陽光パネルなどを設置したようだが、ただの売名行為である(選挙戦術的にも馬鹿を騙すのに良いネタなのだろう)。彼は地球温暖化による海面上昇が危険だというが、アル・ゴアのカリフォルニアの邸宅はオーシャンビューだそうだ。本当に海面上昇で水没を心配しているのなら、なぜそんな家を買ったのか教えてほしい。
左派系にはこのような「世田谷自然派左翼」(富裕層なのに社会主義的政策を支持する人々)が多い。英国だと「シャンパン社会主義」、米国では「リムジン・リベラル」、フランスでは「キャビア左翼」といい、各国で富裕層の”社会主義者ごっこ”がみられる。日本でも「平等に貧しくなろう」といっていた上野千鶴子は、外車に乗ってタワマンの上層階に暮らして、休日は別荘で過ごしているとメディアで堂々と取材を受けている。本書の著者は、米国の高額の学費のリベラルアーツカレッジを卒業して、ドイツで博士課程まで進学しているが、経済的基盤があるからであろう。
こうした著者のような化石的なコミュニストが生き残っているのは奇跡であるが、本書の著者のような学者が地方の公立大の教員というのに驚かされる。国公立大の運営費の半分以上は納税者から徴収した血税である。資本主義社会において生み出された富によって運営されている国公立大が、資本主義を批判するというのが滑稽である。自分は身分と収入を血税を原資に保証されておきながら、脱経済成長という荒唐無稽な話を書き散らかす行為に使用価値は皆無である。「世田谷自然派左翼」のスノビズム的欲求を満たす本などは一定の需要があるが、社会変革は起こせない。本書も10年後には跡形もなく忘れ去られているだろう。本書もただの出版産業の生み出した消費物に過ぎない。使用価値はゼロだ。