東京、大阪、兵庫、京都の4都府県の緊急事態宣言について、政府は来週11日の期限を今月31日まで延長するとともに、愛知県と福岡県を来週12日から対象地域に加えることを決定しました。新型コロナウイルス対策をめぐり、政府は午後5時から総理大臣官邸で対策本部を開き、菅総理大臣をはじめ、西村経済再生担当大臣や田村厚生労働大臣らが出席しました。-NHK

 

一体全体2週間はなんだったんでしょうか・・・?短期集中で人流抑制してコロナを抑え込むというはずが、GWを開けたら満員電車で通勤してるのに、どこが人流抑制なんでしょうか?感染対策していれば問題ないという理屈で実施していた「Go to」キャンペーンはなんだったんでしょうか?政府がやりたいのは感染対策なのか、人流抑制なのかどっちなんでしょうか?インド型の変異種が広がったらそれこそ五輪は吹っ飛ぶのですが、なぜいまだに入国禁止されていないのか不思議で仕方がありません。

 

映画関係などの業界団体の全興連が声明を発表していますが(LINK)、興行場の感染は1件も確認されていないのに事実上の休業を要請されているのはおかしいし、人流抑制といいながら、結局、近隣自治体に映画・観劇のために人が移動しており、逆に人流を促進しているという。実際、映画館はマスクして鑑賞するので、感染対策を実施すれば全く問題ないはずである。1席空けて飲食も自粛を要望すればほとんど感染リスクはない。声明では演芸場の無観客開催は現実的ではないとも指摘しているが、演芸場や遊園地の無観客開催は多くの国民が失笑したと思う。

 

映画館や演芸場などを開けると、結局、行き帰りで飲食店によって感染リスクが上昇するという理屈もあるが、だったらなんで満員電車の通勤はOKなのか?勤め先では同僚と話すし、マスク外してランチもするのに、それはOKなのになぜ無言で鑑賞する映画館はNGなのだろう?映画を観に行って、帰り道で食事を買って家庭で楽しむなら全く問題ないはずである。大型のシネコンならまだしもミニシアター系は一人できている客も多いので感染リスクはほとんどないと思う。ここが休業で、昼間の飲食はOKというのは理解ができない。

 

感染リスクが高い業種を休業養成して、そこに補助金を出すなら理解できるが、政府の規制はさっぱり合理性が分からない。これでいて五輪開催というのはどこの口がほざいているのか。国会議員は給与が減らないし、公用車で通勤なので想像力が働かないのだろう。国会議員の公用車使用を禁止し、給与・賞与を削ったら危機感が伝わるだろう。沖縄県知事は会食自粛を要請しておきながら、バーベキューしてSNSで発信している始末である(LINK)。開いた口が塞がらない。

 

このままだと自民党への批判票が増えそうで、下野しても仕方がないぐらいの迷走ぶりだ。

東京都に出されている緊急事態宣言について、小池知事は、「解除できる状況にない。宣言の延長が必要だと考えている」と述べ、来週11日の期限を延長し、休業要請など現在の措置を続ける必要があるという考えを示しました。小池知事は都のモニタリング会議のあと記者団に対し、「繁華街の人の流れが減少しているという報告をいただいているが、新規陽性者数が減少に転じることにはまだつながっていない。重症者数も減少していない」と述べ、都内の感染状況は引き続き厳しいという認識を示しました。-NHK

 

緊急事態宣言が延長される想定であるが、効果があるのかよくわからない。飲食店のアルコール提供は禁止されたが、カフェだと普通にマスクを外して会話している人も多い。時短営業をしているが、昼間は活動しているのだからコロナが夜行性というわけでもない限り、時短営業に合理性はない。居酒屋・バーなどをターゲットに規制をかける合理性を説明してほしい。厚労省役人みたいにマスクを外してアルコールを飲む集団会食が問題なのは分かるが、おひとり様がしんみりお酒を飲むことまで規制する論拠はあるまい。だいたい感染予防していれば大丈夫という建前で行っていた「Go to イート」やら「Go to トラベル」のキャンペーンはなんだったのか。

 

それに、東京にだけ緊急事態宣言を出して、近隣自治体に遊びに行くな、東京に遊びに来るなというスタンスだが、平日の通勤による移動は規制されていないのは対応としてチグハグである。平日は満員電車で働きに行け、でも休日は遊びで移動するなというのでは納得しがたい。通勤はさせるが飲食店は休業が多いのでオフィス街ではランチ難民が発生しているというから滑稽である。

 

緊急事態宣言で、映画館なども休業となったが、映画館などはクラスターを出していない。マスクして映画を観るだけであれば感染リスクは低い。こうした感染リスクが低い娯楽も娯楽も規制したために、近隣自治体に遊びに行く人が続出している点を踏まえると、愚策と言わざるを得ない。飲食店では解雇も相次いでおり、貧困層は相当困窮しているそうだが、飲食店などにばら撒くだけで、全国民に給付金を支給する気配はない。

 

緊急事態宣言を出すまでに至っているのにワクチン接種は全然進んでいない。さらに変異種がインドで猛威を振るっているが、なぜかインドからの入国が禁止になっていないのも意味不明である。インドの変異種はアジア人にも感染するし、ワクチンも効かないので、これが蔓延するとかなり危機的だが、日本政府の動きはかなり緩慢である。だいたい病床不足も1年前から言われているが、感染者が欧米の数分の一しかない日本でいつまで病床不足を言い続けているのか。こんな中で五輪開催をいまだに目論んでいるのはさすがに阿呆というものだろう。スペイン風邪でも終息には2年間はかかっていたのだから、初動で五輪は2年延期とすればよかった。

 

コロナは予期せぬ事態だったので不手際はあるものだと思うが、1年前経過しているのに日本政府の対応のチグハグは続いており、議員や国家公務員・地方公務員がアルコール有りの集団会食を行っている始末であり、そればかりか人流促進のキャンペーンを実施していたくせに、いまさら人流抑制と言われても説得力がない。緊急事態宣言の延長が無意味とは言わないが、理解を得られるかというとやや厳しい。次の選挙では自民党への批判票で野党が議席を増やす可能性があるだろう。

 

 

本書が「新書大賞2021」に選ばれたというので読んでみた。著者の斎藤幸平はアメリカの大学で政治学を学び、ドイツで哲学を修めて現在は大阪市立大准教授である。ダラダラ長いが一応全部通読したが、本書が高評価なのは、マルクス経済学とかにはまっていた年配世代とかが評価しているんだと思う。彼が若くして准教授になれたのは、彼が若手には珍しいマルクス経済学の研究者であったからだろう。日本の経済学部はその勢力がまだ強いという証左である。そういえば、左翼活動団体SEALsのリーダーだった奥田愛基も偏差値30未満の高校から推薦で明治学院大に入って大学院は一橋大であるが、左翼教授のコネでもあったのだろう(そういえば彼をメディアで全く見かけないが大学院はちゃんと卒業して社会人になれたのだろうか)。

 

本書は要約すると、気候変動をこのまま放置すれば、この社会は壊滅してしまうので、それを阻止するには資本主義の際限なき利潤追求を止めなければならず、そこで資本主義をやめていまこそコミュニズムが復権するときだという。タイトルの「人新世」とは、人類が地球の地質や生態系に重大な影響を与える発端を起点として提案された、完新世に続く想定上の地質時代のことをいうそうだ。

 

個人的には本書は興味深い提言もあるが(お世辞)、前半の資本主義批判は昔からある話で、後半の著者の提言は空想的でナンセンスである。本書はいくつも問題があるが、まず、前提として昨今の温暖化がCO2の排出によるものか否かというのは議論があるが、本書はそこには触れず、炭素が犯人だと決めつけて論を進めている点が乱暴である。また、資本主義のもたらす社会格差などの負の側面ばかりをあげつらって批判するが、現実問題として世界人口のうち最貧困層の占める割合や乳幼児死亡率などは大幅に改善している点など、正の側面を見落としている(これらの改善がなされたのは途上国が経済的に豊かになったためだ)。

 

そして筆者の提唱するコミュニズムはソ連などの社会主義とは違うというが、共産主義・社会主義が、なぜ私権制限や反対派の弾圧に向かわざるを得ないのかを理解しておらず危険である-実際、著者は特定の職業や特定の業種を役に立っていないとして制限・禁止する論調であり、コミュニズムに自由を脅かす思想が内在している自覚がない(又は意図的に無視している)のは危険である。致命的なのは「脱成長コミュニズム」が実現可能か、実現したとしてどれほどの効果があるのかの考察がないために、ほとんど妄想の域を出ていない点である。結局、「社会をどう変えるの?」という点については、闘争・革命だと「おわりに」で言及して言及している(共産主義・社会主義がどれほどの殺戮を行ってきたのかはあらためて言うまでもあるまい)。

 

だいたいこの著者の解決策の提言はよくわからない。「使用価値」を重視して人々のニーズを満たすべきだという。しかし、資本主義では価格によって需要と供給によって価格が定まるが、著者の言う「使用価値」とは、どのように決めるのだろう。資本主義では物資不足か生産過剰は、価格に反映されて増産・減産されることでラグが最小化され、効率的な生産が可能である(資本主義は、市場に散逸する情報を集約する優れたメカニズムなのである)。

 

一方、社会主義では、社会に遍在する情報を中央に集めて計算することで均衡価格を算出しようとしたが、適切な情報が適時に集まらない上に、計算に時間がかかって結果が出るころには実態とかけ離れた数値になっていることがしばしばで、実際、ソ連では物資不足が深刻化して、大勢が飢えに苦しんだ。著者は社会的な計画のもとに生産を行うと書いているが、結局、それは中央が権力をもって政策決定する旧ソ連と何が違うのだろうか。結局、このメカニズムを構築できない限り妄想の域を出ない。

 

さらに私権制限も堂々と書いていて、広告・マーケティング・パッケージングは禁止だという(共産主義・社会主義は自由の弾圧なくして実現できない。反対すれば粛清するしかない。)。マーケティングをしないでどのように前述の使用価値を測定する気なのだろう・・・?広告やパッケージ無しで、消費者は数ある商品からどのように選択をすればいいのだろう・・・?100人ぐらいのコミュニティなら1人1人に聞いて回ればいいし、商品の数が少なければ見比べれえばいいが、現代ではそんなことは到底不可能である。

 

おまけに必要のないものを作るのをやめようと書いているが、資本主義社会では需要がなければ生産は停止される。もし生産が続いているのであれば、著者が必要ないと思い込んでいるだけでそれは社会的に必要ということである(僕の意見が絶対に正しくて社会はそれに従うべきだという思考回路がコミュニストらしい)。オートメーション化もロボットの脅威になるからダメというが、我々の世界は機会にあふれて、社会を便利にしているではないか。いまさら原始社会に戻れとでもいうのだろうか。ここらへんの機械批判は産業革命当時の英国でもあったが、機械化が普及した昨今でも路上は失業者であふれていない。

 

加えて、コンサル・金融・保険・マーケティング・広告を、”くだらない職業”呼ばわりするが、資本主義社会では需要がないのであればその産業は成り立たないわけである。くだらない職業か否かを誰が決定するのかといえば、市場で決めようというのが資本主義だが、共産主義・社会主義社会だと権力者が決める。権力者が決める旧ソ連のような社会では、有無を言わさず禁止されて抵抗すれば粛清される。市場よりも独裁的な権力者のほうが優れているなどという保証はどこにもないし、歴史的な事実として社会主義国家は粛清が起きて人権侵害が甚だしかった。私が権力者だったら無意味な研究を行っている研究者は即刻クビにして研究を禁止しているところだ。もちろん本当にくだらない職業もあるのだろうが、それを権力者の判断に任せることは歴史的な事実として危険であり、不完全なシステムながら市場システムに任せるほかない。資本主義は不完全ながら、どこまでいっても共産主義・社会主義よりはマシなのだ。

 

本書は、環境問題で世界が滅びという終末論がベースにあるが、こうした終末論信仰はキリスト教的である。キリスト教ではハルマゲドンで世界が滅びるとなっているので、終末論が受け入れられやすい。マルサスは、人口増加が続けば食料が枯渇して世界が滅びると予想し(マルサスの時代から7倍に世界人口は増えているがまだ滅びてない)、核兵器が誕生したら核兵器で人類が滅びると嘆いた。結局、なかなか滅びないので、最近流行の終末論が、環境問題というわけである。環境問題は富裕国に住む意識高い系の玩具である。グレタ・トゥーンベリのような発達障害の子供が環境問題に取り組めるのは、彼女が経済的に豊かな福祉国家スウェーデンに住んでいるからである。最貧国の子供たちは100年後の気温がどうかなんて関心がなく、彼らは今日食べる物が心配なのであり、貧困にあえぐ人々が求めるのは経済成長による生活状態の改善である。

 

だいたい環境問題ネタで有名になったアル・ゴアがいるが、彼は豪邸に住んで米国の一般家庭の20倍以上の電力を使う生活をしていた。批判を受けて太陽光パネルなどを設置したようだが、ただの売名行為である(選挙戦術的にも馬鹿を騙すのに良いネタなのだろう)。彼は地球温暖化による海面上昇が危険だというが、アル・ゴアのカリフォルニアの邸宅はオーシャンビューだそうだ。本当に海面上昇で水没を心配しているのなら、なぜそんな家を買ったのか教えてほしい。

 

左派系にはこのような「世田谷自然派左翼」(富裕層なのに社会主義的政策を支持する人々)が多い。英国だと「シャンパン社会主義」、米国では「リムジン・リベラル」、フランスでは「キャビア左翼」といい、各国で富裕層の”社会主義者ごっこ”がみられる。日本でも「平等に貧しくなろう」といっていた上野千鶴子は、外車に乗ってタワマンの上層階に暮らして、休日は別荘で過ごしているとメディアで堂々と取材を受けている。本書の著者は、米国の高額の学費のリベラルアーツカレッジを卒業して、ドイツで博士課程まで進学しているが、経済的基盤があるからであろう。

 

こうした著者のような化石的なコミュニストが生き残っているのは奇跡であるが、本書の著者のような学者が地方の公立大の教員というのに驚かされる。国公立大の運営費の半分以上は納税者から徴収した血税である。資本主義社会において生み出された富によって運営されている国公立大が、資本主義を批判するというのが滑稽である。自分は身分と収入を血税を原資に保証されておきながら、脱経済成長という荒唐無稽な話を書き散らかす行為に使用価値は皆無である。「世田谷自然派左翼」のスノビズム的欲求を満たす本などは一定の需要があるが、社会変革は起こせない。本書も10年後には跡形もなく忘れ去られているだろう。本書もただの出版産業の生み出した消費物に過ぎない。使用価値はゼロだ。

 

 

生き字引の蓮實重彥(元東大総長)が映画について語りつくす。映画は自分の好きなもの観ればよくて、他人の評価とかは気にせず自由に見ればいいという。文字通り筆者の独断による論評が延々と続く。筆者曰く、優れた映画には必ずハッとする瞬間があり、それを逃してはならないという。それこそが映画を観る醍醐味である。映画が分かる範疇にあるときは安心できるが、しかし、そこで満足してはいけないという。その安心を崩してくれる映画に出会ったとき、一瞬を自覚すべきであるが、しかし、そうした瞬間だけを求めてはいけないという。つまり、その塩梅が重要であり、画面と向き合う孤独というものを体験することのみで得られるそうだ。

 

膨大な知識と視聴経験に基づいて徒然なるままに書き綴っているので、正直、どこが”レッスン”なのかと言いたくなった。また、あれはダメ、これは良いというが、何が良くて、何が悪いのかが記述されていないので、よくわからない。つっけんどんに言われても、「なんで?」という感想しか持ちえない。まぁ、これぐらい自由度高めに見ていいし、好き勝手に言っていいのだという自由奔放さは見習いたい。

 

映画が好きといっても、映画というのは総合芸術でもあり、一方でメディアでもあるので、どこに重きを置くかで多種多様なファンがいる。ひたすら映画を観るのが好きで起きているときはほとんど映画を観て他のことはしない「映画廃人」みたいな人もいるし、観ている本数はそれほどだが思想や歴史的な知識があり内容を深く分析する学術タイプの映画ファンもいるし、個人的に興味あるテーマの作品を中心に手広く観る教養タイプの映画ファンもいるし、カメラワークとか技術系に関心あるファンもいる。どれが正解でも不正解もない。好き勝手に観て、好き勝手に論評すりゃいいんだという筆者のスタンスはある意味、全映画ファンにとっては福音である。ただレッスンというからには、もうちょっと視聴の有り様とかについて説明があっても良かったと思う。

 

 

ポーター、コトラー、ミンツバーグ、デビッド・ティースなど世界の著名な経営学者17人のインタビューをまとめた一冊。インタビューをまとめたものなのでやや内容は薄いが、著名な経営学者の思考のエッセンスが詰まっているともいえる。

 

ポーターの指摘がやはり図星だと思うのは、日本企業はデジタルトランスフォーメーションに及び腰で、生産性が低い点だという。実際、日本だとコロナ禍で在宅勤務が広がったが、契約書の押印のために出社しないといけないなど、デジタル化に適用できていない側面が明らかになった。ただ日本の大企業は、かなりデジタルトランスフォーメーションに躍起だし、大企業の生産性は高い。前に読んだデービッド・アトキンソンの「日本企業の勝算」によると、日本企業のデジタル化の遅れや労働生産性の低さは、中小企業の多さに起因するという。デジタル化が遅れているといっても、企業規模別に細分化してみないと分からない。

 

マイケル・オズボーンやスーザン・エイシーのAIに関する話も面白い。AIが人間の仕事を奪うのかという点についてである。機械化への抵抗はエリザベス1世の時代からあったが、結局、単純労働は機械化したが、新たに職種が生まれたので、いまでも失業者が道を塞いで通れないということはない。創造性やコミュニケーションなどは人間でしかできない。AIがバズワードかしているが、汎用的ないわゆる「強いAI」はなく、現在でもあくまで計算機械の域を出ていない。AIは、人間の雇用を脅かすのではなく、生産性を高める味方だという。

 

マイケル・クスマノは、日本の起業の少なさを指摘する。日本の技術者は企業に終身雇用で雇われて、ひたすら狭い分野(縦割り組織)で研究開発していくサイロ状であるが、これでは新たなイノベーションは生まれない。これからはネットワーク展開型に転換する必要があるという。これは日本が高度成長期に大企業を中心に系列企業体制を構築したためである。これを司法や立法が追認し、解雇要件を厳格にしてしまったので労働の流動性が著しい閉鎖的な環境になってしまった。大学でも起業の講座を設けているところは少ない。アメリカだとプログラミング教育などが盛んだそうだが、日本は大学レベルでも情報系学部は貧弱そのものである。

 

しかし、ダメダメと思われる日本経済だが、ヘンリー・ミンツバーグは日本を「健全な社会」という。たしかに教育水準は高いし、犯罪は少なく、長寿で、街は清潔で、人は礼儀正しく、風光明媚で食事も美味しい。アメリカは経済成長しているが医療が脆弱ゆえに平均寿命は短くなっているし、格差社会が進行している。ミンツバーグの指摘で興味深いのは数理的分析に重きを置く米国流MBA批判である。MBAは知識は身に就くが、経験は詰めないし、創造性も向上しない。マイクロソフト、Facebook、アマゾン、アップルなどは、どれもMBAホールダーが創業者ではないし、ジョブズもビルゲイツもザッカーバーグも大学中退である。MBAホールダーのCEOは高い給与を得ているが、ハーバードMBAが経営した企業の実績をみると19社中、成功したのは5社のみだという。業績不振の起業のCEOだと9割がMBAホールダーだが、業績好調だと5割だという。MBAで得た知識が経営の邪魔になっている可能性があるというのだ。

 

当方の仕事的に経営学はあまり関係ないが、ビジネスマンの常識として読んでみた。

経営学の泰斗のエッセンスが知れて面白い。