新年最初の一冊は、「シャネル論」である。故 山田登世子氏の「ブランド論」にはまっているが(過去の書評;LINK1LINK2LINK3LINK4)、本書はまるまる一冊がシャネル論である。なぜシャネルがここまで凄いのかといえば、彼女が19世紀的な贅沢を過去のものとして、大衆消費時代の寵児として巨大ブランドとなったからである。ポール・モランはシャネルを「皆殺しの天使」と表現したが、シャネルが貴族的な贅沢を一切合切過去のものにし埋葬したからである。

 

若くして成功したシャネルは当時すでにセレブリティだったが、意外にも孤児として修道院で育っている。彼女はその出自を隠していたそうだ。シャネルは注目の的であり、伝記出版の話もあったが終に出版されなかったという。ポール・モランとの対談でも出自を捏造していた。マーケティングも上手かったシャネルのことである、出自が邪魔になると直感的に分かっていたのだろう。しかし、本書も指摘するようにシャネルの美的感覚はまさに修道院での幼少期に培われており、彼女の白や黒の色彩感覚は無機質な修道院のそれだろうという。

 

それにしてもシャネルは貴族的な贅沢を時代遅れにしたわけであるが、それはシャネルが贅沢がなんたるかを真に知っており、それがいかに退屈でつまらないものであるかが分かっていたからだ。シャネルは何人もの貴族をはじめその時代のセレブと交際していた。シャネルは貴族との交際や交友を通して「贅沢」を直に目撃していたのだ。シャネルに求婚した英国の名門貴族にして大富豪のウェストミンスター公爵は自身の資産額を誇ることも、自慢することもなかった。そもそも彼は自己の資産額など把握しておらず、居城の領地内に何があることすら知らなかったという。これこそが"贅沢の体現者"である。年収だの資産額や、所有物のネームや値段を見せびらかしたり競うことは、庶民の素行に他ならない。労働の対価として得られたお金でいくら派手に生活しても「有閑階級」にはなりえない。ちなみに、調べたところ、ウェストミンスター公爵位はヒュー・グローヴナーが七代目として世襲しているが、彼は30歳未満では世界一の大富豪で総資産は1兆円を軽く超えているそうだから腰を抜かされる(こういうことが気になるのが庶民ということだ)。

 

それにしてもシャネルはモードの最先端であり、モードがなんたるかを熟知していた。それゆえにコピーされることも厭わなかったし、逆に模造品の流通こそが本物を本物たらしめると考えていた。模造されるということは、そのデザインに価値があるということであり、コピー行為を通して大衆にそのスタイルが拡散されてモードとなる。しかし、いくら表面的にデザインが真似されようとも、しょせんは模造品は模造品に過ぎず、本物のシャネルの品質を超えることはできない。模造品が出回るほどに、本物のみが持つアウラが際立つというのがシャネルのパースペクティブだった。そういくら真似しても本物にはならない。シャネルの「ショートカットが流行ったんじゃない。私が流行ったのよ。」という言葉に凝縮されている。

 

意外とシャネルは自己のメゾンを56歳で閉じていたことは知られていない。労働争議に加えて、軍靴の足音が聞こえてきたこともあり、1939年にアクセサリーと香水部門などを残してメゾンを閉鎖。それからスイスに移住していた(モランとの対談はこの時である)。そんな彼女は70歳にカムバックを果たす。しかし、世界大戦後は陰鬱とした時代の反動で華やかさを希求する風潮があり、シャネルのスタイルは時代遅れとしてパリでは歓迎されなかった。そのころはクリスチャン・ディオールの女性的なラインを強調したエレガントなデザインが人気を博していたのだ。カムバックから1年ほど苦難が続くが、シャネルをアメリカ市場は喝采して受けれ、アメリカから逆輸入する形で欧州でも再びシャネルは人気を勝ち得たそうだ。

 

シャネルはその後も働き続けたが、住居としていたホテルリッツでその一生をそっと終える。簡素な部屋はまさに「はたらく女」の部屋だったという。名門貴族の妻として生きることも、余りある財産で老後を過ごすことも出来たが、彼女はメゾンで働くことを選んだ。キャリアウーマンの姿を100年も先取りしたシャネルは、「シャネル」として生き「シャネル」として亡くなったのだった。その名前は永遠に生き続ける。