続きを書いていくことにする。
前編はここ。(参考)
次の"アイディア"の話はアリストテレスの手術についてになる。
12巻でフィリッポスが暗殺されて、それをアリストテレスとアルケノルが救っているけれど、それに際してアリストテレスが物凄い手術をしたと誤解している人がそれなりに見受けられた。
オリュンピアスと思しき人物がパウサニアスの心臓を持ち去っているから、それをフィリッポスに移植したとかなんとか。
ただ、作中で普通に心臓は無事だという話があってアリストテレスは『ヒストリエ』で心臓で物を考えるとしている以上、そういうことが起きたわけではない。
(12巻p.159)
もし、心臓移植があったなら、アリストテレスのこの言及はあり得ない。
(11巻p.9)
だから、実際に何をやったかは描かれていないから分からないけれども、瀕死の状態で、当時の医学では死亡判定だけどアリストテレスの高度な技術ではまだ助かる程度の重傷で、それをただ手術したと判断した方が妥当な描写になる。
アリストテレスの言及的に、一時的に心停止していた様子がある。
(12巻p.159)
アリストテレスは王の心臓について「今は普通に動いている」と言っていて、そういう言及である以上、普通に動いていなかったタイミングがあったという話で、ハルパロスが滝つぼに落ちた時のアレクの学友の反応からするに、心停止はイコールで死と扱われていて、その状態からアリストテレスは復帰させたらしい。
(7巻pp.183-185)
デモニコスはこの時点でハルパロスは死人だと認識していて、その死人を蘇らせようとしているということに驚いている。
『ヒストリエ』の描写的に、心停止および呼吸停止は、そのまま死を意味していて、その状態からの復帰でも死者蘇生扱いらしい。
心臓移植なんてものは、ポンプのようなもので患者の体に血液を循環させ続けたりしながら手術しなければ出来ないような高度な医術で、紀元前4世紀に出来るような話ではない。
心臓が切り離されて新たな心臓が縫合されるまでの間、全身に酸素を送るために酸素を補填しつつ二酸化炭素を除きつつ血液を循環させる装置と、胸骨を切り開いて心臓がある箇所を剥き出しにして手術を行う必要があるのだから、その間に患者が動かないようにする全身麻酔、その大規模な手術を衛生的に行える環境、移植用の心臓を新鮮なまま保管する技術、失われる血液を補う輸血用血液、その血液を血管に送る方法、胸を骨ごと切り開いた手術の後に、食事を取れない患者の栄養を補給する点滴、そんなものはあの時代にはない。
アリストテレスが言っている元どおりではない云々については、当時から見たら超高度な現在日本の医療体系であったとしても、瀕死の重傷を負ったならリハビリが必要で、以前のようには動けないのは当たり前の話で、結局、作中の予定だと東征に出発するつもりであったけれど、それが出来ないという話で、フィリッポスがアンティゴノスとして留守役をやるという話のためという判断が、今存在する材料で導き出せるせいぜいの答えになって、それ以上の事は分からないから、僕は分からないと素直に言う。
一時的に心停止する重傷とか、手術したからはい元通りとか普通は行かない。
…そうでなければ、元通りフィリッポス王にはなれないから、新たにアンティゴノスになるというだけの話かもしれない。
もう公衆の面前で先王は死んで、アレクが下手人を成敗して、その場に居た全員がアレクが新たな王であると認識していたのだから、元通りフィリッポス王として復帰は出来ない。
アンティパトロス視点からしても、心停止からの復帰でも死者蘇生である以上、冥界に行ったというのに帰ってきた人間について、それは前と同じ人間ではなく、化け物や神の配慮に背く異物でなのではないかと危険視するのは、割と普通の発想なのではないかと個人的に思う。
後は戴冠の儀式と公布をするだけで、事実上、次の王につつがなく王位継承は済んでいるし、冥界から帰ってきたバケモンなんて、余計な災いを被る前に始末しようと考えるのは突飛とは思えない。
けれども、何十年もフィリッポスとアンティパトロスは一緒に生きてきて、一緒の戦場で戦っていて、立場がなければ友人であったような関係で、まだ生きようとするフィリッポスの傷だらけの手を見て、殺すことが出来なかったという流れだと思う。
とはいえ、アリストテレスやアンティパトロスのあの意味深な言及についての実際の所は、今僕が言及した意味であるのか、それ以上の含意があるのか、今ある材料からでは良く分からないとしか言えないけれども…。
加えて、アリストテレスらが助けた人物の顔に布がかけられているから、あれはフィリッポスとは限らないという判断があったり、アリストテレスが物凄い手術をして、あれは脳と心臓以外別人なのではと言っているような人も見たことがある。
(https://x.com/primopiatto/status/1813085645679788109)
ただ、そういう発想は間違った推論であると判断できる材料が普通に12巻では描写されている。
…なんというか、パウサニアスに刺されたフィリッポスの手に存在する傷と、アリストテレスが手術した人物の手に存在する傷が全く同じで、普通に同一人物で、同じフィリッポスの肉体であるとしか判断できない。
(12巻p.127,pp.130-131)
刺された時にフィリッポスの手はこのように描かれていて、手術を受けた後は以下のように描かれている。
(12巻pp.167-168)
この二つの手を並べて傷を見れば、それらが同一のものだということが分かる。
(12巻p.130,p.168)
ここで描かれる手をよく見ると、手首の直ぐ上辺りの手の甲に十字傷があって、そこからこの手の持ち主が同一人物であると分かる。
岩明先生にしても、同一人物と分かるように十字傷を用意したわけであって、同一人物の同じ手であるという判断以外は間違いとしか言いようがないと思う。
そして、そのように反証は実際存在している一方で、そのような凄い手術を行ったという話の根拠は、それを言っている人の思い付き以上のそれは存在していないと思う。
別に…作中にそのように断定できる描写ないですし…。
結局、そうであったら面白いアイディアがあったところで、それを論証したり検証したりして、その事が正しいと対外的に示す根拠を求めない限りにおいては、それらは全て思い付きで、そこから敷衍される思弁は、ただの妄想の域を超えることはないと思う。
作中にそれをそうと出来る材料が描写されていない限り、それはただの思い付きで、こういう時の"考察"という営みでは、その思い付きを論証もせずにそのまま結論とする場合がかなり見受けられる。
個人的にそのようなやり方にあまり関わりたいとは思えない。
…。
色んな漫画の解説を書いてきて、そういう思い付きが送られてくるというパターンは多々あって、そう思いついたのは分かるけど、論拠が作中の描写に一切ないし、反証材料描かれてるじゃん…と思う事は割と多い。
これは僕が書いた何かを『ヒストリエ』12巻が発売されたからという理由で読んだ人から来たコメントと、それに対する返信ですね。
(6巻p.42)
ちなみに、アレクはヘファイスティオンになる時に化粧をする習慣があって、アレクはアリダイオスの玩具が壊れた時に泣いていて、その泣いている顔をよく見ると、涙でヘファイスティオンがした化粧が崩れているので、直前までヘファイスティオンだったと描写されていると分かる。
(7巻p.16)
(6巻p.37)
まぁ何でアレクになった時に蛇の痣の化粧は取れてるのかは分からないけれど、ヘファが操縦席に座ると化粧を直ぐするように、アレクが操縦席に戻ると、まずその辺りの化粧を拭うという習慣があるのかもしれない。
化粧は落としたけれど、全部は落ち切れてないから涙は跡として残ったとか、多少の不都合は無視してもアレクが操縦していると示すために痣が必要だったから描かれてるとか、岩明先生が直前までヘファだから化粧崩れを描くことを思いついて、一方で蛇の痣は化粧で隠れているはずだということを失念したとか、そういう解釈は出来て、ただどの道、この事はアリダイオスが玩具を壊したという主張とは関係はない。
個人的にはアレクに戻ったら左目の上あたりを手でこすって、蛇の痣をまず出すんじゃね?とは思っている。
アレクがヘファから戻っても化粧を放置する習慣だったら、蛇の痣の有無は人格の判別材料にならないので…。
まぁともかく、この引用の場面の直前にアリダイオスは玩具を壊されて泣いているので、そういう風に直前まで乱暴者で性格が悪く他人から物を奪ったり暴力を揮うと描写されているヘファイスティオンであったと示されているのだから、この話が現代文の問題であった場合、玩具を壊したのはヘファだという答え以外は点数が貰えないような内容だと思う。
(6巻pp.35-37)
しかもアリダイオスの顔は殴られていて、アレクが貸してよって言ってちょっと借りたらアリダイオスが癇癪を起して壊してしまったって状況でもないことも分かる。
(6巻p.35)
顔に殴られた痕あるんだから良く読んでからコメントして…。(切実)
僕は議論が嫌いで、言い負かすのも言い負かされるのも好きじゃないから、そもそも僕にそういうことをさせるなと思う所はある。
あなたがそうと強く思うのは、個人が勝手にそうと思う分にはそれで良いと僕は思っていて、ただ他人にその意見を正しいと納得させたいのなら、それ相応の根拠は絶対的に必要だろうと僕は思う。
それでもなお、玩具を壊したのはヘファ以外だと主張する場合、まず僕の示した反証である、アリダイオスの言葉および顔の傷、アレクの顔の涙の痕について、それが僕が言及した意味合いではないという論証をした後に、更にあれがヘファ以外の犯行である根拠を作中から拾い出さなければその主張は通らない。
その辺りを相手が納得できる形で確かにやらなければただの思い付きで、僕はあの日、何故根拠のない思い付きに対して何か返さなきゃならないのかと思う部分は確かにあった。
だって、先のコメントはそこまでではないけれど、丁寧にこれこれこういう理由でその主張は間違っていると思いますと伝達しても、「分かりました」の一言があることさえも皆無で、せめて分かったのかどうかくらいは言ってよ…って思う事が常だから…。
当然、先のコメントも返事はない。
ここ3年くらいでこういう場合で「分かりました」の返事があったのは多分、まともな形の応答としては一回だけだと思う。(追記:この記事を書いてから投稿するまでにプラスして一回ありがたいことに分かったという返事があったということがありました。…ただそれだけでありがたいという現状についてはどうかとは思うけれども)
更に自分がしたい質問を続けるために、形式的に分かりましたと言って質問の文章を繋げた人物なら居はしたとはいえ、分かったという返事が来るということはまずもってない。
分かったら分かったって返事くらい欲しいってのは異常な発想なんでしょうか。
Yahoo!知恵袋でさえ質問に対して答えがあったら「分かりました、ありがとうございます」くらいはあって、早い話、知恵袋以下の対応しかされていないのに、僕はよほどのことがない限り律義に返事を返している。
自身が文章を投稿した場所は、5chやまとめサイトの掲示板のコメント欄ではないということを理解出来ていない人は多い。
とはいえ、そういうものだとは理解しているから、どうしようもない話だと考えていて、ただ返事が返されることがない対話を毎回続けることに僕が虚しさを覚えるだけの話にはなる。
更に食い下がる隙があったら食い下がるだろうから、返答がなければ食い下がる不備はなかったと処理している。
むしろ心拍数が上昇する機会が減るのだから…って。
そもそも、コメント自体を欲していないとは言明はしていて、それでも迷妄な判断に陥った時や、単純に間違ったことを記事に書いた時にコメント欄がないと修正は出来ないからコメント欄は廃止できなくて、一方で僕がコメントを欲していないと言及すると、僕に善意を示す心持ちがある人は善意でコメントを控えて、僕を踏みにじっても構わないという心持ち人だけが悪意でコメントを残すという地獄みたいな状況が発生するので、要らないともはっきり言えなくて、中々厳しいものがある。
それでも善意に基づくコメントは励みに…なるかはさておいて、気分が害されることはないとは思う。
クソみたいなコメントを貰い過ぎて、コメントがあるという通知があるだけでキュッと心臓が締め付けられるような苦痛を味わうのは、あの日からずっと今日まで変わらないけれども。
それと意見をぶつけたからには反論があった時に、その内容に納得出来たらそうと言ってくれという話であって、さもなければ質問があって僕がそれに答えたというのに、そこに返答がないと分かったかどうかも分からなくて虚無感がエグいという話なのであって、コメントしたなら僕と二回以上やり取りをしろという話では、ないです。
この記事を書いてから、一回目の応答でやり取りが完結しているというのに、無理に二回以上のやりとりを続ける人が現れて、でもそんな話を僕はしていないから色々ね…。
まぁいい。
話を『ヒストリエ』の"アイディア"に戻すと、『ヒストリエ』の遅筆の原因が、執筆当初に想定していた、それまでヨーロッパとアジアという二つの文化の中間的な存在として描かれたエウメネスをその二つの文化の懸け橋として描く構想が、時代の変化で成り立たなくなったからなのではないかと考察していた人が居たらしい。(未読)
ただ、その発想も間違いであると言えると思う。
何故というと、そのような所に『ヒストリエ』のエウメネスが目指すものがあるとすると、エウメネスが剣術が得意な設定や、逃げ足が速いという設定は必要ないからになる。
『ヒストリエ』のエウメネスは絶対に剣術が得意でなければならなくて、何故というと、ディアドコイ戦争でエウメネスは書記官という文官の癖に、ガチガチの武官と馬上で一騎打ちをしていて、そのままもつれ合って、大王の東征を生き抜いた屈強の将軍ともみ合いになって落馬して、落下した地面でお互いに切りつけ合うという死闘を繰り広げているからになる。
結局、エウメネスは書記官で、書記官であるならばステータス的に知略と統率が優れていたとしても、武勇は優れていない諸葛亮タイプの武将のはずになる。(コーエー脳)
けれども、原作である『英雄伝』ではガッチガチの剣による死闘を武官と繰り広げていて、その場面を描く為には、エウメネスが何処かで剣術を修めた描写が絶対的に必要になる。
例えるなら、横山光輝先生の『三国志』の諸葛亮が総大将として魏の大軍とぶつかって、普通に乱戦の中で馬に乗ってそのまま魏の張郃に一騎打ちを仕掛けて互角の勝負を演じて何合も交わすような話であって、そこまでに彼が剣術を修めたという描写やそのような状況に至る納得できる伏線を入れない限りにおいて、ちょっとその場面は見てられないような状況になる。
そんな展開の作品があって僕が読者だったら、その場面で「いやー、キツいッス(素)」と思って読むのやめると思う。
けれども、『ヒストリエ』のエウメネスは剣術が達者であって、『ヒストリエ』の描写ならディアドコイ戦争で武官と一騎打ちしましたって言われても、まぁ…と納得できる話になっている。
原作の方でも『ヒストリエ』で描写されるように、幼少期に拳闘に秀でていたという記述はあるので、伏線自体は存在している。
そうした話は、剣術などが得意であるという前置きがなければ、「書記官だと馬鹿にされ続けた俺は実は剣術の達人だった。今更ペンと書きもの板で王に仕えたと侮って俺に一騎打ちを挑んだことを後悔してももう遅い」でしかない。
…。
話は逸れるけれど、『ヒストリエ』読んで"なろう小説"だと言っている人が稀に見られて、ただそれは逆ですからね。
『ヒストリエ』が所謂なろうに似ているのではなくて、なろうに『ヒストリエ』を材料に使った作品が紛れてるだけと理解した方が良い。
『ヒストリエ』を読んだ人がなろう展開書くあたって、スローライフとかを目的に村落に居て敵軍が襲ってきたら、そりゃボアの村を念頭に展開を考えるのは当たり前の話でしかない。
『ヒストリエ』がなろう展開なのではなくて、なろうが『ヒストリエ』展開をやってるだけだろうと僕は思っている。
なにせ、連載開始が20年以上前で、中高生の頃に『ヒストリエ』を読んだ人がなろう小説を書くなんて、たくさん起きているとしか想定できないのだから。
『絶対可憐チルドレン』でも「よくもだましたアアアア!!」ってセリフあるし、『ヒストリエ』のパロディは色んな作品で見られて、そのパロディがあった作品の作者は『ヒストリエ』の読者で、『ヒストリエ』はそれくらい多くの"作家"に読まれている。
なろう系の作品、女性向けの聖女とか令嬢とか後宮とかが出てくるタイプの作品のコミカライズしか基本的に読まないから詳しくないけれど。
話を戻す。
結局、『ヒストリエ』の目指すところは本来的にディアドコイ戦争であって、そうでなければエウメネスの剣術の修練も、逃げ足が速い設定も必要はない。
(1巻p.197)
(5巻p.82)
原作の『英雄伝』のエウメネスは、『逃げ上手の若君』を一回り小さくして現実的にした程度には逃げ上手で、最初っからディアドコイ戦争に『ヒストリエ』のエウメネスが向かう先はある様子がある。
(5巻pp.124-126)
この一連の話も、ディアドコイ戦争でのエウメネスの話で、それくらいエウメネスは殺しても死ななくて、今後描く予定のディアドコイ戦争のための布石としてこのような挿話があったと僕は考えている。
けれどももし、エウメネスの目指す先がギリシアとペルシアの懸け橋となることにあるとすると、この挿話自体が物語のノイズになる。
そこにエウメネスの目指す先があるとすると、彼が戦場においてでどのように振舞う将軍であるかの話は必要がない。
そもそも、エウメネスが中間的な価値観を持っていることについては、ディアドコイ戦争でどの陣営とも馴染めくて、味方に裏切られるし、裏切られるから同僚からワザと金を借りて、その返済を遅らせて、エウメネスが死んだ時に、貸した金が帰ってこないことを恐れた同僚を"味方"に仕立て上げたりしていて、同僚の将軍に味方が居なさ過ぎたことが彼が苦しんだ理由になっている。
『英雄伝』でエウメネスは同僚から蛇蝎の如く嫌われている。
だから、ギリシアにもペルシアにも"馴染めない"から中間的なのであって、別に宥和はエウメネスの仕事ではないし、インドに至るまでただの書記官で、宥和をはかれる立場でもない。
だってエウメネスがインドで軍を初めて率いるまで仕事は、大王や勇猛なマケドニア軍の記録を書くことで、宥和など他人に示せる役職にエウメネスは居ない。
(1巻袖より)
ちなみに原作の方だと、エウメネスの進言はアレクに無視されている。
「 レオンナトスはギリシャに渡ることを決し、エウメネースに同行を勧めてヘカタイオスと仲直りさせようとした。と云うのは、この二人が親の代から政治的な不和に基づく疑念を互いに懐いていて、エウメネースは度々公然とヘカタイオスの独裁政を非難し、カルディア―の住民に自由を回復させることをアレクサンドロスにも勧めていたのである。(同『プルターク英雄伝』 8巻 p.44)」
エウメネスはアレクにカルディアの僭主ヘカタイオスを除くように提案していて、けれども、大王が死んだ時点でもヘカタイオスは未だに僭主である以上、エウメネスの提案はアレクに採用されていない。
そんな立場の彼が、文化の懸け橋になるために動いても、何かがどうかしたりするとは個人的には思えない。
…ていうかそもそも、エウメネスの居たボアの村はギリシア系住民の村(推定)だから、エウメネスは別にペルシャの文化知らないんだよなぁ。(参考)
まぁ中間的云々は、3巻の袖の部分にあった記述だと思うので、『ヒストリエ』が好きで、そんな所まで読んでいるんだなぁとは思うけれども。
最後に、『ヒストリエ』12巻に出てきた泣いて生き残った兵士について、あれはセレウコス朝シリアを作ったセレウコスなのではないかと言っている人をX上で見たことがある。
(https://x.com/34MY4416/status/1815003944093163993)
…投稿を埋め込もうとしたら投稿自体はどのブラウザで見ても普通に存在するのに、X上の処理としてこの投稿は削除扱いになっていて、埋め込みの作業をしたらシステムに拒否されたからスクショを選んだ。
僕はこの発想について、もしかしたらその可能性はあるのかもしれないなと思ったので、初出?の出典付きでその話はすることにした。
実際の所、デモステネスの解説の時に言及したけれど、デモステネスの顔は彼のものとされる胸像から造詣が選択されているようで、残っている顔と『ヒストリエ』作中のデモステネスは特徴を共有している。(参考)
だから、既に前例としてそのような肖像画のようなものを作中のキャラクターの顔に選ぶという行為を岩明先生はしていて、実際、セレウコスのコインとあの兵士は似ていると言われれば、少しふくよかな点や眉の高さを含めて、似てると言っても過言ではないレベルで似てはいる。
そして、あの兵士のようにうだつが上がらなくて問題のない、今後の東征やディアドコイ戦争に出てくる将軍は、セレウコスくらいしか候補が居ない。
一応、僕の方でもこの弱虫兵士は今後登場させるつもりであろうと踏んだので、『英雄伝』などで該当する人物を考えた時に、アンティゴノスの部下のオノマルコスかな?と思って、彼についての記述を検証していて、ただ、『英雄伝』に記述されるところの彼のセリフがあの兵士のイメージと合わないという事情があって、ほなちゃうかーと思ったという過去があったりする。
…別に間違いと分かったならそれでその話は終わりで、こういう違うという結論が下された検証が、公開されている記事の裏で無数に存在しているんです。
結局、セレウコスはディアドコイ戦争まで空気な将軍で、東征でロクに働いてないのにいきなり頭角を現してディアドコイ戦争で活躍して、セレウコス朝シリアという、世界史で習う王朝を作った人物で、その人物が『ヒストリエ』の物語の段階でうだつが上がらないのは全くおかしくない。
なんというか、途中で『センゴク』の浅井長政みたいに覚醒させればいいわけであって、覚醒でなくても成長は他の漫画でもある以上、あれがセレウコスである可能性は存在していると思う。
セレウコスが頭角を現すのはあの場面から14年以上後だから、いくらでもどうにでもなる。
逆に『ヒストリエ』の時間軸の時点で優秀であったなら、東征の時は何してたんだという話になって、同じようにディアドコイ戦争で急に出てくるアンティゴノスは『ヒストリエ』では密かに先王であるという立場上、大王が死ぬまで動かないのは分かる一方で、セレウコスはむしろ、あの段階では風采が上がらない方が説得力がある。
ただ…『地中海世界史』を確かめたら、大王の死の直後の会議で既にセレウコスは陣営の最高指揮権を委ねられていた。
そこまで彼についての記述は各巻のあらすじを除けば全くの0で、急に出てきて急に最高指揮権貰ってて、普通に良く分かんないっすけどね。(素)
『歴史叢書』でも大王の死まで名前が一度たりとも出てきていないのに、大王の死後の会議でヘタイロイの指揮官に任命されている。
この役職は前任者がこの時期のマケドニアで最も権力を持っていたペルディッカスで、その前がヘファイスティオンなのだから、どれ程に地位が高いか分かるというか、ペルディッカスは摂政になる前に地位が高くなければ大王の死後に摂政になれないわけで、その事からこの役職の重要さが分かる。
『アレクサンドロス大王東征記』では大王の死の2年くらい前のインドでの戦いに至って初めて名前だけ出てくるようで、こいつ本当にこれまで何してたの…?って感じのそれになっている。
しかもただセレウコスとだけ書かれていて、彼が今話題にしてるアンティオコスの子セレウコスなのかは分からないし…。(同名の別人というパターンがかなり多いため)
『地中海世界史』や『歴史叢書』のように、最高指揮官やヘタイロイの指揮官になったというのなら、あの兵士のあの泣き顔とイメージに合わないけれども、インドで出てくるセレウコスがそのセレウコスであった場合でも、この戦闘は『ヒストリエ』のあの場面から12年後であって、それだけ時間があればいくらでもどうにでもなる。
結局、赤子を殺す意気地がないだけで、その事は他の実務能力に関係ないというか、彼が兵を率いたり、戦場で勇敢に振舞うということと嬰児殺しの拒絶は関連性がないわけで、将の死によって彼に指揮官のお鉢が回ってきて、軽い気持ちで指揮官をやらせたら驚くほどに適性があって、それを見た同僚は彼を認めざるを得なかったとかいう展開であれば、あの兵士がセレウコスであったとしても問題はない流れになる。
別に覚醒して強くなってもいいし、今までその素質が披露される機会がなくて、インドで指揮官やったらその素質が認められたって展開でも成り立ちはする。
実際の所、何故史書に彼の記述がないかとかは分からないけれども、可能性として考えられるのは、彼は元々ペルディッカスの部下で、ペルディッカスの配下に居たから名前が出てこなくて、そのペルディッカスが摂政になったから、彼の腹心が彼の役職を受け継いだとかそういう話なのかもしれないと個人的に思う。
それだったらあの人事も分からなくもない。
それはともかく、『歴史叢書』でエウメネスはセレウコスに戦闘で敗北していて、あの兵士がセレウコスであった場合、ネアルコスが言うように詰めが甘かったの実際そうだったという話になる。
「 アンティゴノスの動きを知った後、エウメネスはプトレマイオスに不正に占領されていたフォイニキアの諸王を復位させようと考えた。しかし事の成り行きに先を越され、彼はフォイニキアを離れ、コイレ・シュリアを通って高地諸州と呼ばれた地域と連絡を取ろうと考えて軍と共に進んだ。しかし、ティグリス川近くで住民たちが彼に夜襲を仕掛け、そのために幾らかの兵士を失った。似たようにしてバビュロニアではセレウコスがエウフラテス川近くで彼を攻撃して全軍を失う危機に陥った。(参考)」
この文章を読む限り、エウメネスはセレウコスに壊滅寸前までというレベルでボロ負けした様子がある。
だから、詰めが甘いというネアルコスの台詞はあの兵士がセレウコスであったなら遠い伏線として成り立つような話にはなる。
とはいえ、そのような話は大王が死んだ後の話で、答え合わせは岩明先生がインタビューでこの話をしない限りあり得ないわけで、僕もこれを読んでいる人も、セレウコス云々を言い出した先の人も、そうなのかなぁ…と思って終わるだけの話なのだけれど。
…いつもだったら大体言い出したのは僕だから、その言及の責任は僕にあって、それが故にいつも自分が書いたものは間違っているのではないかと酷く怯える"ザマ"になっていたけれども、セレウコスの件は言い出したの僕じゃないから、いつもよりは責任が僕になくて、気持ち的に少し楽だなと思いました。(小学生並みの感想)
僕としては、言われてみれば確かに、あの兵士がセレウコスという可能性もあるかもしれませんね…程度なので…。
さて。
今回の話を総括すると、結局、色んなアイディアが浮かぶということは漫画を読んでいたらそれは起きることで、ただそのようなことは思いついたというだけではその事が事実かどうかには関係がない。
漫画を読む分には個人でどんなことを抱いてもそんなことは個人の問題で好きなように思えばよくて、ただそれを外に出すときはやはり、その事が正しい事であると他人も理解できるような根拠や証拠がなければ、ただの妄想と相違はないと個人的に思う。
アイディアが浮かんだところで、それを外にお出しする場合には、作品をよく読んだり、必要ならば資料に目を通したりしてより確かにしない限り、難しいこともあるだろうと僕は考えている。
まあ、だいたいそんなお話だ。
では。