人の器のその価値は | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は小さなトピックを用意して色々書いていくいつものやつをやって行くことにする。

 

普通に前回書いた『殺し屋1』であの記事で書き切れなかった話についてを次の記事にする予定だったけれども、ふと気になったことがあって、その事についてクソ真面目に調べたら想定外の事実が判明したので、その事についてまとめて、それに際して出来上がった文字数が規定量に到達しなかったら、もう一つ日記を書くのを事実上停止して半年以上経って出てきた"澱"のようなものの中から適当な話を用意するという方向性でやって行きたいと思う。

 

まぁ裏で鬼頭莫宏先生の作品の解説をあのサイトでしていて、漫画の話は今はもういいかなと思っている部分もある。

 

表題に対して、内容がねっとりとし過ぎていた記事だし。(参考)

 

それはともかく、持ってくることにする。

 

・妲己・喜媚の三分クッキング

漫画の『封神演義』で、周の文王の長男である伯邑考がハンバーグにされて食わされるシーンがあるんだけど、あれって『史記』の本文にはないんだよな。

 

古代中国では人肉食の話は目立つほどではないとは言えちょくちょくあって、けれども、伯邑考の長男が食われたという話は『史記』の司馬遷の時点ではなかったらしい。

 

実際、Wikipediaの「伯邑考」のページにはその話が『史記集解』に書かれているとある。けれども実際に『史記集解』を読んでもそんな話書かれてなかったんだよなぁ…。

 

以上。

 

『封神演義』というのは日本で言うと、元の小説よりも遥かに、藤崎竜先生の漫画の『封神演義』の方が有名だと思う。

 

その漫画の方の『封神演義』には、周という国の国主の長男である伯邑考がハンバーグにされるという場面がある。

 

(藤埼竜『封神演義 完全版』3巻pp.120-125)

 

この場面があるから…というか、古代中国の殷の時代の知識なんてものは、大体の日本人が持っているわけもなくて、唯一触れる可能性があるのがこの漫画の『封神演義』だから、実際に伯邑考という人物はなんらか料理にされたと思っている人が居ると思う。

 

まぁそうと言うより、伯邑考なんてモブキャラを覚えている人の方が少数で、けれども、人肉ハンバーグのインパクトは強烈過ぎるから、古代中国ではそのように人間を料理にするという文化があったと思い込んでいるような場合もあると思う。

 

そうと言えどもこの話には問題があって、それが何かというと、『史記』の本編にはそんな記述はないということになる。

 

ないもんはないんだから、この場で文章を引用することは出来ないし、そもそも、『史記』で伯邑考についての言及は、「世家」の「管蔡世家第五」に二か所あるだけになる。

 

『史記』の「世家」というのは、周の時代以降に王朝を支えた諸侯についての記述で、周が殷を倒した後に、各地に封土された諸氏と、秦が滅んだ後に漢が出来て、その漢王朝に封土された人々についての記述がされている。

 

その中の周の初代である武王の兄弟たちの中で、武王の死後に反乱を起こした管叔鮮と蔡叔度という人物が居て、その蔡叔度の子孫が蔡という国を作っていて、その話をする中で、伯邑考についての一度目の言及がある。
 
「 管叔鮮と蔡叔度は、周の文王の子で、武王の弟である。武王の同母の兄弟は十人居た。母を太姒といい、文王の正妃であった。その長子を伯邑考といい、次子を武王発といい、その次を管叔鮮といい、その次を周公旦といい、その次を蔡叔度といい、その次を曹叔振鐸といい、その次を成叔武といい、その次を霍叔処といい、その次を康叔封といい、次を冉季載といい、冉季載がもっとも年少であった。同母兄弟のうち、ただ発と旦が賢明で、左右から文王を補佐した。それゆえ、文王は伯邑考をさしおいて、発を太子とした。文王が崩御して、発が立った。これが武王である。伯邑考はすでにその先に死んでいた。(司馬遷 『世界文学大系 6A 史記』 小竹文夫訳 1962年 pp.236-237)」
 
こういう風に文王の子についての記述があって、この記述がある「管蔡世家第五」は文王の五男である蔡叔度の息子が作った蔡の国についての話をするから、その前提のために蔡叔度がどんな人物かという説明の文章になる。
 
そこに、殷を打倒して周を建てた武王の兄の伯邑考の記述があって、ただ武王発が有能だったから発が跡を継いで、発が武王になった時には伯邑考は既に死んでいたとだけある。
 
そういう風に周王朝が建国される前に死んでいるから、他の兄弟と違って何処かに封土されたということも無いらしくて、その話は同じ「管蔡世家第五」にある。
 
「 伯邑考の子孫は、どこに封ぜられたのか分からない。武王発の子孫は周の天子になったこと本紀に記載されている。管叔鮮は乱を起こし、誅殺されて子孫がなかった。周公旦は、その子孫が魯の君になった。世家にその記載がある。蔡叔度は、その子孫が蔡の君になった。世家にその記載がある。曹叔振鐸はその子孫が曹の君になった。やはり世家に記載がある。成叔武の後世については、ほとんど何も知られていない。霍叔処の子の霍国は、晋の献公の時に晋に滅ぼされた。康叔封は、その子孫が衛の君になった。世家にその記載がある。冉季載は、その後世について、何も知られていない。(同上『史記』 pp.238-239)
 
…この文章の「霍叔処の子の霍国は、晋の献公の時に晋に滅ぼされた。(同上)」という箇所を見て、古代中国春秋時代の戦争は国が滅ぼされることのない牧歌的なそれで、戦国時代に至って殺伐とした世界になったとか言っている人は、何を見てその話をしているのだろうと僕は思う。
 
晋の献公は紀元前676年に即位で、戦国時代の100年以上前に生きた人物だし、武王の妾腹ではない兄弟の国だと、霍に加えて曹と蔡も春秋時代に滅んでいる。
 
更には初代武王の子である二代目成王の兄弟の国も晋以外のマイナーな国も全部春秋時代に滅んでいるし、春秋時代と戦国時代の区分は普通、晋の分裂で趙、韓、魏が出来た時点とするのだから、成王の兄弟の国は全て春秋時代に他国に攻め滅ぼされている。
 
まぁ三国分裂の後にも晋は細々と残っていたけれども、死に体だったから実質滅んでいるのと大差はない。
 
それはともかく、『史記』にある伯邑考は以上で、そこに彼の死因についての記述は一切ない。
 
けれども、『封神演義』には殷の紂王に料理にされたという話があって、それは何なんだという話になる。
 
この伯邑考についてはWikipediaに以下のような記述がある。
 
「『史記集解』が引く『帝王世紀』によると、文王が殷の紂王によって羑里に捕らわれたとき、伯邑考は殷の人質であった。後に紂王は伯邑考を醢尸の刑(身体を切り刻む刑)で誅殺して、釜茹でにして食肉にされた後にその羹(肉汁)にして、文王に与えた。紂王は「聖人ならその子の羹を食わないだろう」と言った。それを聞いた文王は羹を食べた。紂王は「誰が西伯(文王)を聖人などと言ったのだ?その子の羹を食べてなお気づかないではないか」と言った。 (参考)」
 
僕はこの記述があるから、伯邑考が料理されたという話は『史記』本文にはなくて、注釈でその話がされている、後世の創作だろうと前々からこの話を処理していた。
 
仏教ではそういう話がかなり多くて、本文にそういう記述はないというのに注釈でその話がされているから、その事が仏陀の教えとして扱われているという話も結構ある。
 
仏陀がネーランジャラー河で苦行をした話は例えば『マハー・サッチャカ・スッタ』にあるけれど、そこに苦行の終わりに乳粥を飲んだという話などないし、スジャータという人物は出てこない。
 
じゃあその話が何処でされているのかは現在でも僕にとっては不明瞭で、後世の大乗の経典か、さもなければ小乗の原始仏典への注釈のどちらかにその話があるのだろうと、僕はこのことを処理している。
 
だから、伯邑考もそういう注釈にしか言及のない話なんだろうと思っていたところ、今回、先のWikipediaの記事で語られるところの『史記集解』にはそんな話はないということが分かった。
 
寝る前の半分寝ぼけた状態でその作業をしていたから、どういう動機で伯邑考の『史記』の注釈の記述を調べようと思ったかは今思い出せないけれども、とにかく、今現在存在している『史記』の注釈の全てを確認するという作業を行っていて、その中で『史記集解』には伯邑考が殷の紂王に誅殺されたという記述が存在しないということを確かめている。
 
『史記』の注釈は三つあって、それぞれ『史記正義』、『史記集解』、『史記索隠』が現在まで残っている。
 
逆にこれ以外に『史記』の注釈はないようで、少なくともネット上に文章があるのはこの三つだけだった。
 
作業としては簡単で、ネット上にこの三つの注釈があって、そこでは文献ごとの文章の検索が可能だから、それぞれの文章に伯邑考と入れて、出てきた中国語の文章を読むだけのそれになる。
 
とにかく、そういう検証作業をしたから、それぞれの注釈書の記述を見て、そんな記述があるのかを見ていくことにする。
 
まず、Wikipediaにある『史記集解』から。
 
結果としてそもそも注釈に伯邑考の記述すら存在しないということが分かった。
 
えぇ…。
 
検索しても何も検出されないから不安になって、先の記述だと「『史記集解』が引く『帝王世紀』によると」という言及があって、『帝王世紀』の著者は皇甫謐で『史記集解』だと「皇甫謐曰(皇甫謐が言うには)」と、彼の著作の言及を引用しているから、検索して「皇甫謐曰」で出てきた65語箇所の中国語で書かれた注釈を全て確認するという作業をしていて、その結果としてこの本にはそんな記述は存在していないということが分かった。
 
…。
 
殺すぞ。
 
これ以上『史記集解』についてはどうしようもなくて、けれども、他の注釈書には言及がある可能性がまだ残っているので、次は『史記索隠』を見ていくことにする。
 
『史記索隠』については、原文を確かめたところ、『史記』文中に出てくる言葉の中で文意を補足した方が良いそれについてを抜き出して、それについての説明をしている類の注釈書だということが分かった。
 
その中で『史記』の著者である司馬遷の自伝である、「太史公自序七十」には「太任には十人の子があったので宗室の力が強くなった。(司馬遷 『世界文学大系 6B 史記』 小竹文夫訳 1962年 p.438)」という文章があって、そこについての注釈においてのみ、伯邑考という語が確認出来る。
 
ちなみに、太任というのは周の文王の奥さんの事で、文王は奥さんが十人の男子を産んだから、王家の力が強くなったというのが先の文章の文脈です。
 
その注釈は「太任文王妃子十子伯邑考武王管蔡霍魯衛毛聃曺是也。」という文章になっていて、文意は「太任は文王の妃であり、十人の子とは、伯邑考、武王、管、蔡、霍、魯、衛、毛、聃、曹のことである」というそれになって、伯邑考は国を作ってないからそのままで、武王は周を作ったことで言うまでもないから武王で、その後はその人物の作った国の名前が列挙されていて、『史記』本文では不明とされた、成叔武と冉季載の国はどちらがその国を治めたかは不明にせよ、毛と聃という国に封土されたと書かれている様子がある。
 
僕としては『史記』の司馬遷の時点でその二人の封土された国が分からないというのに、唐の時代を生きた『史記索隠』を書いた司馬貞がそれを知る由もないと思っていて、少なくとも"毛"の方は、文王の庶子である毛叔鄭が作った国である様子があって、この注釈は間違いらしい。
 
『春秋左氏伝』の「僖公24年」の記事には、「むかし周公は二叔(二人の弟)と不仲を哀しみ、その親戚を封建(国を建てる)して周の藩屏(譜代大名)としました。管、蔡、郕、霍、魯、衛、毛、聃、郜、雍、曹、滕、畢、原、鄷、郇は文王の子の国であります。邘、晋、応、韓は武王の子の国であります。蔣、邢、茅、胙、祭は周公の国であります。(左丘明 『世界古典文学全集 13 春秋左氏伝』 貝塚茂樹訳 筑摩書房 1970年 p.82)」とあって、文王には先に言及した十人以外にも子供がいて、それぞれが違う場所に土地を貰って国を作っていたらしい。
『史記』で司馬遷が文王の正妃の10人の子についての言及を色々していて、それ以外にも文王の子の国があるというのなら、それは非嫡出子であると考えるしかなくて、周の文王は滅茶苦茶子だくさんだったらしい。
 
ちなみに、武王の後に言及がある周公というのは、武王の弟の周公旦で、彼は古代中国では名宰相として有名で、『論語』には孔子が周公旦の夢を見なくなったことを言って、自分が衰えたと語る話が収録されている。
 
ともかく、司馬遷の語るところの文王の正妃の子以外の国が『春秋左氏伝』には列挙される形で語られていて、そうとすると『史記索隠』で正妃の子の国と語られる毛と聃に関しても、『史記』でそれらの国は正妃の子の国であると語られていないのだから、あれは文王の妾腹の子の作った国で、そうとなると『史記索隠』の言及が間違っているのだろうという話にはなる。
 
正妃の子は10人であると語られて、けれども、文王の子の国は16か国言及されているのだから数が合わなくて、だとするならばそれらの国は妾腹の子の国であるとしか判断できない以上、毛と聃に関しても正妃の子の国ではないのだろうと僕は思う。
 
…。
 
ここで記述のある国の中だと、魯と衛と滕以外全部の国が春秋時代までに滅んでるんだよなぁ…。
 
しかも当時は文王の血族による国以外も普通にあって、更には鄭とか3代目以降の周の王の兄弟の国も普通にあって、それだというのにそれらの国は無数に滅んでいて、僕は普通に春秋時代は殺伐とした時代だと思うし、春秋時代に書かれた『司馬法』も実際に読んでみると殺る気マンマンというか、従軍経験のあるリアリストが書いていると思われる箇所がある。
 

『春秋左氏伝』と『春秋公羊伝』、『春秋穀梁伝』の「桓公七年」の記事には穀という国の君主についての言及があるのだけれども、穀についての記述はそれのみで、穀の君主が魯を訪ねたという記述があるだけで、いつからその国があるのか、どういう血筋なのか、どうして滅んだのかとかの記述は一切ない。

 

公羊伝と穀梁伝の記述を見るに、魯を訪ねた紀元前705年の時点だと既に穀の国は滅んでいたみたいだけれど。

 

そういう風に記述すらロクにない国も沢山あったわけで、そういう国は戦国時代が訪れる前に滅んでいるということも非常に多い。

 
ともかく、話を戻すと『史記索隠』にある伯邑考の記述は先の引用部分で、その注釈は普通に間違いだと判断した方が良いという話はさておいて、伯邑考については『史記索隠』には伯邑考の記述は他にない。
 
僕がこの記事を作るのに使っている、「中國哲學書電子化計劃」というサイトの検索機能に不安があったから、『史記索隠』の概要から三十巻までの全てのページで「伯邑考」でF3キーを押して検索を掛けたけれど存在していなかった。
 
『史記集解』同様に『史記索隠』には「皇甫謐曰(皇甫謐が言うには)」という記述があるので、伯邑考についての記述がある可能性が存在する全ページで「皇甫謐」で調べたけどそんな記述はなかった。
 
ちなみに『史記集解』についても不安になって、第一巻から第百三十巻の全てのページでF3キーを押して「皇甫謐」の記述を調べたけど、やっぱりそんな記述はなかった。
 
30回+130回F3キーを押して皇甫謐の著作の引用を確かめる作業をしている最中に、僕自身が自分のやってることについて、もはや狂気だろこれ…と思いつつやっています。
 
でも他に確かにする方法ないから、こうするしかなかったんだよなぁ…。
 
最後に、『史記正義』についてなのだけれど、『史記集解』と『史記索隠』にその記述がなかったから、この『史記正義』にも伯邑考についての例の話はないだろうと思っていたのだけれども、存外にこの『史記正義』には件の記述が存在した。
 
『史記正義』には「帝王世紀云囚文王文王之長子曰伯邑考質於殷為紂御紂烹為羮賜文王曰聖人當不食其子羮文王食之紂曰誰謂西伯聖者食其子羮尚不知也」とあった。
 
僕が簡単に日本語訳にすると、
「『帝王世紀』が言う所では、周の文王が捕らわれた時に、紂王のために殷において人質にされた文王の長子である伯邑考は、紂王に煮られ羹(スープ)にされ、それを文王に下賜して(紂王は)言った。「聖人はその子の羹を食うことが出来ない。」文王はこれを食べた。紂王が言う「誰だ西伯(のちの周の文王)を聖者であるといったのは、その子の羹をなお知らずに食べたではないか。」」
って感じだと思う。
 
…漢籍の日本語訳については専門的な訓練を受けたことがなくて、普通に翻訳は間違っているとは思うけれど、文意は大体あっていると思う。
 
この作業をするにあたって、最初に取り組んだのは何故か『史記索隠』で次はWikipediaにそこが出典だと言及されている『史記集解』だったから、流れ的に『史記正義』にもないと思っていたのだけれども、存外に記述があって、Wikipediaのあの記述は、『史記正義』の記憶違いであったらしい。
 
・追記
この記事を書いた当時はこの話の流れで全く問題ない話ではあったのだけれど、あれから時間が経って、2024年現在、何処かの誰かがWikipediaの「伯邑考」の記事が修正して、『史記集解』が出典と書かれていたところが、『史記正義』と正しく編集し直されていた。
 
僕がこの記事を書く前の段階だと、2007年に『史記集解』が出典だという話が初めて加筆されて、それ以降、2023年までその間違った話について誰も修正しなかった。
 
けれども、この記事が書かれて半年以内である2023年12月に正しくは『史記正義』であるという訂正が行われていた。
 
考えるに、何処かの誰かがこの記事を読んで、Wikipediaの該当の記述を修正したらしい。
 
Wikipediaは編集履歴が見れて、そこからどの段階でその修正が行われたかが確認出来て、15年以上誰もその誤謬を修正しなかったのにもかかわらず、僕がこの記事を書いてからわずか半年でその修正が行われたというのなら、この記事を誰かが読んで、その修正を行ったというのは妥当な判断だと僕は思う。
 
修正された以上、色々この記事についての話が変わってくるのだけれど、この記事を書いた当時は本当に『史記集解』にそうと書かれていると記述されていたし、別に注釈書に書かれた内容なんてものは、その注釈書が書かれた当時の社会通念に基づく臆見であったり、その注釈を書いた人物の個人的な判断だと僕は思っていて、現在のように学術的に妥当な方法によって行われたわけではないそれらの注釈は、信じるに値しないという話は変わらない。
 
とはいえ、修正されたなら話は色々変わってくるのだから、その辺りの補完のためにこの追記を書いています。
 
追記以上。
 
ともかく、話としては『史記』本編にはない後世の注釈にある信用に値しない文章であるということにはなって、『史記正義』が書かれた唐の時代には既に文王の子が暴虐なる紂王に羹にされたという伝承があったのだろうと僕は思う。
 
個人的に、この横暴な王が臣下の子を殺して食わせて、それが故に反逆されるという話は、元々は中東世界かギリシア世界にあったもので、それが中国に訪れた結果だろうと考えている。
 
そもそも、『史記』の本編にはそんな記述がなくて、じゃあその話は何処から出て来たんだということになって、時系列的に先行する古代ギリシア世界に、暴虐なる王が臣下の子を殺して、それを食わせて、それが理由で反乱を起こされて滅んだという記述がある本がある。
 
まぁこのサイトでこの文章を読んでいる人に、わざわざそんなことを説明する必要はないのだけれど、ヘロドトスの『歴史』にその記述がある。
 
「 アステュアゲスは、ハルパゴスの子供が来ると、殺して手足をバラバラに切り離し、肉を焼いたり煮たりして料理を整え、宴が始まるのを待ち受けたのである。食事の時間が来て、ハルパゴス以外の陪食者には羊の肉を盛った膳が据えられたが、ハルパゴスにはわが子の、頭と手足以外の肉がそっくり供されたのである。頭と手足はかごに入れ蔽いをかけて別においてあったのである。ハルパゴスに、食事は旨かったかと訪ねた。ハルパゴスが大変結構でございましたというと、かねて言い付かっていた者たちが、子供の頭と手足の蔽いをかけたまま運んできて、ハルパゴスの側へゆき、蔽いをとってお好きなものをお召し上がり下さい、といった。いわれたとおりハルパゴスが蔽いをとると、蔽いの下にわが子の死骸の残りがあったのである。アステュアゲスが、食べた肉はどんな獣の肉か分かったかと聞くと、ハルパゴスは判りましたと答え、王のなされることはどんなことでも、私は満足でございます、といった。こう答えるとハルパゴスは、残った肉をもって屋敷へ帰っていった。思うに後で遺骸をまとめてほうむるつもりであったのであろう。( ヘロドトス『世界古典文学全集 10 歴史』松平千秋訳 筑摩書房 1967年 p.42)」

 

 

  この部分は漫画の『ヒストリエ』でも描かれている。
 
(岩明均『ヒストリエ』1巻pp.181-182)
 
こんなことをされたハルパゴス将軍は王をひたすらに恨んで、後に反乱を起こしている。
 
(同上『ヒストリエ』pp.183-185)
 
結局、周の文王は『史記正義』の記述だと、我が子を食わされて、後にその周は殷に対して反乱を起こして滅ぼしているのだから、筋書きとしては非常に似ているということは確かだと思う。
 
けれども、『史記』の本編にはそのような記述はなくて、僕はこのような場合、時系列的に先行している方の情報が、後行しているテキストに影響を与えていると考えている。
 
要するに、唐の時代にはヘロドトスの『歴史』の情報が中国に届いていたのではないかと僕はこのことを理解している。
 
実際、アレクサンドロス大王は解いたものはアジアの王になると言われているゴルディアスの結び目を、解くことではなく断ち切ることで解決している。
 
全く同じようなエピソードが北斉の文宣帝にあって、日本語でも使う快刀乱麻を断つは、この文宣帝が絡まった麻糸を解くように言われて、それを刀で断ち切った話から来ていて、僕はこれは普通に、アレクサンドロスの話の方が数百年先行しているのだから、中国に大王の逸話が辿り着いた結果だろうと考えている。
 
だから、古代中国で文王の子である伯邑考が料理されて食べられたという出来事は実際にはなくて、後世の著述家が何かの経緯で東方から訪れた暴君とその臣下のエピソードを、紂王と文王とのそれに組み込んだのだろうと僕は思う。
 
もし、そんなことが司馬遷の生きた時代に伝承されていたのなら、司馬遷がそれに触れないわけもなくて、それだというのに触れていないのだから、司馬遷の時代にはそんな話はなかったのだろうと僕は思う。
 
そういう歴史的な出来事がなかったとして、古代中国殷の時代に人肉食の習慣があったかについては、もしかしたらあったかもしれないということはある。
 
中国の伝統として、鬼神や天には牛や豚、羊の肉を捧げものとして祭壇に置くのだけれども、儀礼が終わった後はそれを分けて食べるという記述が『礼記』にある。
 
殷の時代には人間が生贄とされていて、その事は出土した人骨から分かっていて、それに際してその肉を食っていたという可能性はあるし、それ以外にも、人骨を骨器として扱っていたということが分かっている。
 
「 甲骨文にも、この首を斬って神に供えることを卜った記録が相当数あるが、そのときには、羌とか南とよばれる、殷にとって異民族視された人びとが首を斬られることが多い。それだけではなく、羌などの捕獲の成否をもっているから、農業生産の労働者としてよりは、むしろ犠牲とすべきものとして考えられていたのであろう。

 では、こうした犠牲とされる人たちを、当時同じ人間として考えていたのであろうか。たとえば鄭州の殷前期の層の濠溝から鋸をつかって切断した人頭骨の上半部分が百近く発見された。これは碗として使うために作られたもので、鋸で挽いたあとは、砥石で整形している。このほか骨角器の製作からは他の哺乳動物の骨とともに、人骨を材料としたものが多数発見されていることから考えると、これらの器具の素材とされていた人間は、牛や羊などと全く同一視されていたといえよう。おそらく血縁かなにかの社会的な関係で結ばれてい範囲が同じ人間として意識される範囲であり、それ以外は人間とは考えなかった、現在のように種族をこえた「人間」という意識などは全くなかったといえよう。これに対して、後の時代に、その死者の霊に供え、それによって死者の霊を強化しようとしたことは、たとえ族は異なっても(事実、家から村にかけて発見される人身御供された犠牲の墓から、斬首された骨格が大変大きな人間が十数人発見されている。おそらく人種が異なるのであろう)、霊としては同じ働きをすると考えていたことが分かる。(貝塚茂樹 伊東道治 『古代中国』 講談社 2000年 pp.192-193)」

 

 

まず人骨を使った骨器の話の前に甲骨文に書かれている内容についての言及があるけれど、僕は実際に1500以上の甲骨文を読んでいて、あれは解読できているとはとても言えないそれだと思っているから、まぁ話半分に済ませた方が良いと思う。
 
次に、この記述に従うならば、獲得奴隷は他の畜産物と同じ扱いだったという話になるとはいえ、当時の中国人が何を考えていたかなんて分かるわけがないのだから、少なくとも人骨は骨器として使われていたということくらいしか分からない。
 
分かるのは実際に存在する出土品だけで、それを作った際の動機やその物体を扱うに際して職人が、その材料をどう思っていたまでは、それを判断できる物品が出土しない限り分かる筈がない。
 
実際に食肉のために捕らえられたスペイン人についての話がある『ユカタン事物記』の記述を見るに、扱いは家畜と同じとは必ずしも限らない。
 
食肉にするために捕えらえたあるスペイン人は、最初に捕らえられた集落と敵対する集落に逃げ出して、そこでそれなりに優遇されていたと記述されていて、家畜がよそに逃げたなら、元居たところに返すか、仲が悪いなら自分のものにして食べるというのが実際の家畜の扱いなのだから、マヤでは食肉用の人間は家畜とイコールではない。
 
そもそもマヤには家畜となるような動物が居なくて、マヤ人の家畜の扱いとは比較できないから色々あれだけれども。
 
だから、骨器に使われた人々がどのように扱われていたかは分からないし、当時の奴隷制がどのようなものだったかは判然としない。
 
ただ、人狩りの話は殷が滅んで周の時代になっても出土文献からその存在を確認出来る。
 
(『金文通釈 楚公逆鐘』p.15)
 
これは周の時代の楚の君主が作った鐘に書かれていた文章で、楚の国では人狩りをしていたし、その事を道徳的な悪とはとらえていなかったということがここから分かる。
 
僕らは普通の場合牛革の財布を使うことに何も思わないわけであって、古代中国殷の人々も人骨で出来た器を使うことに道徳的な瑕疵を感じていたということはないだろうとは思う。
 
『古代中国』という本が言うように、牛などの家畜と同一視されたとか、生贄にした人物の霊を守護として扱った話については、テキストや考古学的な証拠から離れた飛躍だと思う。
 
古代の時代の話になると、想像力から導き出される根拠のない議論がさも事実であるかのように語られる場合があって、僕はそのようなものを根拠のない妄想であると強い言葉で否定している。
 
甲骨文の解釈はそのような話が非常に多くて、基本的に多くの議論がそのような根拠のない推論を土台にしていて、一つの字の解釈についても、ただの妄想でしかないと思うようなそれしか基本的にない。
 
まぁ…甲骨文字の「品」の字は、後の時代の「品」と同じ漢字だとは思う。
 
加えて、「子」に関してもそうだとは思っていて、何故というと、後の時代の漢字と字形が全く同じだからになる。
 
当然、同じ形で違う意味という可能性は残っているのだけれども…。
 
話を纏めると、文王の長男である伯邑考が料理にされたという話は『史記』本体にはなくて『史記正義』にあって、けれども、後世の注釈は基本的に信用ならないし、そんなドデカい出来事があって、『史記』の著者である司馬遷がその話に触れない道理がないわけで、そうとするとそのような歴史的な事件はなかったのだろうと言えて、じゃあ古代中国殷の時代に人を食うような文化はあったかについて言えば、否定できない程に現在を生きる人間からしたら残虐と思える文化が当時の中国にはあったという話になる。
 
殷の人が人肉を食べていたかは分からないとはいえ、『荘子』には旅の途中で飢えた君主のために臣下が太ももの肉を切って食わせたという話があって、晋の文公についての話でそういう説話がある。
 
「介子推は大変な忠義もので、晋の文公に[食料がなかったとき]自分の股の肉を切り取って食わせたほどであったが、文公はのちにそれを無視したので子推は怒って山中に逃げ込み、木に抱き着いたまま焼け死んだ。(金谷治訳 『荘子 第四冊 雑篇』 岩波書店 1983年 pp.110-111)」
 
『荘子』は基本的に世間での栄達を蔑んで、隠匿を貴ぶような思想が書かれた本だから、世間様で聖人君子と呼ばれる名君をあげつらって、その中で晋の文公は名君のはずだというのに、臣下の忠義を無視して殺したではないかと言っている場面になる。
 
実際、『荘子』は複数人で書かれたものである様子があって、その書かれた時代も何十年とか何百年スパンで色々な人のそれを集めている様子があって、今引用したテキストがいつ書かれたのかとかはちょっと良く分からないのだけれども、まぁ人肉を食うという発想はあっただろうとは言えると思う。
 
『史記』とか『春秋左氏伝』とか他の古代中国のテキストを読んでいても、人肉食は滅多に見ないというレベルでしか記述されていないから、マヤ文明などと違ってそれ程には行われていなかっただろうとは思うけれども。
 
ちなみに、以前言及した『邪淫戒』には父親に自分の太ももの肉を食わせる子の話があった。
 
やっぱりあの本書いたの、中国人なんだろうな、って。(参考)
 
そんな感じの日記。
 
…当初はどうせどの注釈書にも息子を食わせたなんて書いてねぇよと思っていて、実際最初の二つには書いてなかったから、どの注釈書にもなかったという話で進めようとしていたけれど、『史記正義』にその話があったが故に、軌道修正したのがこの記事になる。
 
『史記集解』にその話があるってのにねぇじゃんと思ったからこの記事を書き始めて、そこに書いてないんだから他にも書いてないだろうと僕は思っていた。
 
とはいえ、『史記正義』の話に至る前に休憩を挟んで日を跨いでいるから、その間に『史記正義』にその記述がある可能性も考えていて、記述があった場合のパターンも想定していたから、その想定に沿って方向性を変えたという経緯がある。
 
まぁ、『史記正義』にその記述があろうとなかろうと、『史記』の段階でその話はないのだから、そんな歴史的な事実はないだろうという話は変わらないし、司馬遷の生きた時点で、殷の時代は900年以上昔の話なのだから、そもそも司馬遷の記述も信じるに値しない。
 
『史記正義』にその話がなかったとしたら原作の『封神演義』あたりの創作という可能性が想定出来て、実際、中国語と英語のWikipediaはそういう話になっている。
 
だからどの道後世の創作で、暴君が臣下の息子を料理したという事実はなかったとして、殷の文化はどんなだったかと言えば…人肉くらい食ってても何もおかしくないんだよなぁ…。
 
古い時代になると資料が殆どなくて、素人である僕が得られる情報も多くなくて、よく分からないことが非常に多い。
 
けれども、そういう出土品が出て来たのだから、頭蓋骨は何らか器に使っていたのはそうなのだろうと僕は思う。
 
所違えば文化も違って、僕らの道徳的判断は殷の人々には通用しないのだろうとおぼろげに思う。
 
…なんか古代中国の更に古い時代について良く知れる資料とかないんすかね。
 
出来れば廉価で。
 
個人的にいくつか知ってるけど、値段が正気の沙汰じゃないんだよなぁ…。
 

 

現在価格は送料抜きで9500円ですね。

 

『甲骨文字研究』って本を読んでいると、この日本語の本についての話がちょいちょいある。

 

まぁ図書館にすら置いていないから、いつかは買うのだろうけれども。

 

そんな感じです。

 

では。