指先がそれにもう少しで届きそうで | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

僕は色々な場所の古代の時点で書かれたテキストを可能な限り読んできたけれども、どうしてもそういうマニアックなテキストだと翻訳が少なくて、そもそもそのようなテキストの翻訳を主題とするような本自体があんまり存在していなかったりする。

 

そんな中で何とかそういうことが書かれた本が見つからないかと色々探していて、Amazonとかで「楔形文字」とか入れて商品を探したりしてりもしたけれど、あんまりいい感じの本は見つからない。

 

だから、趣向を変えて出身大学の図書館の検索機能で、古代中東の楔形文字に関するような本を探すという方法を試してみた。

 

出身大学は…ちょっと遠いから、その大学でその本を読むつもりとかはあんまりなくて、純粋に、大学の図書館だと専門性の高い本が置いてあって、僕の住んでいる都道府県では一冊しかないような本が普通に大学の図書館には所蔵されている場合とかが多いので、とりあえずそこで調べて見ることにした。

 

そうやって大学の検索機能で「シュメール」と入れて本を探したところ、『大英博物館所蔵の新シュメール時代行政文書』という本を見つけることに成功した。

 

(https://www.kosho.or.jp/products/detail.php?product_id=339689092より)

 

見た感じ日本語の本っぽいし、専門家以外がこんな本を読むわけもないし、Amazonに商品ページすらないこの本を見つけて「おー、ええやん」と僕は思った。

 

どうにかしてこの本を読む方法を探すわけだけれども、日本の古本屋で送料抜きで1320円で売っているのを見つけることに成功した。

 

僕は高いか安いかで言えば、安くはあるが送料込みで1690円は微妙な所であるこの値段の本を見て、「まま、ええわ」と早速購入することを選んだ。

 

結果として届いた本を手にして開いて、この本は最初のページの謝辞が英語で書かれていて、残りは粘土板の複写と、その粘土板に刻まれた楔形文字を読みやすいようにアルファベットに変換したそれが記載されているだけで、日本語は最後のページの出版社などの情報が記載された箇所にしかなく、そもそも英訳すらも載っていない、専門家以外が読むことなど不可能な内容であると、手元にこの本が来て初めて知ることになった。

 

…。

 

こっちの事情も考えてよ…(切実)。

 

何でこんな専門的な本が1320円なのかについては、まぁこんな本だから買い手がつかなかったというのが実際の所らしい。

 

僕はこういう惨事を何回か経験したことがあって(参考)、今回にしても図書館で現物を確認してから買いたいところではあった。

 

実際の所、良さげな本だなと思って、けれども何処か"きな臭い"と思うような本について、図書館で現物を確認したところ、僕の望むような内容ではなかったということが過去に幾度かある。

 

その本は僕にとって役に立たないと分かった時点で、その本は僕の何らかの考慮から外れてしまうから、その書名を今思い出すことは出来ないけれども、何回か危機回避は成功しているという記憶はある。

 

けれども、何故今回はこの悲劇を避けられなかったのかについて言えば、そもそも、僕の住んでいる都道府県だと、大学の図書館以外で置いている場所がなくて、現物を確認する術などなかったから、買って確かめるという方法以外が取れなかったからになる。

 

加えて、図書館の改装工事が重なったことが理由で、現物を確かめられなかった『甲骨文字の研究』(定価42000円)を日本の古本屋で買って、それが読める内容だったという成功体験も今回の選択には寄与していると思う。

 

まぁその成功体験があってもなくても、現物を確かめる方法はないんだから、買うという選択以外は選ばなかったのだろうけれども。

 

これで5000円とか1万円とかだったら悶絶ものだし、実際送料込みで7150円だった『春秋穀梁傳楊士勛疏』の時もだいぶ悶絶していて、ガン掘りされた時の蓮さんみたいな声を心の中で出していた(参考 開かなくて良いです)けれども、今回は1690円の損失で、出来事の質的にその金額の金銭を落としたり紛失したということと差はないのだから、そのような損失は金額的に激痛ということも無い一方で無痛でもなくて、何とも言えないもやもやとした気持ちだけが置き去りにされることになった。

 

なので、ここにそのもやもやとした何かを投げつけることで、僕の中からその気持ちを追い出そうという魂胆です。

 

そういうわけで今回は小さなトピックを用意して色々書いていくいつものやつをやって行く。

 

ただ…前置き長かったし脳内の青写真を鑑みるに、一つのトピックで終わりそうなんだよなぁ。

 

まぁ冒頭の話は何処かで書きたかったというのは本当だから、気にせず一つのトピックで色々書いていくことにする。

 

・分からない…文化が違う…。

古代世界のテキストを読んでいると、言っていることが分かっても、彼らにまったく共感出来ないという場面に遭遇することがある。

 

例えばそれは古代中国の『春秋左氏伝』の"食指が動く"の所で一つそうであったし、古代インドの『パンチャタントラ』を読んでいてもそういうことがあった。

 

彼らの振る舞いについて言及されたそのテキストを読んでも、「分からない」としか言えないよう場面が確かにあって、けれども、それは僕がこの文章を理解するに必要な知識を持ち合わせていないから、彼らが言っていることが分からないのだろうと僕は思う。

 

古代のテキストで何を言っているか分からないようなものに出会った時は、僕に非があるのだろうと肌で感じる一方で、社会学者の何を言っているか分からない言及については、本人も何を言っているか分からないのだろうと思う所がある。

 

古代世界のテキストではそのような印象を殆ど抱いたことがなく、この文章を理解できないのは僕の知識不足だと思う一方で社会学者についてはそう思わないところを見ると、その事についての非は社会学者側にあるのではないかと僕はどうしても考えてしまう。

 

以上。

 

食指が動くについては、日本語でも使う場面はないことはないという程度にはあって、ただまぁ、日本語で使う場合、食指が伸びたりしてしまうこともあると思う。

 

食指と触手では語感が似ていて、触手が伸びるという言葉は使うことがある一方で、食指が動くなんて言葉は滅多に使わないのだから、語感のイメージに引っ張られて、食指が伸びてしまうこともあるのだろうと僕は思う。

 

実際の所、どういう文脈で食指が動くのかを知れば、本来的に食指は伸びるものではないと分かると思う。

 

元々は鄭という国の貴族である子公という人物のジンクスが由来であって、彼は人差し指(食指)が不随意で動いた時に良いことがあると経験上知っていて、その人差し指がぴくっと動いたということがあって、これは今日は豪華な食事だなと思ってそれを口に出して、結果としてその日はスッポン料理で、その予測が当たったという故事があって、そこから、日本語で使う食指が動くという言葉がある。

 

まぁ実際のエピソードと日本語とでは用法には若干ズレがあって、日本語だと物や出来事に手を伸ばしたいと思った時に使う言葉が食指が動くなのだから、元のニュアンスとは少し意味合いが違う。

 

日本語だとふと手を伸ばしてしまうような気持ちになる場面で"食指が動く"と言って、手の伸ばして摘まむときに使うのは人差し指で、その人差し指を食指と言って、その手や指を伸ばそうという動作の事を"食指が動く"と言っているのが日本語のその慣用句なのだから、元々の『春秋左氏伝』の故事とは関係はあまりないし、"食指が伸びる"でも文脈的に全く問題ないのでは…?という疑念がある。

 

日本語の用法だと摘まもうと指を動かしたり伸ばしたりという動作の話であって、日本語で"食指が動く"なんて言う人の中で、ジンクスというニュアンスで使う人は居ないし、"食指が動かない"という表現は、手を出そうとは思えないという意味合いなんだから。

 

ただ、今回したい話はそんな話ではなくて、実際に『春秋左氏伝』に記載されたそのエピソードは、現代日本人では全く理解出来ない仕上がりなそれで、「お前らマジなんなの?」ということをこのエピソードで古代中国人はやっていて、文化的な背景についての知識がないと、古代人の振る舞いは理解できないという話が主題になる。

 

その辺りは実際に読んでみれば分かる。

 

「 楚の人が大きなすっぽんを鄭の霊公に献上した。時に、公子宋と公子家の二人が御殿に参上して霊公に面会しようとした。ところが子公(公子宋)の第二指(人さし指)がぴくぴくと動き出したので、子公はそれを子家に見せながら、「今までに、こうしたことがあると、きまって珍しいご馳走にありついたものだ」といった。御殿の中に入ると、料理人がそのすっぽんを料理しようとしていたので、二人はなるほどと顔を見合わせて笑った。霊公はなぜ笑ったのかとたずねたので、子家はそのわけを話した。いよいよ大夫たちにすっぽんをご馳走するときに、霊公はわざわざ子公を呼びよせておきながら子公には食べさせなかった。子公は立腹し、すっぽんの入っている鼎に指をさしこんで、その指をなめながら退出した。霊公は怒って子公を殺そうとした。子公は子家に先手を打って霊公を殺そうと相談したが、子家は、「家畜でも年老いたものは殺す気にはなれないものだ。ましてやわれわれの君を殺すということは到底できないことだ」といったので、子公はあべこべに子家をざん言しようとした。そこで子家は恐れてその策謀に従った。かくて二人は、夏に霊公をした。経文に鄭の公子帰生(子家)がその君夷を弑した、と書いているのは、子家が子公の無道をおさえる権力が足らなかったから、子家をそしる意を寓したのである。これについて君子は、「いかに仁愛のある者でも勇気がなければ、その仁愛を通すことはできない」と批評した。およそ君を弑した場合に、君某を弑すと書いてあるのは、君が無道なのであり、臣某その君を弑すと書いてあるのは、臣の方に罪があるのである。(左丘明 『新釈漢文大系 31 春秋左氏伝 二』 「宣公四年」 鎌田正訳 明治書院 1974年 p.588)」

 

 

話を纏めると、鄭の王族…まぁ古代中国ではその言い方は正しくないけれど分かりやすさを重視した説明をすると、鄭の王族の一人が王様に招かれて王の居城に行ったところ、指がぴくぴくと動いて、経験上これがあったらうまいものが食えるから今日はご馳走だと友達の王族と歓談していたところを王に見られて、わけを話したら王が機嫌を損ねて、会食に招いてけれども食事は出さないという振る舞いをして、それをされてまたキレて、自分の分がないすっぽん料理手を突っ込んで舐めてそのまま退出して、それを見て王様がキレて殺そうとするけど臣下に止められて、一方でやられた方は殺される前に逆に王様を殺したというのがこのエピソードの流れになる。

 

古代中国の春秋時代くらいでは王は周の王一人だけだから、鄭の国の一番偉い人を王というのは正しくないけれど、説明の便宜上、王という言葉で説明した。

 

全体的に…やってることが子供じみているし、相手を殺害しようという気持ちの閾値が低すぎる。

 

何でこいつらがこんなに相手の事を殺そうと思うまでブチ切れているのかが全く肌で感じられなくて、彼らがどうしてそういう結論に至っているのか全く分からないのが実情になる。

 

正直、彼らがどうしてここまで殺意に満ち溢れているのか、僕は理解し切れていない。

 

ただ、おそらくこのような理由でこのエピソードがあるのだろうという推論なら存在している。

 

考えるに、彼らがそこまで殺意を抱いているのは、ここに当時の中国の礼の概念があって、その非礼について激怒していて、その非礼は相手を殺害するに十分な理由なのだろうと僕はこのエピソードを処理している。

 

以前言及した通り(参考)、古代中国において無礼ということは相手を殺害するのに十分な理由になるような振る舞いだし、無礼だと殺されかねないのが古代中国という世界になる。

 

このエピソードでもおそらくはその無礼が怒りの理由にあると僕は思う。

 

考えるに、そもそも饗応を受ける側が饗応をする側の料理についてあれこれ言うのは酷く無礼なことだったのではないかと思う。

 

公子宋はもてなしがスッポンだと喜んで笑っていたわけだけれども、その事はおそらく無礼で、それが故に公子宋に霊公は料理を出さなかったのではないかと思う。

 

現代日本的な価値観だと、そもそも霊公が公子宋に料理を出さないことは子供っぽい嫌がらせだという話の前に、機嫌を損ねて料理を出さないという行動を選ぶ理由が見当たらない。

 

けれども、左伝では霊公は何らかの理由で公子宋に料理を出さなかったわけで、その理由と想定できるのは公子宋が今日はスッポン料理だと喜んで笑ったというそれしか考えられない。

 

ならばおそらくそれが霊公の怒りに触れる何かなのだろうという推論があって、僕が持っている材料だとその事は無礼だったのではというそれしかない。

 

そして、料理を出されなかった公子宋はその扱いにキレて、出されてもない料理に手を突っ込んで指を舐めて帰ったわけで、それを見て霊公は公子宋を殺そうと思うレベルでブチぎれている。

 

以前に引用した内容にはなるけれど、古代中国には僕ら現代日本人には馴染みのない食事の礼がある。

 

「 客の身分がもし主人より下のときは、客は食を手に持って席から立ち、主人が自分の前に来てもてなそうとするのを辞退し、堂下に引き下がって食事をするかのようにする。主人は立ってこれをおしとどめる、そこで客は再び自分の席に座る。

 主人は客に先立って飲食の祖神を祭る。食物を祭るには、主人が先に出したものから祭っていき、しだいにあとから出したものに及ぼす。殽の序列、すなわち殽・胾・炙・膾は、そのどれにも祭りをする。その本は同じ犠牲の体から出たものではあるが。

 飯を三口食べ終わると、主人は客に進めてまず殽を食べ、そのあとで殽を食べ尽くす。それで、満腹する。主人がまだ食べ尽くさないうちは、客は漿で口をすすがない。しかし、客が主人と対等以上なれば、主人の食べ終わるのを待たない。主人が客より先にはしを置くことはないからである。(市原享吉他訳 『全釈漢文大系 12 礼記 上』集英社 1976年 pp.57-58)」

 

公子宋は出されてない料理に手を突っ込んでその指を舐めて帰ったわけで、その行為は普通に現代日本人からしても不躾なそれで、礼にこだわる古代中国では最早、看過できるレベルではなかったのではないかと思う。

 

そうして殺されそうになった公子宋は殺される前に霊公を殺したわけだけれども、この一連の出来事について、左伝の著者は公子宋に非があって、霊公は悪くないと考えている様子がある。

 

「かくて二人は、夏に霊公を弑した。経文に鄭の公子帰生(子家)がその君夷を弑した、と書いているのは、子家が子公の無道をおさえる権力が足らなかったから、子家をそしる意を寓したのである。これについて君子は、「いかに仁愛のある者でも勇気がなければ、その仁愛を通すことはできない」と批評した。およそ君を弑した場合に、君某を弑すと書いてあるのは、君が無道なのであり、臣某その君を弑すと書いてあるのは、臣の方に罪があるのである。(同上 『春秋左氏伝 二』 「宣公四年」」

 

『春秋左氏伝』は『春秋』の注釈書だから、元々このエピソードが簡素に書かれた『春秋』の文章があって、そこに「夏、六月乙酉、鄭の公子歸生、其の君夷を弑す。(同上『春秋左氏伝 二』 p.586)」と書いてあるから、実行犯は公子宋なのに共謀者の帰生の名前だけが記されている理由と、今回は殺した側が悪いから、その名前が出ているという解説がされている。

 

『春秋』の文章を読んでいると、国人が国主を弑すとだけ書かれている場合が確かにあって、その場合は暴君だったから除かれたという話で、そのような時は君主を殺した人物の名前は憚って書かないで、けれども、今回は殺した臣下の側が悪いから、名前が出ているという話らしい。

 

僕としては、そもそもあんな子供じみた嫌がらせをしなければ殺されずに済んだのだから、事の発端である霊公が悪いのではと思ってしまうけれども、左伝の著者はそうとは思わなかったらしい。

 

実際の所、鄭の人もこの件について霊公は悪くないと思っていたようで、この事件の数年後に共謀者の帰生が死んだに際して、その墓が破壊されて一族の追放が成されている。

 

「 時に鄭の子家(引用者注:先の事件で共謀した帰生)が亡くなった。鄭の人は幽公を弑した反乱の罪を攻め正して、子家の棺をぶちこわして、その一族を追放した。かくて幽公を改葬し、霊というおくりなをおくった。(左丘明 『新釈漢文大系 31 春秋左氏伝 二』 「宣公10年」 鎌田正訳 明治書院 1974年 p.606)」

 

先代の国主が死んだ時はまだ実行犯が政治の中心に居て、死後に与える名前も良くない意味である幽公という名前にして、けれども、そいつが死んだからもう我慢する必要はないと、その墓を破壊して、一族を追放した上で、先代の国主の名前を可哀想と言ったような意味の霊公に改めたという話になる。

 

…やっぱり古代中国人、人の墓を壊したり暴いたりするよなぁと思う。(参考)

 

古代中国の場合、死後に与えられる名前にはそれぞれ意味があって、『逸周書』とかにその説明があったりするのだけれど、僕はそのテキストを持っていないので、幽がどのような意味かは分からないけれども、まぁ話の流れ的に良くない名前だったのだろうと思う。

 

霊については家臣に殺された国主に良く付けられる名前で、確か夭折した場合も霊だったと思うから、多分可哀想とかそういう意味だと思う。

 

・追記

蔡邕の『独断』にもそれぞれのおくり名の意味合いについての言及があることを、この記事を書いた段階でも覚えていたのだけれども、どうせテキストが手元にないということは同じなので、その話は特に触れなかった。

 

ただ、偶然以前複写したテキストを浚って要らないものを捨てようと洗いざらい見ていたら、『独断』の該当の部分を複写したそれを見つけることに成功した。

 

それを見ると、「幽」に関しては、

「雍遏して通ぜざるを幽と曰う。(福井重雅訳 『訳注西京雑記・独断』 東方書店 2000年 p.384)」

という意味であると書いてあって、注釈に「雍遏」は「ふさぎさえぎる。(同上)」とある。

 

ニュアンスが難しいというか、抽象的でイマイチ要領を得ない説明だけれども、まぁ正義や君徳を広く通さなかった暗君寄りの人物とかそういう意味合いだろうとは思う。

 

一方で「霊」に関しては、

「乱るるも損なわざるを霊と曰う。(同上)」

とある。

 

まぁ国は乱れたけれどそこまで過失はなかったというニュアンスで、やはり、鄭人にとって、あの事件において霊公は悪いことをしていないという認識なんだろうと思う。

 

ちなみに、若くして死んだ場合は「哀」であるようで、

「恭人にして短折すると哀と曰う(同上)」

とある。

 

まぁそんな感じです。

 

追記以上。

 

とにかく、そういう風に霊公は殺されて、当時の感覚的にその事について霊公の非はなかったのだろうと思う一方で、全体的にどうしてその"ザマ"になったのかは左伝には言及がなくて、ただおそらく、そこには古代中国の暗黙の了解に当たる部分があって、勘案するにあの出来事の背景には当時の中国の礼の文化があったのではないかと僕は思っている。

 

結局、あくまでここまでの話は推論だけれども、古代世界のテキストを読んでいて、理解できない記述があったところで、その事はきっと、読み手である僕の側に知識の不足があって、それが故に理解できないのだろうと思うことは多々ある。

 

そのような話は古代インドでもあって、以前、『パンチャタントラ』のある一つの説話を読んでいて、何一つ分からなかったという経験がある。

 

『パンチャタントラ』というのは古代インドの寓話集で、端的に言ってしまえば、『イソップ物語』の模倣創作になる。

 

『マッドマックス2』が先にあって『北斗の拳』が生まれたように、『ジャングル大帝』が先にあって『ライオンキング』があるように、『イソップ物語』を参考にしてインド版の寓話集として作られたのが『パンチャタントラ』という本である様子がある。

 

『イソップ物語』ではそれぞれの小編の後にその物語の教訓についての言及が確かあって、『パンチャタントラ』にも物語の後に教訓の話はあるし、インドだと紀元前2~3世紀くらいまでしか筆記という方法自体が遡れない一方で、『イソップ物語』は紀元前6世紀のヘロドトスの『歴史』の時点でその言及が確認出来るので、普通に『イソップ物語』の方が成立が古いだろうという推論がある以上、やはり、『イソップ物語』を参考にした寓話集が『パンチャタントラ』になる。

 

この寓話集は全体として「う~ん」と思うようなそれが多くて、文化が違うから良く分からない話が非常に多い。

 

ただそれでも、なんとなくは分かるようなものも多くて、「それで興奮するの?」ではないけれど、その成り行きで楽しい筋書きなんすか?とは思うとはいえ、楽しみどころやウケるポイントはなんとなくは分かるものも多い。

 

ただその中で、徹頭徹尾理解が出来なかった物語がある。

 

今回はそれを引用したいと思う。

 

…旧字体でフォントも古いから、文字読み取りアプリも使えそうにないという事情から、手でカタカタ書き写すしかないけど仕方ないね。

 

「 第二十三話 盗人僧(どろぼうそう)

 ある都会(まち)に大層学問のあるバラモン僧が住んでいました。

 しかしこのお坊さんは、前世の因業のために盗人となりました。

 あるとき四人のバラモン僧が他国からやって来て、この都会で沢山の品物を買っていました。盗人(どろぼう)のお坊さんはそれを見て、心の中で、

 『どうにかして彼奴等(あいつら)の金を捲き上げてやりたいものだな。』

と考えました。

 そこでお坊さんは、彼らのそばに出かけて、いろいろと甘いことを云って、彼らの信用を得て、とうとう召使(めしつかい)になりすました。するとそれから間もなくして、四人の婆羅門僧たちは、非常に値段の高い宝石を沢山買い込みました。そして盗人(どろぼう)のお坊さんの見ていたところでそれを藏(しま)って、自分の国へ帰る支度をし始めました。

 お坊さんはそれを見て、大層気をいら立てました。

 『困ったな、とうとう彼奴等の持ち物を捲き上げることが出来なかったぞ………よし彼奴等について行って、何処か途中で毒薬を飲まして、殺した上で、宝石をすっかり奪いとってやろう。』

 盗人のお坊さんはこう考えて、婆羅門僧たちの前に出ました。そしてわざと嘆き悲しんで、

 『あなた方は私を一人のこして、帰っておしまいになりますね。私の心は愛情のきづなで、あなた方に縛り付けられて、お別れすることを思うと、立ってもいられません。どうぞあなた方のお仲間として、一っしょにつれて行ってくださいませ。お願いします。』

と云いました。バラモン僧たちはこれを聞くと、可哀そうになって、一っしょに故郷につれて行くことを承知しました。」

 一同が或る村を通りかかりますと、烏どもが、

 『この旅人たちは大金を持っていますよ。叩き殺して捲き上げなさい。』

と叫び出しました。村の人たちは烏の声を聞きつけて、駆け出して来ました。そして婆羅門僧たちを棍棒で嫌というほど殴りつけて、着物を剥いでくまなく探して見ましたが、お金は少しも見つかりませんでした。村人たちは、

『烏どもは今まで一度だって嘘をついたことはない。だからお前さんたちは、何処かに財宝(たから)を隠しているに違いない。早くそれを出すがいい。でなけりゃお前さんたちを叩き殺して、どうしても財宝を捲きあげないと聞かないよ。』

と云いました。盗人(どろぼう)のお坊さんは、これを聞くと、心の中で、

 『村人たちが婆羅門どもを殺して、そして宝石が見つからなかったら、その次は乃公(おれ)までも殺すだろう。だがもし乃公が最初に殺されたら、村人どもは宝石が見つからなくっても、婆羅門僧たちを許してくれるにちがいない。よし俺が坊さんたちを助けてやろう。』

と考えました。そこで村人たちに対(むか)って、

 『お前さんたちがそんな考なら、まづ私を殺して、財宝を探してください。』

と云いました。村人たちはこれを聞くと、直ぐに盗人(どろぼう)のお坊さんを叩き殺して、財宝を探しました。しかしどうしても見つからなかったので、四人の婆羅門僧の命はとらないことにしました。(村松武雄訳 『インド古代説話集 パンチャタントラ』 現代思想社 1977年 pp.106-108)」

 

僕はこれを読んで、何も分からない…と思った。

 

(https://twitter.com/GRyooooU/status/203322074612240386/photo/1)

 

なんというか、「どういうこと?」って言う内容で、読み終わったときに、「何も分からない…」という言葉が脳内で反芻されることになった。

 

おそらくは諧謔の物語で、笑い話で、欲をかいた盗人が、財宝を手に入れるために召使いにまで扮したというのに金を奪う前に婆羅門たちが殺されると思って、殺されたら財宝が手に入らないと踏んで一手を打ったところ、それが悪手で、結果として一人だけ死んじまったのさ、HAHAHAって話だろうと思うとはいえ、訳が分からないとしか言いようがない。

 

何故宝を出さないとお前らは殺すって言っているのに、召使いを殺しただけで村人は諦めたのかとか、そもそもどうして宝が見つからないのかとか、死んじまったらそれで終わりなのにどうして自分の身を捧げるつもりに盗人はなったのかとかは本気で分からない。

 

笑いどころはおそらく馬鹿な盗人について、それじゃこの場を乗り切っても宝は貰えないじゃんという話で、身を差し出した部分なのだろうけれども、そもそも別に笑えないし、やっていることは内心はともかく聖人のそれだし、けれども扱い的に彼の行動は愚行とされているだろうと僕は思う。

 

そうとはいえ、愚行であってそれが笑いどころであると確信を得られるような記述はない。

 

引用するために読み直してカタカタ入力して以前よりは内容をかみ砕けるようになったとはいえ、「何も分からない…」という気持ちは未だに消えていない。

 

ただ、こういう分からない説話があったところで、多分、この説話を理解するのに必要な知識が僕の方で足りていないのだろうと思う所がある。

 

『パンチャタントラ』は僕が今まで読んできた原始仏典やウパニシャッドと比べてかなり異質で、現代日本でも数学に関係する本と歴史書では方向性が違うように、宗教の聖典と寓話集では文飾や発想が大きく違っている。

 

だから、この方向性の本を読んだのは『パンチャタントラ』が初めてだから、この方向性の本を読んで理解する知識が僕には不足しているのだろうと思う。

 

そして、同じように読んでいて意味が分からないテキストと言えば、社会学者の書いた良く分からない本がある。

 

それを読んだことが僕は幾たびかあるのだけれど、その時に、『春秋左氏伝』を読んだ時や、『パンチャタントラ』を読んだ時に抱いた、「分からないのは僕の知識不足が理由だろう」という心象を一度も抱いたことはない。

 

社会学者のクリステヴァの著書である、『外国人』を読んだときなんて、このおばさんは何でこんな意味不明な妄想を本に書き連ねてるんだ?って本気で思った。

 

読んでいて、あなたの言う外国人というのはあなたの想像上の存在に過ぎないのではないでしょうか。と思ってしまうようなことが書き連ねられていた。

 

あくまで感覚の話であって、それが正しい事の証明などできはしないのだけれど、社会学者が書くような文章を読んでいると、僕は「当人も何言ってるか分からないんだろうな…」ということを思うことがある。

 

時々僕のサイトにもそういうコメントが来るときがあって、本人も何言ってるか分かってないんだろうなこれ…と思うコメントが、例えば某ロボット漫画の世界観の元ネタについての記事にも来ていた。

 

本人は鼻高々に小難しい教説をなさっているつもりなのだろうけれど、それを読んでいる僕は、自分でも何言ってるのか分かってないんじゃないかと思う所があって、同じ意味不明な文章でも、原典訳の古代のテキストでそのような心象を抱いたことは殆どない。

 

だとすれば、彼らに抱いた心象はもしかしたら正しくて、事実、彼らは自分でも何言ってるか分からないことを言っているという可能性はある。

 

けれども、僕はそもそも議論が嫌いなので、"そういう文章"を書く人とやり取りをしてその辺りを確かにしようとする気持ちはない。

 

原始仏典の『スッタニパータ』で仏教の始祖ゴータマは、議論をすることを禁じたけれども、僕が議論を嫌うのは、釈尊の教えにそうとあるからということは関係なくて、ただ単に、言い負かすのも言い負かされるのも好きじゃないからになる。

 

言い負かしても少し胸がすいた気持ちになるだけで、その事に得はないし、相手は言い負かされて僕に恨みを持つかもしれない。

 

一方で言い負かされたら普通に嫌な気分になるので、僕はそもそも議論自体をしたいとは思っていない。

 

僕がこのサイトで色々書いているのは、議論をしたいからではなくて、自分が書いたものを読み返すために書いているだけで、そこに他者との議論というファクターは存在していない。

 

哲学では議論は重要だと嘯くけれども、何故重要であるかについての吟味はされていないと僕は思う。

 

元々、哲学というものはプラトンの言論の文化的延長線上にあって、プラトンは議論で自身の学を構築していて、その結果として今の哲学があるのだから、文化として議論を大切にするというのは分かる一方で、個人的にそれはただの普遍性のない文化の問題だとしか思えなくて、哲学は西洋的な伝統としてその振る舞いがあって、そこに根拠が与えられていないという場合が非常に多い。

 

いつも言っているけれども、西洋的な発想に対して他の地域のそれが劣っているとは思えないし、日本人的な思慮が西洋人的な倫理より優れているとは思えない。

 

ただ、それぞれの地域にそれぞれの文化があって、それらは等しくその地域に根差していて、けれども、哲学や西洋的な伝統は、我こそは普遍であり自明であると考えている節があって、どうしてもその辺りは好きになれない。

 

社会学もその延長線上にあって、更にはレトリックで誤魔化している学問だから、社会学も好きになれる筈はないのだけれども。

 

誤魔化してなかったら『知の欺瞞』なんて本は出ないのだから。

 

 

そんな感じの日記。

 

まぁ多少はね?

 

疲れたので誤字脱字の修正、諸々の点検は明日以降頑張りましょうね。

 

では。