『葬送のフリーレン』の元ネタのちょっとした解説 | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

僕は『葬送のフリーレン』という漫画を読んでいて、いくらかの描写について、元ネタはこれなんだろうなぁ…と思うような場面があったりなかったりする。

 

なのでこの記事ではそういった話についてちょっとまとめようと考えていて、ただ僕はフリーレンの作者である山田鐘人先生とアベツカサ先生の他の作品についてあまり詳しくない…というか、サンデー関係の作品をあんまり読んでいなくて、両名の作品についてはフリーレン以外を知らないという事情があって、いつものようにねっとりとした内容には出来ないので、今回はちょっとした解説です。

 

まぁ…幸村誠先生の作品は『プラテネス』を一周したことがあるだけで、他の作品は一切読んでいないというのに『ヴィンランド・サガ』はねっとりとした解説を以前していたから、同じ作者の他の作品の読み込みはあまり関係のない話かもしれないけれど。

 

あんなに『ヒストリエ』の解説書いてて『風子のいる店』読んでないし、解説書いててキチガイ扱いを複数回受けた鬼頭莫宏先生の作品についても、「なにもち」も最後まで読んでないし。

 

ともかく、フリーレンを読んでいて、この描写、似たようなそれを違う漫画で見たなと思う所があるので、今回はそういう話をして行くことにする。

 

まず、フリーレンでは魔力が体の周りを纏うような形で描かれている。

 

(山田鐘人 アベツカサ『葬送のフリーレン』3巻p.62 以下は簡略な表記とする)

 

(3巻p.71)

 

この魔力の纏い方について、僕は強い既視感を覚えている。

 

…というか、読んでいる人も大体そこのところは察している人も多いだろう描写で、敢えて言ったり、敢えて心に抱いたりしないだけで、大体みんな分かっているだろうけれども、『HUNTER×HUNTER』のオーラの描写が元なんだろうなと僕も思う。

 

(冨樫義弘『HUNTER×HUNTER』29巻 p.113 以下は簡略な表記とする)

 

(『HUNTER×HUNTER』6巻p.145)

 

漫画家になるような人物なんてものは漫画好きであるという場合が殆どで、『HUNTER×HUNTER』なんて漫画好きで読んでない場合の方が少ないというか、殆どそんなことはあり得ないような漫画なのだから、このオーラの描写をすることを原作者か作画担当のどちらが選んだかはさておいて、『HUNTER×HUNTER』の読者なのだろうと僕は思う。

 

…以下でも山田鐘人先生とアベツカサ先生、そのどちらがその描写の決定をしたのか判断できない描写が多数出てくるので、ここから先は"作者"と一括りにして扱うことにします。

 

ともかく、"作者"は『HUNTER×HUNTER』が好きらしくて、ハンタに由来するだろう描写がいくらかある。

 

まず、一級魔法使い選抜試験についていくらかそうだろう描写がある。

 

フリーレンでは過去に試験管を殺してしまったがために不合格になった受験生であるユーベルが、けれどもまた資格を取りに来るという描写がある。

 


(4巻p.185)

 

これに関してはまぁ普通に、ヒソカが元ということで良いと思う。

 

(『HUNTER×HUNTER』1巻p.121)

 

結局、どちらも試験管を殺したり半殺しにしたりして失格になったというのに、次の試験では当然の権利のように出てきているわけであって、『HUNTER×HUNTER』の方が時系列的に先行している以上、まぁハンタが由来ということで良いと思う。

 

というか、試験の前に受験者の中の"曲者"を紹介するという描写がフリーレンではされていて、その辺りもまんまハンタと一緒で、作者の脳内イメージはやはり、ハンター試験にあると僕は思う。

 

(4巻pp.184-185)

 

こういう描写は先のヒソカもそうだし、ハンタのハンター試験の開始前に存在している。


(『HUNTER×HUNTER』1巻pp.127-128)

 

作者が一級魔法使い選抜試験を描く上でしたイメージが、ハンター試験を漠然と下敷きにしていて、そこからこういう描写がフリーレンにあるのだと思う。

 

更には試験をするに際して以前合格した人物が担当について、各々が第何次試験という形で好きな課題を選んで受験者にそれをこなさせるという所も重なっていて、考えてみればそのような形式はハンター試験くらいしかないわけで、そう言った情報もフリーレンのあの試験の描写の元に繋がっているのだと思う。

 

加えて、ハンター試験は受験者が死ぬことを何とも思っていないし、危険な猛獣が沢山潜んでいるところで試験をやっているし、フリーレンの一級魔法使い選抜試験でも危険な生物が居て、その生物によって受験者が死んでも良いと思っているという描写がある。

 

(『HUNTER×HUNTER』1巻pp.179-180)

 

(5巻pp.44-45)

 

屋外で試験を行って、それに際して現住生物によって殺されないことも試験の一部であるというのは両者ともに非常に似通っていて、あまり多くの事を考えなければ、普通にハンター試験が元になっているから、フリーレンの方でもそうなっていると処理して良いと思う。

 

加えて、フリーレンでは最終試験に関して、合格者が多かったから減らさなければならないという話がされている。

 

(6巻p.172-173)

 

主人公たちのが参加した試験の試験の突破者が例年より多いという描写はハンタにもあって、ハンター試験の二次試験で似たような話がまずある。

 

(『HUNTER×HUNTER』2巻p.50)

 

ここのサトツの最初の台詞を読む限り、70人という突破者は優秀な数字であると判断できる。

 

それだけではなく、少しニュアンスは違うけれど、ゴンたちが受けた試験だと初参加者で最終試験まで進む人物が非常に多く豊作だったという話がされている。

 

(『HUNTER×HUNTER』5巻p.111)

 

ここでネテロが豊作だのなんだの言っている一方で、ゼーリエも今年は豊作だったと言っている。

 

(7巻p.21)

 

加えてキルアが受けた翌年の試験では会場に辿り着くのに成功した受験者が多すぎたので、その数を減らさなければならないという話もされていて、『HUNTER×HUNTER』作中では三回ハンター試験があるけれども、最後の一回はモノローグで終わって詳細が不明で、けれどもその内二回は、何らか合格者や突破者が多かったという話がされている。

 

おそらく、作者の一級魔法使い選抜試験の脳内のイメージがハンター試験に基づいているからそうなっているのだろうと僕は思う。

 

ハンター試験の最終試験では、相手を殺してはいけないというルールで一対一で戦っていて、一方でユーベルが前回失格になったという回想の中で、相手の殺害を禁じたタイマン勝負の話がある。

 

そういう話もやはり、ハンター試験が元なのかもしれない。

 

ただ、ハンター試験だけが材料かと言えばおそらくそうではない。

 

一級魔法使い選抜試験の第一次試験は、三人一組で行われていて、それに際して敵チームから所持している何か奪ったり守ったりするというような試験になっている。

 

一方で、『NARUTO』の中忍試験でも三人一組で巻物を奪ったり守ったりしながらゴールを目指すという試験が二次試験であって、おそらく、その辺りは普通に『NARUTO』のイメージなのだと思う。

 

とはいえ、一級魔法使い選抜試験の一次試験は閉鎖された空間でサバイバルといった感じで、『HUNTER×HUNTER』でも第四次試験が閉鎖された空間でサバイバルしながらナンバープレートを奪ったり守ったりする試験内容だったのであって、それだけではなくハンター試験の二次試験は豚を捕らえてこいって内容で、フリーレンも鳥捕まえてこいって話になっていて、まぁその辺りは『NARUTO』と『HUNTER×HUNTER』の"あいのこ"として、一級魔法使い選抜試験の一次試験はあったのだと思う。

 

ナルトの中忍試験は三人の内の一人でも欠けてはいけないルールになっていて、フリーレンの方も三人のうち一人も欠けてはならないという話なのだから、ナルトの中忍試験は材料として使われているのだろうと僕は考えている。

 

もっとも、僕が把握出来ていない何らかの他の材料が用いられている可能性は普通にあって、ただ、そうとは言え、ハンタやナルトの描写は材料として使われていないだなんてことはないと思う。

 

加えて、『NARUTO』に関してはもう一つ材料として用いられている様子がある描写がある。

 

フリーレンには厳しい試験官が居て、過去に合格者が0人だったというような話がゼンゼにある。

 

(5巻p.187)

 

これに関しては『NARUTO』で似たような話があって、カカシがかつて合格者を出したことがないという話がある。

 

(岸本斉史『NARUTO』2巻p.7 p.20)

 

まぁなんつーか、普通に作者が『NARUTO』の読者だからこういう描写があると僕は判断していて、ただ僕の方でナルトを読み込んでいないので、この場面以外にも理解しきれていないナルト由来の描写もあるのだろうと漠然に思う。

 

…作中の描写的に45人の一級魔法使いが居て、けれども試験は3年に一回で、ゼーリエの発言を鑑みるに6人ですら豊作で、そうとすると普段の合格者はほんの2~3人くらいで、一方でゼンゼが4回も全員落としているとなると、ゼンゼのせいで断続的に12年くらい合格者出してないとなって、そうすると設定バグってるな。

 

ゼンゼもまだ20代と言うような見た目なのに4回も試験官してるのもおかしいし、作中で三人も一級魔法使いが死んでいるし、あの世界の戦闘要員の死亡率を考えると、もう少し合格者が居ないと計算が合わない。

 

…細かいところはまぁ多少はね?

 

ともかく、そういう風に少年漫画に由来があるであろう描写は結構あって、『うる星やつら』由来の描写もあったりする。

 

…まぁこの事は普通に、パロディとしてやってるだけで、『うる星やつら』を読んだことがある人は全員理解している話だろうけれど。

 

(6巻pp.28-29)

 

ここに「暗いよー!!怖いよー!!」というセリフがある。

 

これは普通に…『うる星やつら』の面堂のパロディですね。

 

(高橋留美子『うる星やつら』21巻p.27)

 

ここで鐘を素手で割っている面堂は、作中でこのように暗くて狭い所に閉じ込められるという描写が非常に多くて、その度に「暗いよー!狭いよー!怖いよー!」と言っている。

 

どう考えたって面堂のパロディで、そうではないと判断するのは道理に適ってないと思う。

 

ただ…宝箱に嵌っている時以外の他の全ての場面のフリーレンの性格について、「暗いよー!!怖いよー!!」とは言わないようなキャラクターなのではと個人的に思う部分がある。

 

お前にとってこんなこと怖くもなんともないだろ…って。

 

その辺りについては、そういう些細な整合性を振り切ってまで『うる星やつら』のパロディを入れたかったが故の描写なのかなと思っている。

 

加えて、同じ高橋留美子先生の作品の『犬夜叉』の中で、敵の悪い奴が善良な人間の振りをして、自分が殺した人間の埋葬を行うという描写があって、七人隊の煉骨が、自分で殺したというのに住職に変装して自分で焼き殺したその死体を埋めるという描写がある。

 

一方で、フリーレンにも自分で殺したのに埋葬したような様子を見せて、自分は善良だと偽る場面がある。

 

(7巻pp.125-127)

 

両者ともに殺戮者は聖職者に自身を偽装していて、『犬夜叉』方が先で、あの場面はロクに『犬夜叉』を読んでいない僕でも覚えていたくらいだから印象的な場面で、もしかしたらフリーレンの剣の魔族の話は『犬夜叉』の煉骨の話が元なのかもしれない。

 

『犬夜叉』途中までしか読んでないからよう知らんけど。

 

僕は『らんま1/2』までの高橋留美子先生のファンなので…。

 

他にはフリーレンに出てくる魔族の性格設定についての話がある。

 

フリーレンに出てくる魔族は、人間に極めて似た存在である一方で、その情緒に関しては人間と根幹から違っていて、魔族の言葉は人間を騙し捕食するための鳴き声が元だという話がされている。

 

(2巻p.136)

 

どの場面がと問われる答えるのが難しい話にはなって、具体的にここが似ているという話は明確には出来ないけれども、僕はこのように人間と極めて似て見えるけれども、根本的な部分に違いがあって、絶対に分かり合えない生物が登場している作品を知っている。

 

それは『寄生獣』であって、『寄生獣』では人々の中に頭だけを乗っ取った寄生生物が混じっていて、彼らの言葉は人間と根本的な部分で違いがあるという話がされている。

 

(岩明均『寄生獣 完全版』5巻pp.220-221)

 

このような人間味に溢れているように見せかけて、その実、その言葉は全く人間的な文脈はないという魔族がフリーレンにも登場している。

 

…まぁフリーレンの魔族は黄金郷のマハトも含めて、究極全ての魔族がそうなのだけれども。

 

その中で特に大魔族ソリテールは、優しい人間のように話しかけてくるけれど、人間と同じ意味ではないという風に描かれている。

 

(10巻pp.147-148)

 

ここでソリテールは友好的に会話をしていると見せかけて、けれども人間であったらあのように話しかけた人物がしないような躊躇のない攻撃を仕掛けている。

 

『寄生獣』でも同じように、その言葉が人間とは全く異質で、捕食の為の罠でしかなくて、会話を相手を殺すための道具として使っている描写がある。

 

(同上『寄生獣』5巻pp.225-226)

 

全く同じ着想と断言するには少しズレている部分があるけれど、『寄生獣』のパラサイトにしても、フリーレンの魔族にしても、どちらも人間を捕食するために人間的なものを偽装していて、その言葉の人間味の無さについては、非常に似通っていると個人的に思っている。

 

しかも攻撃する場所は同じように肩で、先のソリテールの場面の根底にあるイメージは『寄生獣』の今引用した場面という可能性はないではない。

 

そういう風に『寄生獣』を思わせるような描写があって、まぁ普通に、『寄生獣』のパラサイトにフリーレンの魔族の着想の元はあると僕は思う。

 

具体的にこの場面、というものはないにしても、ぶっちゃけそっくりだからなぁ…パラサイトと魔族。

 

『寄生獣』では田村玲子がパラサイトの存続のために人類との共存を踏まえて色々と模索している。

 

(同上『寄生獣』p.97)

 

一方で、フリーレンでも魔族は魔族なりに共存を目指している個体もいる。

 

(10巻p.21)

 

結局、『寄生獣』だとミギーと田村玲子以外のパラサイトは人間を理解できずに終わっていて、その田村玲子の人間とパラサイトの関係性についての見解も、人類には良く分からないそれになっている。

 

(同上『寄生獣』6巻pp.182-183)

 

つまるところ、フリーレンにしても黄金郷のマハトが考える人類の共存と人類側の都合とでは相容れないという結論になっていて、やはりそういう相容れない人間に似た生物というのは、『寄生獣』のパラサイトに由来があるのではないだろうかと僕は思う。

 

…まぁ『寄生獣』の方で田村の結論が良く分からないのは、岩明先生の進化論についての理解が深いと言えるようなそれではないからで、進化論、特にリチャード・ドーキンスらの血縁淘汰説を正しいとする学派の進化論の文脈では、パラサイトが人間の子であるということはないのだけれども。

 

『寄生獣』的にはそれだけでは生きていけない、相手が存在しなければ生存すら出来ない関係性、すなわち親の庇護が無ければ生きられない子としてパラサイトはあるという話にはなって、けれども、進化論的にはそういう関係が親子を決定付けはしない。

 

まぁ爬虫類とか魚類とか昆虫とか、子育てしない生物も多いので。

 

他には魔族は人間以外も食べられるけれど人間を食べているという話がされている。

 

(7巻p.128)

 

一方で、『寄生獣』でもパラサイトは人間以外も食べられるという話がある。

 

(同上『寄生獣』6巻p.181)

 

ここでパラサイトは人間以外の食事でも生きていけるという話がされている。

 

こういう共通する描写はやはり時系列的に『寄生獣』の方が先である以上、フリーレンが『寄生獣』の影響を受けていると判断した方が妥当だろうと僕は思うし、この場面でされているパラサイトが人間を食わなくも良いという話は、パラサイトが人間以外の食事で生きていけるのなら、人間とパラサイトは共存できるわけであって、そういう文脈がこの場面にはある。

 

黄金郷のマハトの人類との共存の話も、こういった『寄生獣』の情報が元なのかなとなんとなしに思う所がある。

 

『寄生獣』で見たような描写がフリーレンにあるのはそれだけではなくて、人間から見て異質の"彼ら"は、昔からちっとも変わらないと言われる描写が両者に存在している。

 

フリーレンでは黄金郷のマハトが出会った頃から変わっていないという話がされている。

 

(10巻p.93)

 

こういう風にマハトはいつまでたっても変わっていないという話がされていて、同じような言及が『寄生獣』にもある。

 

(同上『寄生獣』p.239)

 

もっとも、この場面はこの後にある後藤との戦いの時に、人間的な情を持たないはずのミギーが自分が犠牲になってでも新一を逃がす場面のためのそれで、マハトとは違ってミギーは変わっていないということはないのだけれど。

 

けれども、似たような言及であるというのは確かだと思う。

 

どちらもずっと変わらない"友"に、呆れるように、諦めるように、語りかけている。

 

そういう風に岩明先生の『寄生獣』におそらく魔族の性格設定の元がある様子があって、それに加えて同じ岩明先生の『ヒストリエ』もフリーレンの作者は読んでいるようで、それをそうと思わせる描写がある。

 

フリーレンではソリテールと黄金郷のマハトが、男女二人でシャチという大きな海獣とサメの標本の下で話す場面がある。

 

(10巻p.14)

 

こういう風に標本の下で会話をする場面がフリーレンにはあって、似たような場面は『ヒストリエ』にもある。

 

(岩明均『ヒストリエ』4巻p.172)

 

フリーレンの方は収斂進化の話をするために、元は全く違う生物だというのに同じように海で大きな体を持つシャチとサメの標本の前で色々語ってる。

 

『ヒストリエ』とフリーレンではシャチとクジラで若干の差異があるけれど、場面としては非常に似通っていると僕は思う。

 

僕は人生の中でクジラなどの海獣の標本の前であれこれ語るという漫画に『ヒストリエ』と『葬送のフリーレン』以外で出会ったことがない。

 

大きな海獣の標本の前で話し合う漫画に殆ど出会ったことが無いのはおそらく、これを読んでいる多くの人にとっても同じなはずで、そうそう、漫画の中でクジラとかの標本の前であれこれやり取りをするという場面にはお目にかかれない。

 

僕はそういう事情からフリーレンのシャチとサメの標本の前で話す描写は、『ヒストリエ』由来だと考えている。

 

あまり深く考え過ぎなければ、フリーレンの作者が『寄生獣』とか『ヒストリエ』を僕と同じように好きなんだろうという話として良いのではないかと思っている。

 

そんな感じのフリーレンの元ネタについて。

 

最後に、フリーレン作中の予定変更について少しだけ言及していくことにする。

 

フリーレンは完全に先を見据えて物語を作っているというよりは、フリーレンが魔王城に向かって旅をするというところ以外に関しては、かなり行き当たりばったりで物語を作っているだろうという推論がある。

 

まず、魔族の性質について、魔族の性質がフリーレンで語られているような形で、すなわち、人間と絶対に分かり合えない存在であったなら、その事はフリーレンの序盤でそうであってように、それに対する敵対者が知らないはずがないようなレベルの話になる。

 

常日頃から熊を殺して生きているマタギの男が、熊の習性を知らないわけがないわけで、けれども、フリーレンの序盤では魔族と殺し合いをしていた人々が、魔族の性質を把握していないという描写がされている。

 

整合性を考えると、魔族の敵対者の基礎知識としてそれはあるべき情報で、けれども知られていないというのはおかしな話になる。

 

物語が進むと魔族と戦う人間は、魔族とは絶対に分かり合えないという情報を持ち合わせるようになって、ゲナウは魔族の命乞いに一切耳を傾けないし、デンケンは黄金郷のマハトとの対話は無意味だと理解した上で行っている。

 

まぁその事については、漫画を始めた当初だと魔族のあの性質について、敵対者は絶対に知っていないとおかしいようなそれになるとは想定していなくて、断頭台のアウラとの戦いを描いたに際してその設定を出したところ、少し不具合が出たという話になると思う。

 

長期的なビジョンがあって、魔族のあの性質を描いたとすると、敵対者は誰しもが魔族のあの性質を知っていないとおかしいような話になって、まぁ要するに、あの魔族の性質は入念に最初から練られていたわけではないだろうと僕は思う。

 

実際、色々な設定は最初から練られていた訳ではないと判断できる材料があって、フリーレンはフランメの顔を覚えているのは自分だけだろうと独白している。

 

(2巻p.105)

 

けれども、ゼーリエも同じようにフランメの事は知っていて、もし、ゼーリエをこの段階から出そうと考えていたならば、このセリフはあり得ない。

 

あんな印象的なフランメのことをゼーリエが覚えていないわけもなくて、フリーレンの台詞はゼーリエが存在していないという前提が無ければ成り立たない台詞になる。

 

そのゼーリエに関しても、一級魔法使いは全てゼーリエの弟子という設定になっていて、けれども、物語全体の整合性を考えると、どうやらその設定は当初なかった様子が読み取れる。

 

(8巻p.89)

 

こういう風に一級魔法使いは全員ゼーリエの弟子という話なっていて、ゲナウもゼーリエの事をゼーリエ様と呼んでいる。

 

(8巻p.91)

 

ゲナウは弟子としてこういう風にゼーリエを様付けして敬意を払っていて、けれども、一級魔法使いの試験の時は平然と呼び捨てにしている。

 

(5巻pp.123-124)

 

もし、最初から一級魔法使いが全員ゼーリエの弟子となる設定があったなら、ゼーリエの居ないところで名前を出した時ですらゼーリエ様と言っていたゲナウは、ここでもゼーリエ様と言っていないと道理に適わない。

 

要するに、この時点ではゲナウはゼーリエの弟子という設定はなかったのだろうと僕は思う。

 

その事が良いとか悪いとかではなくて、ライブ感で漫画を描くタイプの漫画家はいて、フリーレンに関しては作者がそっちのタイプで、それが故に描写が前後で齟齬を持っているのだろうという話になる。

 

ジョジョとか『キン肉マン』とかいった漫画は完全にライブ感で描かれていて、けれども大人気であるような作品は数多あるのであって、その事は漫画の良し悪しには関係ないとはいえ、事実、前後でちょっとした齟齬があるからその齟齬を指摘しているだけの話になる。

 

そんな感じのフリーレンについて。

 

メモ帳にはあと、前回の試験で真っ二つにされた一級魔法使いの試験官がコートの魔法を纏っていたことについて、コートの能力者というのが『武装錬金』に居るからそこからなのではという話と、七崩賢が物語の開始の時点で半壊状態であることについて、『キングダムハーツ』の13機関が物語の開始時点で半壊状態だったという話があるから、そこに着想の元があるのかなという話が書かれていたけれど、『武装錬金』も『キングダムハーツ』も詳しくないので掘り下げないでおくことにする。

 

…一応、フリーレンの解説記事を一生懸命作ったけれども、検索でこれから僕が書いたこの文章がGoogleとかで引っかかるようになるとは思えないし、このサイトを別の用事で訪れる人が、フリーレンについて知っているとも思えないから本当にどうしようもないと思っている。

 

フリーレンはこれからアニメ化するから、競合サイトがぽこじゃか生まれることが想像できて、その競合サイトと張り合おうとは思わないし、張り合える内容も書けないから書かないし、以後、フリーレンの記事は書く予定はないから色々ねぇ…。

 

まぁ書きたいと思って書いたのであって、とにかく公開してしまうことにする。

 

誤字脱字等の点検は、明日以降の僕に丸投げしましょうね。

 

では。

 

・追記

フリーレンの11巻を読んでいたら、こういう場面『寄生獣』で見たな…というそれを見つけたので追記することにする。

 

黄金郷のマハトは、致命的な攻撃を受けた後に、その血を壁になすりながら歩くという場面がある。

 

(『葬送のフリーレン』11巻pp.100-101)

 

こういう風に血を壁に擦り付けながら歩くという場面が『寄生獣』にもある。

 

(岩明均『寄生獣』完全版 3巻pp.235-236)

 

僕は死に体の敵がそれでも歩いて、その中で壁に血をこすりつけながら歩くという場面に、フリーレンと『寄生獣』以外で出会ったことがない。

 

だから、個人的にフリーレンのマハトのあれは『寄生獣』由来なんじゃないかと思う。

 

…結構似てるよね、『寄生獣』の島田のあの場面とマハトの最後の方。

 

ちなみに、マハトは体のど真ん中にゾルトラーク食らってさっきの場面に至っているけれど、『寄生獣』のさっき引用した化け物は、マハトと同じところに同じように風穴あけられて死にます。

 

・追記3

そう言えば黄金郷のマハトの物体を黄金に変える能力について、あれは元ネタがある。

 

フリーレンに先行する創作物の中で、触るものをみな黄金に変える能力を持った人物が登場するそれがある。

 

それはフリュギアのミダス王で、ギリシア神話に出てくるミダスという王様は、触れるものみな黄金に変える手を魔法?で得て、その結果食べるものも飲むものも黄金に変わってしまって、それが故に苦しむという話が残っている。(参考)

 

ミダス王ってのはあれですね、「王様の耳はロバの耳」で有名な人ですね。

 

フリーレンのマハトに関しても、噴水の水が黄金に変わっていて、液体も黄金に変えているからやはりその辺りはミダス王から…というか、黄金に変える能力者の全ての大元の元ネタはミダス王であって、その話は西暦4世紀には既にあって、どういうルートでフリーレンの作者にその情報が辿り着いたのかは分からないにせよ、これを読んでいる多くの人が「王様の耳はロバの耳」という言葉を、何処で聞いたかも覚えていないのに聞いたことがあるように、フリーレンの作者も、どっかで触れるものを黄金に変えてしまう人物の話を聞いたことがあるのだと思う。

 

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