旱母其れ上帝の命を受け | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は小さなトピックについて色々書いていくいつものやつをやって行くことにする。

 

本来的には半年以上前の日記の冒頭で言及していた、暦についてとか人間の道徳直観についてとか本能についてとかの話の方がしたくて、けれどもそれらの内容は重くて、下手したら1万字コースなのであって、その重さの前に尻込みしているというのが実際だから、今回はそれから逃げて違う内容のことを書いていくことにする。

 

暦についてとか、その内容を書くために隣町に定価16500円の本を複写しに行っているし、その話に必要な論文まで用意していて、そんな内容の"日記"なんて書くのは重いに決まっているわけであって、やる気が出る筈もない。

 

人間の道徳直観についても専門書…というか『ユカタン事物記』からマヤ人の行動についての記述や、他にも論文から引用が必要だし、本能については進化論の血縁淘汰説と適応度の説明もしなければならなくて、そんな"日記"を書くなんて、書くのは嫌なので、僕は後回しにしてしまうことにした。

 

だから、そういうのを後回しにして小さなトピックを用意して色々書いていくわけだけれども、その内容も結局論文からの引用なわけであって、自分でも何をやっているのかよく分からない。

 

とにかくやって行くことにする。

 

・古代中国の医術について

『武威漢代医簡』に内臓が飛び出る怪我についての話があって、その記述だと薬飲んどけば内臓は勝手に戻るって話だったから、古代中国には縫合なんてないと思っていたのだけれど、よくよく思い出してみれば縫合はあるんだよな。

 

『楚居』という出土文献にいばらで胸を縫う話があって、当時の中国には縫合という発想はあったらしい。

 

じゃあ何故、『武威漢代医簡』では縫わないかというと…謎です。

 

以上。

 

出土文献である『武威漢代医簡』では、以前言及した通り、内臓が飛び出た場合の治療の話がある。

 

「金創で腸が出たものを治療する虞方。龍骨1つまみを粉にし、豉汁で飲み、日に二、三回飲め。腸はひとりでに中に入る。(参考)」

 

豉汁というのはまぁ言ってしまえば味噌汁の事で、刀傷を負って内臓が飛び出た場合は、竜骨を味噌汁に入れて飲むと良いと書かれている。

 

味噌汁は日本の文化だと思っている人が大半だろうけれども、古代中国から海を渡ってきた文化であるらしい。

 

ここに竜骨についての話もあって、この竜骨もやはり、僕らが知っている竜骨の事で、何かの化石の話なのだろうと僕は思う。

 

…中国ではこういう風に紀元前後から竜骨が薬として消費されてきたわけであって、大量の歴史的価値がある化石が粉にされて服用されてきたのだろうとおぼろげに思う。

 

ともかく、この文章を書いた人は、内臓が飛び出てもそこを縫おうという発想を持っていないということが先の引用から分かる。

 

僕はこういう文章があるから、古代中国では縫合なんて技術はなかったと思い込んでいたのだけれども、よくよく思い出してみれば、時系列的に先行する、古代中国戦国時代のテキストの中で、縫合に関する記述がある物があったということを思い出した。

 

それは清華簡の『楚居』で、このテキストの中に縫合に関する記述を見ることが出来る。

 

精華簡というのは精華大学に寄贈された出土文献で、これは大体、古代中国の楚の国の墓から盗掘されたものであると分かっていて、放射性炭素年代測定で紀元前数百年のものだということが分かっている。

 

その精華簡の中に『楚居』というテキストがあって、これはまぁ、楚という国の歴史書みたいなもので、その国の成り立ちについての記述がされている。

 

その中で母親の胸を破って出てきた子についての記述があって、それに際してその破れた胸を楚(いばら)で縫ったという故事があって、それが故に楚という国名が来ていると言及されている。

 

「季連は初めて魏山に降り立ち、(家屋がないため、やむを得ず)洞穴を住まいとして窮屈な生活を送った。季連は魏山から勇躍前進して鶉山(骰山)に出て、爰陂(えんは)に住居を構えた。さらに汌水(せんすい)(伊水)を遡って、そこで殷王・盤庚(ばんこう)の息子に出会った。盤庚の息子は方山(外方山)に住んでおり、その娘の名を妣隹(ひすい)といった。妣隹は慈愛で応接する姿勢で善く盤庚の息子の外交を輔佐し、外交使節として四方を歴遊していた。季連は(爰陂を訪れた妣隹から)盤庚の息子が自分を聘問していると聞いて、妣隹に従って之泮(しはん)に赴き、(妣隹を妻に迎えて)𦀚伯と遠仲の兄弟を生んだ。あちこちをゆっくり経巡りながら、先に京宗の地に入った。穴熊は遅れて京宗の地に移り住み、そこで妣列に出会って、載水(さいすい)(浙川)を遡り、その様子はいつも寄り添う仲むつまじさであった。そこで妣列を妻に迎え、侸叔と麗季(りき)の兄弟を生んだ。麗季は母親に従順ではなく、身体を破り裂いて母親の胸から抜け出した。そこで妣列はあやうく死にかけ、巫咸は楚(いばら)で母親の胸を包合したので、今に至るも楚人というのである。(参考 下線部引用者)」

 

こういう記述がある以上、当時の中国には縫合という発想があったらしい。

 

じゃあ、時代的にこの文章が書かれてから数百年後に書かれたであろう『武威漢代医簡』では縫合が行われないのは…なんでなんですかね…。

 

まぁ中国は広いし、文化にも地域差があっただろうから、『武威漢代医簡』が書かれた地域や学派だと、縫合は行わなかったのかもしれないし、ただ偶然、内臓が出るタイプの刀傷だと縫合は行わないだけで、他の場合だと普通に縫ったりしていたのかもしれない。

 

ところで、僕は『楚居』の文章の冒頭を引用したわけだけれども、その文章についていくらか言及したいことがある。

 

まず、これは楚の国の建国神話にはなって、けれども、神々という発想は存在していないということが分かる。

 

『日本書紀』でも『古事記』でもそうだし、ローマの建国神話にしたところで神々についての言及があるのだけれども、『楚居』には一切そういった言及がない。

 

他の記事で何度も言及してきたけれども、古代中国には神話という物語のカテゴリー自体が存在していなかった様子がある。

 

…というより、このような出土文献にあまりに神々の物語についての記述がないということが、僕に中国には神話という発想はなかったのではと強く思わせるところがあって、出土文献で神々の物語に出会ったことが僕は一度もない。

 

一応、『東大王泊旱』という出土文献では、天が旱母に命令するという言及があるけれど、それでも神々の物語がそこにあるということも無い。

 

「(楚の王は不思議な夢を見てその夢の意味を太宰に問うたところ)太宰は次のように答えた。これぞ世に言う旱母の仕業です。上帝は旱母に命令して、諸侯でありながら国家をきちんと統治できていない君主を矯正しようと考え、反省を促す刑罰として旱魃を降したのです。(参考)」

 

上帝というのは天の神様の別名で、その上帝が旱母に命じて旱魃を引き起こしたとあるけれども、ここに言及のある旱母が他の地域でいう所の神かと言うと難しい所で、災害の擬人化でしかない可能性もある。

 

実際、他の出土文献の『魯邦大旱』では山や川を擬人化している場合もあって、旱母に関してもそういう擬人化なのかもしれない。

 

「 魯の邦が大干魃に見舞われた。哀公が孔子に言うには、「そなた、余のためにこの方策を考えてくれまいか」と。孔子は答えて、「邦が大干魃に見舞われたとき、失ってならないことは刑と德とでしょう。ただ…」と言った。〔哀公は、「〕…どのようにしたらよかろう」と言った。孔子は、「庶民は雨乞いの祀りで鬼神に祈りを捧げることは知っていますが、刑と德とは知りません。もしも、珪璧や幣帛などを山川の神々にお供えすることを惜しまず、刑と德とを正しく行えば…」と言った。 …孔子は哀公のもとを退出して子貢に出會って言うには、「賜よ。お前は街角での人々のうわさ話を聞いて、私の哀公に對するお答えが間違っているなどと言うのではなかろうね」と。子貢は、「いいえ(そのようなつもりはありません)」と言った。(孔子は)「そもそもお前は、とても(天の)命を尊重しているようだね。あの刑と德とを正しく行い、それによって上天にお仕えするというのは、まさしく正しいやり方だなあ。あの珪璧や幣帛を山川の神々に惜しみなくお供えをすることが、どうしてよくないことがあろうか。いったい山にとっては、岩石こそおのれを覆う膚であり、(そこに茂る)樹木こそはおのれが治める民である。もし天が雨を降らさなければ、岩石は燒け焦げてしまうであろうし、樹木も枯れて死んでしまうであろう。だから山が雨を待ち望むことは、われわれ以上のものがあるはずだ。ならば(山の神は)われわれが(彼の)名を唱えて祈ってくれるのを必ずしも待つまでもあるまい。いったい川にとっては、(流れる)水こそおのれを覆う膚であり、(そこを泳ぐ)魚たちこそはおのれが治める民なのである。もし天が雨を降らさなければ、水は涸れてしまうであろうし、魚たちは干からびて死んでしまうであろう。だから川が雨を待ち望むことは、われわれ以上のものがあるはずだ。ならば(川の神は)われわれが(彼の)名を唱えて祈ってくれるのを必ずしも待つまでもあるまい。」と言った。(https://mcm-www.jwu.ac.jp/~skproject/about/publication/pdf/1st-5.pdfより)」

 

…以前読んだ論文だと、山川こそ旱魃で苦しんでいる当事者なのだから、その苦しんでいる山や川に祭祀をしても、そもそも山や川にどうにか出来る力があるのなら、祭祀をしなくても山や川は自分たちでどうにかするはずなのであって、けれども、日照りは続いている以上、山川にこの日照りをどうにかする力はなくて、この場では山や川に対する祭祀をせずに、刑罰と褒賞、すなわち刑徳をしっかりと行って天に誠実さを示すべきだって話として翻訳されていたけれども、この訳だと山や川への祭祀はすべきだって話になってますね。

 

古代中国では災害が起きたら基本的に時の君主のせいであって、君主が正しい政治を行わないから災害が起きたと判断される場合がある。

 

だから、正しい政治として正しく刑徳を示そうという話ではある。

 

『東大王泊旱』でも楚の君主の政治的な態度が不真面目だから、上帝は旱母に命じて旱魃を引き起こさせたと言及があって、古代中国では天候は君主の政治と直結している。

 

ともかく、『魯邦大旱』の記述について、山川に祭祀すべきと書いてあるのかそうでないのか、どっちが正しいかは分からないけれども、こういう風に山や川を擬人化して色々語るという場合があって、山の皮膚である岩肌が焦げると山が困るし、川の皮膚である水流が涸れると川は困るとあって、旱母に関しても擬人化の一種なのかもしれない。

 

・追記

自分が書いているものを読み直していて、そう言えば『史記』に剣を擬人化する描写があるということを思い出した。

 

場面としては孟嘗君という人物が広く人材を集めていて、その中に自分の長所さえも語らずに寄宿している馮驩という人物が今何をしているかを部下に尋ねたという場面です。

 

「 孟嘗君は驩を伝舎に置き、十日経って、伝舎の長に、「客は何をしているか」と問うた。すると長が答えた。「馮先生はすこぶる貧乏で、一剣を所持しておられるだけらしい。それも蒯で柄を巻いた粗末なもの。その剣を手で叩きながら、『長鋏を、帰来らんか、食うに魚なし』とうたっておられます。(司馬遷 『世界古典文学大系 5B』 小竹文夫訳 筑摩書房 1962年 p.83)」

 

長鋏は長剣の事だと注釈にあって、このように剣に語りかける場面がある。

 

この場面では剣が何かを答えるということはないし、剣が人格を持っているということも無い。

 

それと同じように、山が苦しむだの、山に祭祀するだのという話があったところで、そこに人格を想定しているかどうかは定かではなくて、現代人が遭難して共に登った山で友人を失った時に、「山よ!」と嘆くようなニュアンスとして、古代中国人にとっての山川があるという可能性はある。

 

だから、山川の神という概念があったところで、他の地域の神と同一視して良いのかは微妙な所になる。
 
…まぁ河の神と夢の中で話をするという記述が『春秋左氏伝』にはあるのだけれども。
 
ただ、野球選手が普段愛用しているグローブと話す夢を見たところで、そのグローブを神と認識していたからそのような説話があるとは語れないから、なかなか難しい所はある。
 
追記以上。

 

ともかく、旱母についてはあれ以上の言及はなくて、どう処理をすればいいか分からない。

 

とはいえ、旱母に関する物語があるわけではなくて、中東の神のように何かを守護するという話も別にない。

 

というか、古代中国において何かを守護する神概念は未だ出会ったことがない。

 

細かい判断に迷うような言及の事はさておき、とにかく中東やギリシア、インドで見るような神々の話は古代中国ではまず見ない。

 

神って言っても中国の場合は死者の霊や精霊のようなニュアンスが強くて、先の『魯邦大旱』の記述に関しても、山や川の精霊に捧げものや儀式をするというニュアンスとして処理した方が良くて、中東などで見るような神の話をしているわけでは別にない。

 

加えて、『楚居』の記述を見るに、楚の人のアイデンティティは中華にあるということが分かる。

 

「季連は(爰陂を訪れた妣隹から)盤庚の息子が自分を聘問していると聞いて、妣隹に従って之泮(しはん)に赴き、(妣隹を妻に迎えて)𦀚伯と遠仲の兄弟を生んだ。(同上)」

 

季連というのは楚の国の古い時代の国主で、その国主が殷の王族の娘を嫁に貰ったという記述があることが分かる。

 

いつだかネットで、古代中国戦国時代ではそれぞれの国が異民族で、違う文化を持っていたとか適当こいている人が居たけれども、実際に当時の文章を読む限り、楚人は中華に自分たちのルーツがあると考えていたようで、楚はかなり中華化が進んでいた様子がある。

 

元々、楚の人は異民族であったのはそうであるようで、『史記』には自分たちは蛮族だから、中華の伝統に従う必要はないと王を名乗るという記述がある。

 

「熊渠は「わしは蛮夷だから、中国の爵号や諡号にかかわらなくてよいのだ」と言って、長子康を立てて句亶王とし、次子紅を鄂王、末子執疵を越章王とした。それらは、みな江辺の楚の蛮地であった。 (司馬遷 『世界文学大系 5A 史記』 小竹文夫他訳 筑摩書房 1962年 p.279)」

 

元々、王という称号は中華で唯一、周の国の国主のみが名乗れた称号で、けれども、楚は蛮族だから関係ないと、楚の国主は王を名乗ることが結構多い。

 

日本でいう所の天皇という称号と古代中国の"王"という称号は大体似たようなニュアンスで、まぁ王政復古の大号令で復古したのは中華の王政の話であって、中華に皇帝があるのに日本でも国主はエンペラー名乗ってるというような感じとして処理して良いと思う。

 

そういう風に元の出はどうやら蛮夷であった楚であるけれども、時代が下ると中華化が進んだようで、アイデンティティを中華に求めるというか、自分たちの祖先には殷の血が混じっていると主張するほどには、自分たちが中華の国であるという自己認識があったらしい。

 

そういう風に楚のアイデンティティーは中華にあるし、以前言及したように、秦の国の初代は周の王に土地を賜ったと『史記』に言及があるし、趙、魏、韓は元々晋という一つの国で、晋の初代は周の二代目の弟だし、韓は晋の分家だし、趙は秦と祖先が同じだし、魏も周の王族の分家が出身になる。

 

残る斉の国と燕の国については、斉の初代は周に仕えた太公望で、途中で田氏に乗っ取られるけれども、田氏は周の武王によって陳に封土されたのが始まりだし、燕の国は初代が祀り事をよろしくやって、王に褒められて燕の国を賜ったという経緯が書かれた青銅器が出土している。

 

古代中国戦国時代は異民族同士で殺し合っていたと主張する勉強不足な人がたまに居て、けれども、実際にそれぞれの国を見ると、楚以外は全て周の王室と周の家臣の末裔だし、楚にしたところで『楚居』を読む限り、アイデンティティは中華にあると分かる。

 

楚の出土文献には儒教の経典である『礼記』の一部もあって、儒教的な文化も取り入れられていた様子があって、文字にしたところで中華の文字をほぼそのまま使っているのだから、異民族同士という認識が戦国時代の当時あったかというとおそらくなかっただろうと僕は思う。

 

そんな感じの日記。

 

今月は体調が信じられないくらいヤバいので、漫画の解説は…駄目かもしれませんね…。

 

色々仕方ないね…。

 

では。