聖なる水で満たしておくれ | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は細かいトピックスを用意して、色々書いてくいつものやつをやって行くことにする。

 

どうでも良いのだけれど、今現在このサイトは今月、二回しか更新していない。

 

ただ、二回しか更新していないと言っても、一つ目の記事で16277字、二つ目の記事で9705字を書いていて、それにプラスしてあのサイトで今月は一つ記事を上げていて、その記事は8981字あったのだから、合計して34963字であって、普通に大学生の卒業論文レベルの文字の量を僕は今月既に書いている。

 

僕は自分ルールとして毎月四つの記事というのを決めて、その規定に合わせて毎月四つの記事を上げようと色々やっているけれど、それを決めた頃は一つの記事は3000字から4000字であって、もう今月とかだと一つ目の記事でその頃の規定量より多く書いているというのが実際になる。

 

もっとも、最近は多量に引用していて、昔はそういうのしてなかったのだから、実際に僕が書いている量はその文字数よりも少ないわけで、ただそうと言えども、どう勘定しても昔に書いていた量の倍以上を既に書いていて、更にこれから6000字以上をおそらく書くのだから、なんというか、自分ルールの方を改定した方が良いのではと思う部分がある。

 

今年に入ってから1月と3月と4月は三つの記事しか上げていないけれども、色々あった3月は別として、1月と4月は実際の所、公開していないだけで記事一つ分の文字量は書いている。

 

1月に関しては、古代世界の裁決について色々書いていて、殆ど結論に至るところまで書いて、最後に古代中国の話に移ろうとしたところで、気になって色々検索したら、結論が覆る内容の出土品が存在すると分かって、記事自体がボツになったということがあった。

 

4月に関しては色々古代インドの仏教教団の性生活について書いていた。

 

その結論に当たる部分について、その記事自体に、今後仏典を読む進めていく中でその記述に出会ったらこの記事の全てが覆ると僕自身が言及した内容に関して、果たしてその事がまだ読んでない仏典に書かれていると分かって、記事自体を非公開にしたという経緯がある。

 

結局、結論以外についての記述が間違っていたところで、追記や修正をすればまだそれはどうにかなる一方で、結論が間違っていた場合、もうどうすることも出来ないので、記事自体が放棄されたというのが今年に入って二回あった。

 

1月のそれは古代世界の法裁決について、『ハンムラビ法典』とか『ヤージュニャヴァルキア法典』とかの話をして、それに比較して中国は…ってことを書こうとして、けれども、その結論部分を書くに際して、僕が未だ読んでいない出土文献の中で、楚の国の裁判の裁決に関する竹簡や木簡が出土していることが分かって、その文章を読まずにこれ以上古代中国の裁決に関しての話は出来ないという事情から、それ以上、記事を書くことが出来なくなってしまった。

 

4月に関しては、論旨としては色々性的な概念の禁忌が原始仏典の『スッタ・ヴィバンガ』に書いてあって、晒し物にされた生首に男根を挿入することを禁止するということすらも書かれているのに、自慰行為自体の禁忌が書かれていないから、当時の仏教教団は自慰行為はお目こぼしにされていたのでは?という話だったのだけれど、僕が未だ読んでいないその続きのテキストの中で、自慰行為に関する禁忌についての記述があると分かったということがあった。

 

記事自体に僕がまだ読んでない仏典に、自慰行為の禁忌が書かれていたらこの記事自体が覆ると僕自身言及していて、その予見通りに覆ったという話になる。

 

結論が覆った以上、もう記事に関してはどうしようもないと判断して、記事自体が現在非公開になっている。

 

そういう風に自分ルールは全うしようとは頑張っているけれど、負担が数年前の倍以上になっているのであって、自分でもどうなのと思う部分がある。

 

まぁ…それでも今月は四つの記事を上げるし、来月も4つの記事を書こうと試みるのだろうけれど。

 

とにかく、始めることにする。

 

・聖水について

古代インドの『シャタパタ・ブラーフマナ』には水で清めるという発想があるのだけれど、あれって中東由来の発想なんだなと、アッシリアの粘土板の翻訳を読んで思った。

 

以上。

 

僕も最近知ったのだけれども、古代中東の粘土板に記された事柄について研究する学問をアッシリア学と呼ぶらしい。

 

何故そうと呼ぶかと言うと、アッシリア帝国には大きな図書館(参考)があって、その図書館に所蔵されていた粘土板が大量に出土したという出来事から、その解読が始められたという経緯あって、そのような契機から多くの粘土板に関する研究をアッシリア学と呼んでいるらしい。

 

だから、アッシリアと言っても必ずしもアッシリア帝国とは関係なくて、アッシリア帝国の言語であるアッカド語で書かれた粘土板は全てアッシリア学の範疇になるし、別にアッシリア語でなくても粘土板に書かれていたらアッシリア学で取り扱う範囲になる。

 

そのアッシリア学の研究に関する論文を読んでいたところ、聖水に関する記述があった。

 

「5.2. 死霊の予兆 

 1 もし死霊がある人の家で叫び、その人の家に死(が起ころうとするならば)。もし不吉な出現がある人の家にあるならば、その災厄がその人とその家に近づかないために(以下のように行う)。 2 午後の遅い時間に彼はシャマシュにmerdītu(とよばれる)供え物をする。朝、野原の人目に付かない(閉じられた)場所であなたは地を掃く。あなたは聖水を撒く。あなたは〈シャマシュの前に〉葦の祭壇をしつらえる。(参考 下線部引用者)」

 

この文章自体はアッシリアの破邪のおまじないというかなんというか、死霊が人を苦しめた時の対処法の話で、ただ、かなり特殊な文脈であるそうで、医療行為とも宗教行為とも言えるようなそれらしいので、これが何なのかについては素人である僕からは特に言及しないでおくことにする。

 

ともかく、ここには死霊から身を守るために聖水を撒くという発想があるということが分かる。

 

何のために水を撒くのかについては、やはり悪霊や邪悪を払うためにそのようなことをしていると判断して良いのではないかと思う。

 

結局、アッシリア学の対象となる粘土板に関しては、少なくとも先の文章を引用した論文にはそれがいつくらいのものであるかの言及はなくて、どうやら、研究者サイドでもそれらの粘土板がどのくらいの時期のものなのかは判然としていない様子がある。

 

古代中国の場合、こういう論文だとほぼ100%年代についての話がある一方で、アッシリア学ではそのような言及がないということがままある。

 

まぁこれは結局、アッシリア学の歴史の長さと、粘土板という物体の性質がそれをそうとさせているのだと思う。

 

楔形文字が解読されたのは1850年代頃で、解読の試み自体は1800年代から続けられていて、この時代はナポレオンが生きていたような時代になる。

 

その時代から延々、楔形文字が書かれた粘土板は掘り続けられていて、今から200年以上前に掘られたものもあるということになる。

 

結局、今だと出て来た地層から年代を測定したり、出土状況に関する情報を記録したりする学術的な方法が確立されている一方で、200年以上前の時代にそのようなものはおそらくなくて、未分類のままひたすらに掘り続けて、それが故に多くの粘土板の年代は不明になっているのだと思う。

 

加えて、記録されている媒体が粘土であって、有機物ではないから、放射性炭素年代測定法も使えない。

 

古代中国の場合は、そもそも出土文献自体に当時の諸侯や王の記述が多いから、その事から大体の年代が分かるし、書かれているのが木簡や竹簡だから、それを放射性炭素年代測定にかけることが出来る。

 

青銅器製である『盤』にはこの青銅器を作った人物の、具体的には今画像で用意した読めない漢字の名前を持つ人物の先祖についての言及があって、それぞれの先祖が当時の周王朝の何々という王に仕えて良く働いたという話がされていて、その話が周の厲王まで続いていて、おそらく作った人は厲王の次の代の宣王の時代の人であるということが分かったりする。

 

(参考)

 

こういう風に周の文王の時代から代々の王に仕えて良く働いたという話がされていて、それは周の厲王の時代まで続いている。

 

そういう話だからおそらくは厲王の次の宣王の時代に作られたという話になって、宣王は前828年から前782年の間に王であったってWikipediaに書いてあるから、この青銅器はそのくらいの時代に作られたということになる。

 

古代中国だと厲王だとかそういう名前は死後に与えられるもので、その話は『礼記』や『儀礼』に書かれているのはそうだけれども、『春秋左氏伝』にもそういう話はある。

 

文王だとか武王だとか、そういった名前はちゃんと理由があって、文という場合は非常に名君であって、武だと至って猛々しい人物だったとかそういうニュアンスで、『逸周書』には事細かにそれぞれの漢字の名前の意味が言及されていて、蔡邕の『独断』にも基準の話があったのだけれど、お手元にどちらも翻訳がないので今引用することは出来ない。

 

『春秋左氏伝』には遠征をしたけれども大敗をした共王が、自分の失態を恥じて、自分の諡は霊か厲という、悪い意味にせよと遺言を残したけれども、良い王様だったから臣下がその命令を実行できなくて、自分の失態を善く自覚しているのは恭しいという理由で、その事を意味する共王という名が贈られたという話がある。(参考)

 

だから先に名前が出て来た周の厲王とかは、当時の理解としては普通に暗君なんですね。

 

まぁ事績を考えりゃそりゃそうなんだけれども。(参考)

 

ともかく、厲王とかそういった名前が出てきている時点で、既にその王は死んでいて、すると、少なくともあの青銅器は厲王より後に作られたということが分かるし、宣王の話題がないと言うと、やはり、宣王の存命中に作られたものだと考えた方が良いと思う。

 

これの何が凄いって、しっかり『史記』で言及されるところの周王朝の歴代の王の名と一致してるところなんだよな。

 

周の王の名前は司馬遷の時代まで確かな形で保存されていたらしい。

 

加えて、ここに神々に関する記述はない。

 

先のアッシリアの粘土板だと偶然同じように神の話はないけれど、同じ論文に載っている同じようにまじないについて書かれた違う粘土板には神の名前が出てきている。

 

「5.1. 死霊の予兆

 1 死霊の叫び(によって予告される)災厄を避けるために、あなた(アーシプ)は廃墟の丘からとった陶器の破片を水のなかでつぶし、彼(不吉な予兆を訴える者)が(その水を)家に撒く。彼は三日間、彼の家族の死霊のためにキスプ(食物の供物)を捧げる。2 彼は焙煎した穀粒(から作った)ビールの捧げものを注ぐ。(太陽神)シャマシュの前でburāšu杜松を香炉の上に撒く。彼はビールの捧げものを注ぐ。彼はシャマシュに贈答品を供える。彼は次のように言う。 3「シャマシュよ、天と地の裁判官であり、(冥界の神々)アヌンナクの最高位にあるシャマシュよ、(すべての)国々の裁判官であるシャマシュ よ、最高の、輝くシャマシュよ、4あなたは彼ら(死霊たち)を監督(統御)しています。裁判官シャマシュよ、(あなたは)上のものを下へ(もたらします)。(同上 下線部引用者)」

 

…ここでも水を撒いて悪霊を払おうとしている描写があるから、最初からこっちの文章を引用すれば良かったな。

 

まぁともかく、このように中東世界のこういった文章には大抵神の名前が出てくるし、出てこない場合にしても、偶然その文章の流れで神が出てくることがなかっただけで、そういう発想自体は存在していると理解した方が良い内容が多くの場合書かれている。

 

一方で、古代中国の例えば先の青銅器の文章の中に、神の名前が出てくるということはない。

 

出てこないし、文章内容もいつもの中国で、君主に仕えて褒められたその働きぶりについて言及したり、子孫が末永く繫栄しますようにといういつもの文章で終わっていて、非常に中国的な文章になっている。

 

他の青銅器の文章にしてもその辺りは同じで、そのように青銅器に書かれた金文の翻訳を読めば読むほど、古代中国に神話的な世界はないと強く思うような事柄が書かれている。

 

話を年代測定に戻すと、そのように金文には年代が推定できる内容が書かれている場合が結構多い。

 

粘土板にしてもその辺りは判別できる内容のそれも混じっているとはいえ、先の死霊に関するまじないなどの話だと、時の王の名前など出す理由もないのであって、年代識別が難しくて、それが故に、あの論文には年代の話がないのだと思う。

 

こういう文章の時、中国だと書かれているのが竹簡や木簡、さもなければ布なので、そういう場合は放射性炭素年代測定法を使うことが出来る。

 

ちなみに、『五十二病方』は布に書かれていたと解題に書かれていました。

 

 

まぁ『ヤージュニャヴァルキア法典』には筆記用の布に関する記述があるから、そういうものは筆記の道具であったらしい。

 

インドの場合は高温多湿ですぐ腐って、残ってはいないだろうけれど。

 

ともかく、そのように有機物に書かれたものである場合、それを使って年代測定をすることが出来る。

 

物体を構築している元素の一部は、時間が経つと壊れて違う元素になるという性質がある。

 

よく、原発とかの放射能の流れで話題になる半減期という概念はその話で、半減期で言及される何年というのは、その元素が半分ぶっ壊れるのに何年かかるかの指標になる。

 

そうした元素は一定確率で崩壊するから、どの物体でもある特定の元素が半分ぶっ壊れるのは大体同じくらいの時期で、どれくらいぶっ壊れているかによって、経過時間が分かったりする。

 

人間の遺物に関しては炭素が主にその測定に使われている。

 

生物の中にあるそういった炭素の原子も時間経過と共に一定の割合で壊れていっているのだけれども、生きて生活している限り、食って排泄してを繰り返しているから、生物の中の壊れていない炭素の量は死なない限り一定に保たれている。

 

けれども、死んだ時には壊れていない炭素の補給がなくなるので、時間経過と共に壊れていない炭素の割合が減っていく。

 

それがどれ程減ったのかを調べるのが放射性炭素年代測定で、大体この方法は昔生きていたモノに対して有効な測定法になる。

 

…この話は確か、リチャード・ドーキンスの『進化の存在証明』で詳しい説明を読んだけれど、ドーキンスのどの本で読んだかは今思い出せない。

 

 

ともかく、有機物があればこの方法を使えて、実際、古代中国の出土文献の中で、木簡や竹簡に書かれた類に関しては、それを放射性炭素年代測定法で調べるということは実際やっていて、その測定の後に書かれた論文なら、そのテキストがどれ程の時代に書かれたのかの言及がされている。

 

一方で、古代中東の粘土板の場合、有機物に記録されたわけではなくて、媒体が粘土なのだから、そのような測定法は使えないし、発掘手法が確立される前に掘り出されたものや盗掘品も多くあって、そのようなものは地層から年代を判別することは出来ないし、そもそもアッシリアの大図書館にあったようなものの場合、下限はアッシリアの図書館に集められた時期になるとはいえ、実際に粘土に刻まれたのはその数百年前、数千年前の可能性もあって、まぁ中東の粘土板は年代推定が難しいのはそうなのだろうと思う。

 

だから、その粘土板に聖水の記述があったところで、どの位の時期に中東にその伝統があったのかまでは分からない。

 

ただ、古代インドの『シャタパタ・ブラーフマナ』には水で清めるという発想があるというのは確かになる。


(「śatapatha-brāhmaṇa訳注」)

 

インド特有の何言っているか分からない文章ではあるとはいえ、ともかく、水によって浄化を行っているというのは確かと理解して良いと思う。

 

…この論文、以前このサイトで言及したことがあって、この記事でまたこの論文について言及しようと思った時に、どうやらpdfを保存し忘れていたということが分かったということがあった。

 

急いでまたネット上で論文を探すという行動を選んで、その結果、元あったサイトが閉鎖されていたということが判明した。

 

そこに至ってこの論文がネット上から失われたというを理解して、今しようとしている話が出来ないという事実を目の当たりにした。

 

その時点でマジでどうしようかと思ったけれども、過去にこの論文に僕が言及した時に、この論文のリンクを設けていたということを思い出して、頑張ってその記事を探して果たしてその言及を見つけたけれども、そのリンクも死んでいた。

 

その時点でもう駄目だ…おしまいだ…と思って、ただ最後の望みを掛けて、そのリンクをウェイバックマシンに入れてみたら、偶然、先の論文が保存されていて、そこからまたダウンロードで出来たということがあった。

 

普通に心底安堵しましたね…。

 

まぁ、九死に一生を得たという話なんだけれども、『シャタパタ・ブラーフマナ』に関してはWikisourceに英語版が丸々載っているのだから、それを翻訳すれば良いだけの話だったりする。

 

もっとも、100年以上前に書かれて著作権が切れている文章だから、普通に見たことのない英単語のオンパレードで読めたものではないのだけれども。

 

話を戻すと『シャタパタ・ブラーフマナ』には水で清めるという発想があるということが分かる。

 

濾過具云々という記述があって、これはまぁ浄化するための道具というニュアンスで、『バガヴァッド・ギーター』にも、そのように浄化する道具の話はある。

 

「 あたかも燃火が薪を灰にするように、知識は全ての行為(業)を灰にするのである。

 というのは、知識に等しい浄化具は他にないのだから。(辻直四郎訳 『バガヴァッド・ギーター』 岩波文庫 1980年 p.55)」

 

 

まぁなんというか、インドには何かを浄化するという発想があって、ギータ―では知識を越える浄化具はないと言及していて、『シャタパタ・ブラーフマナ』では水にはそのような効能があるから、儀式の前に水に触れるという振る舞いを行うと言及されているという話で良いと思う。

 

このことから分かることは、古代中東と古代インドには、水によって何かを清めるという発想が存在しているということになる。

 

アッシリアの粘土板の場合、その年代が分からないという致命的な欠点はあるけれども、インドは文字の登場自体が遅くて、アショーカ王の時代くらいになるまで文字はなくて、紀元前300年くらいを生きたギリシア人のメガステネスはインドは文字がなかったと著書で言及しているらしい。(参考)

 

つまりは、『シャタパタ・ブラーフマナ』はそれよりはあとに書かれているという話になって、アッシリア文書の成立時期は分からないとはいえ、おそらくは先の悪霊に関するまじないの方が成立が古いだろうと僕は考えている。

 

そういうところ考えると、中東の文化がインドに伝播して、そのように水で何か穢れを払うという発想を同じように二つの違う地域で行っているのではないかと思う。

 

一方で古代中国の場合、そのように水で穢れを払うという発想は覚えがなくて、確か『春秋左氏伝』か『国語』のどちらかで一度だけ、タライに入れた水で手を洗うという描写に出会ったことがあったけれども、それは儀礼の前に浄めているのではなくて、普通に手を洗っていただけの様子があった。

 

というかそういう儀礼について書かれた『礼記』に水で邪気を払うという発想が出てこない。

 

弓を射ってそういうのを払うという話なら、『礼記』の「射義」に言及があるとはいえ、とにかく、古代中東と古代インドのように、水でそれを払うという発想に出会ったことがない。

 

日本の神社には御手洗があって、そこで穢れを濯いでから参拝するわけで、おそらくはインドの文化が日本にやって来てそういうことをやっている。

 

結局は古代中国の時点ではその文化が中華圏まで伝播していたなかったというだけの話だとは僕は思う。

 

まぁその辺りは全体的に史料不足が否めないわけで、色々と判断は保留した方が良いとは思うのだけれども。

 

そんな感じの日記。

 

もう突貫工事で自分ルールの貫徹のためにこの記事は作っているから、今日はもう、上げられさえすれば良いやという発想で、ありとあらゆることを明日以降の僕に任せることとして、この記事は修正もせずにそのまま上げることにする。

 

もう単純計算40000字以上今月は色々やってるんだよなぁ。

 

疲れちゃうよ。

 

でも自分ルールだから仕方ないね。

 

では。