太陽の沈むその向こうから | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は中国と日本の神話について。

 

僕はこの前、なんやかんやあって、中国の神話を集めた本を手に取ったということがあった。

 

それを読んで、やっぱり、『日本書紀』にある世界を卵とするような話はインド由来なのだろうなと『三五歴記』の記述を読んで思った。

 

その中国の神話を集めた本には、『三五歴記』というテキストからの抜粋があって、その『三五歴記』には以下の言及があるらしい。

 

「 太初には天と地とは相混じって、まるで鶏卵のようにふわふわとしていた。その中に盤古というものが生まれて来ると、初めて天と地との差ができて、清いものは天空となり、濁っているものは大地となった。

 その後は、天空も大地も、それからこの二つの間に生まれた盤古もだんだんと成長して行った。

 天は一日に一丈ずつ高さが増して行った。地も同じく一日に一丈ずつ厚さを加えて行った。そしてその間に挟まっている盤古も、劣らじと一日に九度姿を変えながら、同じく一丈ずつ背が 延びて行った。

 そうしているうちに、一万八千年という永い年月が経った。その間に盤古の身の丈が延びに延びて、九万里となった。九万里という恐ろしいのっぽうが、天と地との間に挟まることになったので、もともと相接していたこの二つが、九万里ほど隔たってしまった。

 天空と大地との間が今日のように遠く離れているのは、全くこれがためである。(松村武雄編 『中国神話伝説集』 社会思想社 1976年 pp.11-12)」

 

 

このように、『三五歴記』という中国のテキストには、世界の始まりが卵であるというような発想があるということが分かる。

 

僕は今引用した文章を読んだのちに、この『三五歴記』が紀元後三世紀に書かれたものらしいという話を知って、『日本書紀』に見られるインドを彷彿とさせるような言及はやはり、遠くインド亜大陸からやってきた情報によってなされているのだろうなと再認識することになった。

 

僕は以前、『日本書紀』の記述を引用して、そこに卵を思わせるような記述があるとして、その記述と古代インドの『シャタパタ・ブラーフマナ』の文章を比較して、後者の方が成立が古いのだからと、『日本書紀』のあの言及はインド由来なのではないかという話をした。(参考)

 

折角なので、『日本書紀』と『シャタパタ・ブラーフマナ』の実際の文章の翻訳を持ってきましょうね。

 

「 昔、天と地がまだ分かれず、陰陽の別もまだ生じなかったとき、鶏の卵の中身のように固まっていなかった中に、ほの暗くぼんやりと何かが芽生えを含んでいた。やがてその澄んで明らかなものは、のぼりたなびいて天となり、重く濁ったものは、下を覆い滞って大地となった。澄んで明らかなものは、一つにまとまりやすかったが、重く濁ったものが固まるには時間がかかった。だから点がまずでき上って、大地はその後にできた。そして後から、その中に神がお生まれになった。(宇賀谷孟訳 『日本書紀 上』 講談社学芸文庫 1988年 p.15)」

 

 

「 太初において宇宙は実に水であった。水波のみであった。水は欲した、われはいかにして繫殖し得るかと。水は努力した。水は苦行をして熱力を発した。水が苦行をして熱力を発したとき、「黄金の卵」が生じた。そのとき「歳」はまだ生まれていなかった。一年のあいだにこの黄金の卵は浮動していた。

 一年ののちそれから男子が生まれた。プラジャー・パティがすなわちこれである。それゆえ婦人あるいは牝牛あるいは牝馬は、一年ののちに分娩する。何となれば、プラジャー・パティは一年ののちにうまれたからである。彼はその黄金の卵を割った。そのとき実に何らかの安定所がなかった。この黄金の卵だけが彼を支えて一年のあいだ浮動した。(辻直四郎訳 『世界古典文学全集 3 ヴェーダ アヴェスター』「シャタパタ・ブラーフマナ」 筑摩書房 1967年 p.131)」

 

 

この二つを比較して、かなり似ている部分があって、インドの方が古いのだから、日本の方はそれに由来しているだろうという話を以前している。(同上)

 

僕は、そのインドの情報が日本に訪れるに際して、中国を経由したと考えていて、その事に関してはあの記事を書いた時からそう想定していて、あの記事でもその話を軽くしていた。

 

そして今回、『三五歴記』の先の言及を読んで、やはりそういう話なのだろうと再認識することになった。

 

まぁ実際の所、『日本書紀』のあの文章を書いた人がインドの世界創造神話について知っていたとは考えていなくて、何らか、中国人が書いたり伝達した話の中に世界を神が創造する物語が存在していて、それを見聞きした日本人が、倭国の歴史の中の特に古い時代の話を記述するに際して、その記憶の中にあった神が世界を作るという物語を採用して、『日本書紀』の国生み神話が生まれたのだろうと僕は考えている。

 

おそらく、『日本書紀』の実際の記述の元になったのは『三五歴記』の先の記述か、さもなければ僕が未だ辿り着いてなかったり、既に散逸した中国語のテキストで、『日本書紀』の記述の由来になった何かは漢籍であるだろうとは考えている。

 

実際、中国人は仏教を受用しているところから分かるように、インドの情報を自国の文化に取り入れていて、その後に漢字でその事を書き残すということをしているということはある。

 

…漢訳しか残ってない仏典の類を読んでいると、書いたの中国人なんだろうなぁ…ってやつ、滅茶苦茶多いからなぁ…。

 

中国人には中国人独自の発想というものがあるし、インド人にはインド人特有の発想というものがある。

 

仏典ということはインド人が書いたものであるはずであるというのに、まるで中国人みたいな言及がある仏典がいくつもあって、僕はそういう仏典を読むたびに、書いたのは中国人であるだろうと思って、そして、これを読んで何の意味があるんだ…という気持ちに苛まれている。

 

もうそれはどう考えても仏陀の教えでも仏教の教えでもない何かであって、要するに偽書以外の何物でもなくて、偽書を専門的に研究するならともかく、僕の目的とは全く合致していない以上、そういうのはあまり読んでいても楽しくはない。

 

ともかく、それがいつくらいからなのかは詳しく把握していないけれども、中国にはインド由来の情報が訪れていて、それが故に時代が下ってくると、インド人やさもなければ他の諸外国の知識を元に色々言っているのだろうと僕が思うような言及がされることがある。

 

とはいえ、以前その話はしたからよろしい。(参考)

 

…まぁそうと言えども、どうやら古代中国戦国時代の時点でインド的な情報は訪れていたらしくて、『アートマ・ボーダ・ウパニシャッド』に見られる言及が、『老子』や『荘子』で同じように確認出来て、おそらく、インドの情報は断片的にその時代から来ていたのだろうとは考えてはいる。

 

ただ、その話は話せば長くなるというか、引用の量とか資料の再確認とか膨大な作業と労苦が予見出来て、その事を理解してから既に2~3年が経っているというのに、話を纏めるのが億劫で、未だに記事に出来ていない。

 

老荘とウパニシャッド以外にも原始仏典とか『漢書』から引用しなければいけないから多少はね…。

 

何故、老荘思想で"道"を探究するのかについても、既に数年前からおそらくの理由は想定がついていて、ただ、その話をするのが大変で大変で、既に読んだ『老子』と『荘子』(岩波文庫で計5冊)を読み直さなければ書けない内容だから、多分、今後もその事を纏めることはないと思う。

 

ともかく、中国にはインド的な情報は間違いなく訪れていて、『三五歴記』で世界創世神話を語っているのは、インド由来の情報があったからだろうと僕は想定している。

 

実際、古代中国には神話という概念がないのではないかと僕は考えているのには理由があって、それは『史記』や『春秋左氏伝』と言った歴史書を読んでいても、神話で登場するような神々という概念は確認出来ないし、それは古い時代の中国のどんな本を読んでいても基本的に同じになる。

 

本当に神々の名前が出てこないし、神話的な神々のわちゃわちゃした話も全く記されない。

 

古代中東やインド、ギリシア辺りだと、神話とは関係のない文脈でも色々、神概念についての言及があって、プラトンを読んでいても会話の端々で自身の考えを「その通りです。ゼウスに誓って。」という形で保障するし、シュメールの文章を読んでいても、神は普通に登場する。

 

(『シュメール語の嘆願の文学書簡とその意義について』:参考)

 

これは古代シュメールで書かれた命令書で、ここにナンナ神に仕えた女性祭司についての言及がある。

 

こんな風にシュメールには神に仕える祭司という発想がある一方で、古代中国にはそのような発想はない。

 

基本的にどんな類のテキストを読んでいても、中東辺りだと神の話が出てきていて、隙あらば神についての言及が行われている。

 

(『シュメール人の思考の一断面』:参考)

 

これは『エンメルカルとアラッタの君侯』という叙事詩の言及で、シュメール人の書いたものになる。

 

これに関してはなんとなくこの文章を引用したというか、お手元にある論文のpdfの中で、原典訳のシュメール人の文章の中の神話っぽくないやつを探したときに、最初に見つかったのがこれというだけの話で、それくらいシュメール人のテキストの中には神概念についての言及がある。

 

このテキストにはウトゥ神と言及があって、このような神に関する言及はありとあらゆる場面で行われていて、シュメールの文化的な伝統として、神概念は日常的に言及される類のものであるということは確かだと思う。

 

その辺りは時代が下ってアッシリア帝国の支配になっても変わらないし、周縁のヒッタイトやペルシャ、エジプトやギリシアでも大きく差がある所でもない。

 

加えて、地理的に比較的近いインドでも、ウパニシャッドや原始仏典を読んでいると神に関する言及が非常に多くて、まぁそういう文化なのだろうと僕は思う。

 

一方で、古代中国の場合は神々に関する言及は本当にないし、神と呼べる概念は"天"だけだし、天は別に中東周縁のように、わちゃわちゃとした物語を展開するということはなくて、ただ支配者として天空にあって南面して人民を慰撫しているような概念になる。

 

その天は太陽神ではなくて、天は天という概念である様子があって、他の地域のように火や町といった何かを司っているということもない。

 

天に関する神話はないし、他の神々の話もない以上、古代中国には本当に神々が織りなす神話のような物語がない。

 

インドから中国へ仏教は入ってきているけれども、その時にインドの神様を翻訳するに際して、ブラフマーは梵天、インドラは帝釈天、シヴァは大黒天とされている。

 

これに関しては、当時の中国に今僕らが言うところにある神と同じ概念がなくて、昔の中国だと"天"が最もそれに近いから、それぞれのインドの神に、〇〇天という語が当てられているという話で良いと思う。

 

まぁ古代中国で言うところの"神"は死者の霊のことだから、ここで梵神とすると、ブラフマーの幽霊の話になって、そういう理由から天という語が選ばれたのだろうとは思う。

 

ただ、古代中国の天という概念は別に神話を持っているということもないし、天に関する物語があるわけでもない。

 

加えて、後漢の時代に書かれた『漢書』には、当時あった本の目録である「芸文志」があるのだけれども、そこに列挙される本の中にも神話関係の本がない。

 

「芸文志」には596の本についての言及があって、そこには『孟子』とか『孫子』とか『春秋左氏伝』の言及はあっても、神話に関連するような本の話がない。

 

もし、中東周縁のように神話が重要な概念であったり、存在していた場合、ここに収録されていないというのは変な話になる。

 

古代中東のアッシリア帝国のアッシュールバニパルの大図書館の遺跡では、『ギルガメッシュ叙事詩』が出土していて、そのような神話について書かれたテキストは図書館に集めるようなそれであったわけであって、もし、古代中国にそのような物語が存在していて古代オリエントと同じように重要であったならば、漢の書庫にそれが保管されていない道理はないのではないかと思う。

 

この記事を書くために『漢書』の「芸文志」を確かめて、神話について書かれた本を探してみるという行動を僕はしていて、けれども、神話について書かれていただろう本を僕は見つけることが出来なかった。

 

雑家と神仙家の著作について、著録されている本はその殆どが現存していないけれども、散逸して失われたそれらの本に、もしかしたら神話についての言及があるかもとは思うとはいえ、それぞれ、目録を示した後に言及される、彼らの流派についての寸評を読む限り、そこで神話についての話が主題的に扱われていたとはとても思えない。

 

「雑家者流は、おそらく議官から出たものと思われる。儒家墨家の学を兼ね、名家・法家の説を合せたもので、治国の体要として雑家の論議はなくてならぬものであることを知り、王者の治績は百家の道において一貫しないものがないことを見(しめ)す。これがその長所である。

 ほしいままな者がこの術をおこなえば、とりとめがなく、心の帰一する所がない。(班固 『漢書 上』 小竹文夫訳 筑摩書房 1977年 pp.465-466)

 

「神仙とは、性命の真を内に確保するために、身を遊ばせてこれをその外に求めようとするものである。いささかもって意を洗い盪(すす)ぎ心を平らかにし、死生の境を同じに見て、胸中に怵惕(じゅってき)がないようにする。しかるに或(まど)う者は神仙のことを借りてもっぱらこれを務めとし、大言して人をあざむくため、怪しく正しくない文がいよいよますます多くなる。これは聖王が教えたところの道でない。孔子は言った。「隠暗の事理をさがしもとめ、異常の道を行なえば、後世の人はこれを祖述するだろうが、それは私の本意でない。」(同上p.477)」

 

 

怵惕(じゅってき)は動揺とかそういう意味だそうです。

 

ここでお手元の本のリンクを持ってこようとしたけれども、どうやら現在Amazonでは在庫がないらしくて、在庫がない商品はアメブロだと貼れないので、同じ本を文庫にした奴のリンクを持ってくることにした。

 

先に引用した雑家のテキストには『淮南子』が含まれていて、この本の記述が時々、古代中国の神話的な話として取り上げられることがあるから、僕は雑家についての話を引用した。

 

ただ、引用文の班固による寸評を読む限り、雑家が神話の話を主題的に取り扱っているとは思えない。

 

次の神仙家については、時代が下って東晋の時代に編纂された『捜神記』の記述は時に中国の神話と扱われることもあって、この『捜神記』は仙人の話も混じっているから、神仙家と同じ系統の分野だろうと考えて、今回、「芸文志」の寸評を持ってきたけれども、それでもやはり、中東で見るような神々の神聖な話を扱っているとは想定できないような言及になっている。

 

紀元前数百年代の周の時代の青銅器に書かれた金文と呼ばれるテキストを読んでいても、ひたすらに中華的な発想によって物事は語られていて、神々の名前は出てくることはないし、そのような概念自体が存在していなかったのでは?と思うような言及しかされていない。

 

けれども、時代が下って3世紀になると、冒頭の『三五歴記』で見たような神話的と呼べる話が出てくるとなると、やはり西方から神話に関する情報が訪れて、それ故に彼らはそのような話をしているのではないかとしか、そのような状況を説明する方法が他に思い付かない。

 

そして、古代中国に神話的な話がないとすると、神話は人類の普遍的な原風景ではないという話になって、そうとすると、日本とて神話という概念はおそらく本来的には持っていなかったということになると思う。

 

先に言及した『三五歴記』の成立は3世紀で、『日本書紀』の成立は8世紀なのだから、中国に訪れたインドや中東に由来する神話関係の情報が遅れて日本にやって来て、それが故に、『日本書紀』では神話的な話がされているのではないかと思えて仕方がない。

 

少なくとも『日本書紀』は漢字で書かれていて、中華的な情報は100%用いられている。

 

勘案するに何らかの経緯でインドなどにある神話的な物語を中国人が見聞きして、それを元に漢字で何らかのテキストを書いて、それを日本人が読んだり聞いたりして、『日本書紀』や『古事記』に見られる神話というものが作られたのではないかと思う。

 

実際、5世紀頃に書かれた『述異記』には神が分かれて色々な物が誕生したという話があって、似たような話は『リグ・ヴェーダ』にもある。

 

「 太初には何物も存していなかった。 ただ一種の気が檬々として広がり満ちているだけであった。そうしているうちに、その中にものの生ずる萌芽が始まって、やがて天と地とが現われた。

 天と地とは陰陽に感じて盤古という巨人を生んだ。 盤古が死ぬときに、その体がいろんなものに化して、天地の間に万物が具わるようになった。即ち息は風雲となり、声は雷となり、左の 目は太陽となり、右の目は月となり、手足と体とは、山々となり、流れる血潮は河となり、肉は 土となり、髪の毛や髭は、かずかずの星となり、皮膚に生えていた毛は、草や木となり、歯や骨 は、金属や石となり、汗は雨となった。

 他の神話によると、盤古が死ぬと、その頭は四岳となり、二つの目は太陽と月になり、脂膏(あぶら) は流れて河や海となり、髪の毛は化して草や木となったという。

 また更に他の神話によると、盤古の頭が東岳に化し、腹が中岳に変じ、左の臂が南岳となり、右の臂が北岳となり、足が西岳となったとも言い伝えられている。(同上『中国神話伝説集 p.11)」

 

『リグ・ヴェーダ』の話に移る前に、これ読んでいて思ったことがあった。

 

これ…『日本書紀』の記述方法とそっくりだな。

 

「それで次のようにいわれる。天地が開けた初めに、国土が浮き漂っていることは、たとえていえば、泳ぐ魚が水の上の方に浮いているようなものであった。そんなとき天地の中に、ある物が生じた。形は葦の芽のようだったが、間もなくそれは神になった。国常立尊と申し上げる。――大変尊い方は「尊」といい、それ以外のお方は、「命」といい、ともにミコトと訓(よ)む。以下すべてこれに従う。次に国狭槌尊、次に豊斟淳尊と、全部で三柱の神がおいでになる。この三柱の神は陽気だけをうけて、ひとりでに生じられた。だから純粋な男性神であった、と。

 ある書(第一)ではこういっている。天地が始めて分かれるとき、一つの物が空中にあった。そのありさまは形容しがたい。その中に自然に生まれ出た神がおられた。国常立尊という。別名を国底立尊ともいう。次に国狭槌尊、別名を国狭立尊という。次に豊国主尊、別名を豊組野尊という。また豊香節野尊とも、また浮経野豊買尊とも、また豊国野尊とも、また豊齧野尊とも、また葉木国野尊とも、また見野尊ともいう。

 また一書(第二)ではこういっている。昔、国がまだ若く、大地も若かった時には、譬えていえば、水に浮かんだ脂のように漂っていた。そんなとき、国の中にある物が生まれた。形は葦の芽がつき出したようであった。これから生まれた神があった。可美葦牙彦舅尊という。次に国常立尊。次に国狭槌尊。葉木国――これをハコクニという。可美―――これをウマシという。

 また一書(第三)ではこういっている。天地がぐるぐる回転して、かたちがまだ定まらないときに、はじめて神のような人があった。可美葦牙彦舅尊という。次に国立尊。彦舅―これをヒコジという。(同上 『日本書紀 上』 p.15)」

 

一つの神話を紹介した後に、他の説を『述異記』も『日本書紀』もどちらも列挙していて、普通に考えて『日本書紀』のこの記述は、『述異記』か、それと同じような書き方を行った漢籍に由来するのではないかと思う。

 

少なくとも僕は、神話について語られている時に、一つの主流な説を挙げた後に、諸説を列挙するという記述方法に、『述異記』と『日本書紀』以外で出会ったことがない。

 

話を分割された神の話に戻すと、そういう神は『リグ・ヴェーダ』にも言及があって、プルシャから分かれて、インドにある四つの階級が生まれたという話がある。

 

「 一一 プルシャを切り分ちたるとき、いくばくの部分に分割したりや。その口は何に、その両腕は何になれるや。その両腿は何と、その両足は何と呼ばるるや。

 十二 その口はバラモン(祭官階級)となりき。その両腕はラージャヌヤ(王族・武人階級)となされたり。その両腿はすなわちヴァイシャ(庶民階級)。両足よりシュードラ(奴婢階級)が生じたり。(辻直四郎ほか訳 『世界文学大系 4 インド集』 筑摩書房 1959年 pp.36-37)」

 

 

巨大な神が解体されて、その部分部分がそれぞれ現在存在する人や物になったという話になっていて、その辺りは『述異記』でも『リグ・ヴェーダ』でも同じになっている。

 

…つーかまぁ、中国の場合は盤古という神が分割されてそうなったって話なんだけど、それがインド由来ではという話はWikipediaの「盤古」の記事に普通に書いてあるのだけれども。(参考)

 

あのWikipediaの文章を書いた人がどういう資料に基づいてそういう話をしているのかは分からないとはいえ、少なくとも僕と同じように、中国の神話は外来の情報に由来すると考えている人が居ることは確かだとは思う。

 

結局、僕がこのような良く分からないテキストを読み進めている目的は、人間の本質的な判断とそうでないものの判別のためであって、例えば僕自身が行う一つの道徳的な判断は、僕が経験学習したものなのか、生来的なものなのかどうかが僕にとっての問題であって、この中国には神話があったかどうかについても同じ文脈になる。

 

果たして、神話は人類普遍であって、人が生まれたなら等しく持つ発想なのかどうかが問題で、おそらくは中東のシュメール文明に端を発する人類に普遍的ではない文化であって、そのようなものは生まれたその地域にその文化が根付いているか、その文化が訪れでもしない限り、人類にとって、"覚え"があるようなそれではないのだろうと僕は思う。

 

結局の所、『日本書紀』にしたところで、おそらくは『述異記』や『三五歴記』辺りのテキスト、さもなければ現存していない神話に関する記述のある漢籍を参考に書いていて、その中国のテキストに関しても、おそらくはインドやその他地域の"お話"を参考にして書かれているのではないかと僕は思う。

 

ただ、神話学という学問の場合、神話という概念を中東周縁に限定した普遍的ではない文化であるとして扱っている場合に出会ったことがなくて、僕はそういうことを含めて、神話学という学問については懐疑的であるし、神話学とかはユングという妄想家の議論を前提にしたり、フレイザーの『金枝篇』のような、古めかしい時代錯誤の本の情報が無ければやって行けない部分もあって、僕は"やって行こう"とはとても思えなかったりする。

 

とはいえ、詳しく掘り下げたわけではないから、その辺りは僕の誤解で、もしかしたら"確かな"学問として、神話学はあったりするのかもしれない。

 

ただ…同じように一つの分野として成立している、哲学という学問を考えると多分…。

 

仕方ないね。

 

そんな感じの日記。

 

では。