『キングダム』と『呉子』についての記事の補足 | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

本当はこんな記事作りたくなかったけれど、仕方がないので書いていくことにする。

 

僕はこの前、『キングダム』と『呉子』と題して、古代中国の実際の戦場と漫画の『キングダム』との差異について色々書いた。

 

その最後の記事で、少し補足をしなければならないと言及していて(参考)、今回はその補足のための記事になる。

 

結局、『キングダム』の読者はそもそもあの一連の記事自体が不要だし、古代中国の兵法書の細かい言葉遣いのあれこれなんて、それを専門とする人々以外にとっては些末な問題で、これを読んでいる人の中で以下の内容が重要である人なんて存在していないのだけれど、だからと言ってあの内容を放置できないと記事を書いた時の僕は思ったし、未だにそれはそうと考えているので、あの記事で言及した『司馬法』の記述について補足していくことにする。

 

僕はその記事で、『司馬法』の文章を引用した。

 

およたたかいはかるきをもっかろきにおこなえばすなわあやうし。おもきをもっおもきをおこなえばすなわこうし。

かろきをもっおもきをおこなえばすなわやぶる。おもきをもっかろきをおこなえばすなわたたかう。

ゆえたたかいはけいちょうあいす。(参考)」

 

こういう文章を僕は持ってきて、それを以下の内容として翻訳した。

 

「およそ戦いにおいて、軽装兵で敵地の中の自軍の侵攻の浅い所に行けば危うく、重装兵で敵地の中の自軍の侵攻の深い所へ行けば戦功はない。軽装兵を以って重装兵と戦えば敗北する。重装兵で軽装兵を相手する場合は(勝てるので)戦う。故に戦いは、軽装兵と重装兵を両方用いる。」

 

書き下し文をそのまま読んだときに、そこには敵地の中で侵攻の浅い所云々とは言及がないのだから、普通だったらそうは訳せないはずのところを、僕はそのように翻訳している。

 

今回はなんでこの訳にしたのかとかそういう話ですね。

 

まず、先の文章は原文だとこういう感じになっている。

 

「凡戰:以輕行輕則危;以重行重則無功;以輕行重則敗;以重行輕則戰。故戰相為重。」

 

輕というのは軽の旧字体です。

 

元々、軽とか重とかしか書いてなくて、そのニュアンスが難しい所になる。

 

僕があの翻訳をするに際して参考にしたのは、大正時代に刊行された書き下し文のやつで、その本ではこの言及にある"軽"を軽装兵だと理解していて、僕はその事を覚えていたから、『呉子』に登場する軽装兵の話をするに際して、それを引き合いに出した。

 

 

…どうでも良いけどAmazonの値段バグってんな。

 

今確かめたら僕とか日本の古本屋で1300円と送料500円の計1800円で買ったみたいで、日本の古本屋なら未だに3000円で売ってるみたいだけれども。

 

ちなみに、僕は『司馬法』とかの七書目当てでこの本を買ったわけではなくて、『鬼谷子』の翻訳が日本だとこれしか出版されてなかったからという理由でこの本を買いました。

 

まぁ…結果はね…(伏目)。(参考)

 

ともかく、この本の先の文章のところを読むと、最初に出てくる"軽"について、「輕兵。(児島献吉郎他訳『国訳漢文大成 経子史部 第十 七書 鬼谷子 新語』 『司馬法』 p.23)」と注釈で言及されている。

 

僕のお手元にある『司馬法』の書き下し文の翻訳した児島は、「以輕行輕則危」という文章を、「軽装兵を以って軽地に行けば即ち危うし」という意味だと理解したようで、二番目の"輕"の字には()で「輕地」と書かれているし、注釈では「人の地に入る深からざるを輕地と云ふ。(同上p.23)」と言及されている。

 

(同上『司馬法』p.23)

 

この文書を最初読んだときに軽地が何なのか良く分かっていなかったし、どうして"輕"を"輕地"とするのか全く分からなかったのだけれど、先の『キングダム』と『呉子』についての記事を書くに際して、他の兵法書で言及されるところの軽装兵についての記述を探したときに僕は、古代中国のテキストの全文が載っている中国語のサイトで、"輕"でそれぞれ兵法書の記述を確かめるという作業をしている。

 

それに際して、『孫子』で"輕"という語の使用を確認出来た。

 

どうやら、翻訳者の児島が"輕"を"輕地"としたのは、その『孫子』の記述が理由らしい。

 

『孫子』には以下の記述がある。

 

「 孫子は言う。

 用兵上には、地に散地・軽地・争地・交地・衢(く)地・重地・圮(ひ)地・囲地・死地の別がある。

 諸侯がみずからその国内で戦えば、それは散地(軍の逃げ散る地)である。敵地に侵入することなお深くない地点は軽地(軍の浮き足立つ地)である。わが方が獲得すれば、わが方に有利であり、敵が獲得すれば敵に有利であるのは、争地(双方の争奪する地)である。わが方も往くことができ、敵方も来ることができる土地、それが交地(互いに交わる地)である。諸侯の国々に境を接していて、まずその地に達すれば天下の人心も得られるのが、衢地(道の四通八達している巷の地)である。敵地に入ること深く、すでに敵の多くの城邑を越えて来ていれば、それは重地(敵中に深く入りこんでいる地)である。山林や険阻な地や沼沢など、すべて行軍に困難な土地が圮地(軍を進めにくい土地)である。通ってゆく道は狭く、引き返すに面倒であり、敵が小勢で、わが方の大軍を撃つことのできる土地が、囲地(囲まれた土地)である。すみやかに戦えば勝ちのこれるが、そうでなければ亡ぼされてしまうのが、死地(死におちいる土地)である。

 かくして、散地では戦わず、軽地では留まらず、争地では攻めず、交地では孤立せず、衢地では奮闘し、重地では掠奪し、圮地では通過し、囲地では奇謀を用い、死地では力戦するのである。(村山吉廣他訳 『中国古典文学大系 4 老子 荘子 列子 孫子 呉子』 『孫子』 平凡社 1973年 p.441 下線部引用者)」

 

ここに軽地についての言及があって、「敵地に侵入することなお深くない地点は軽地(軍の浮き足立つ地)である。(同上)」と言及されているし、同様に重地の話もされている。

 

どうやら、先の『司馬法』に関しては、児島は「以輕行輕則危」という文章の二番目の"輕"を『孫子』に言及されるところの軽地と判断した様子がある。

 

このことに関しては、児島の独断というよりも、過去に誰かかが書いた『司馬法』の注釈書の中で、そうと注釈しているそれがあって、児島はそれに従ってそのように翻訳したという話だと思う。

 

漢籍の日本語訳を読んだことがあればわかると思うけれど、このような類の本は日本と中国、そして時にはドイツ語や英語の過去の研究について解説では触れられていて、翻訳者が確認できた全ての翻訳や注釈書が記載されている場合がある。

 

翻訳をするに際しては先哲の解釈を用いるのが普通で、あの界隈ではそういう伝統が存在している。

 

『黄帝四経』は漢の時代の墓から出て来たテキストだけれども、その翻訳本の後書きには、このようなテキストだと先人の注釈などがなくて、そのような状態で行う翻訳は至らないところがあるという旨の言及がされている。

 

「この書は、清朝の学者の精密な考証も経ることなく、二十世紀になって忽然として本文だけが現れた。 凡例でも示したように中国では、早速学者によって帛に筆写された本文の釈文や注釈が作られ写真版とともに出版された。しかし長期に亙る読者や学者の目を経ることがなかったため、注釈などはまったく十分とはいえない有様で、したがって翻訳も必ずしも満足できるものではない。関連する多くの原典を見落としたことも多いことと思う。それらは今後さらに考察を進めてゆきたい。翻訳に誤訳はつきものと言われているが、本訳書もその例を免れることはできないであろう。博雅の士の批正をこうむりより正確なものとすることができればと願っている。(澤田 喜多男訳 『黄帝四經』 知泉書館 p.293)」

 

 

これは『墨子』とかも本は残ってても誰も注釈とか入れなかったという事例があって、けれども、清の時代になって始めて詳細な考証がされたという話に続く文章で、そういうの一切ないから色々あれだという話がされている。

 

だから児島が"輕"を軽地だと判断してたのは、おそらくは先人の注釈の中にそうと説明するテキストがあったからという理由だと思う。

 

ただ、問題は終わらなくて、そのように注釈で説明されたとしたところで、実際にそのような意味であるかは未知数であるということは変わらない。

 

先人の注釈書にそうという理解が書かれていたところで、それが正しい事の根拠にはなったりはしない。

 

実際、どういう人があれを書いたのかは分からないけれども、ネット上にある書き下し文だと、あの"輕"を軽地だとは判断していない。

 

およたたかいはかるきをもっかろきにおこなえばすなわあやうし。おもきをもっおもきをおこなえばすなわこうし。

かろきをもっおもきをおこなえばすなわやぶる。おもきをもっかろきをおこなえばすなわたたかう。

ゆえたたかいはけいちょうあいす。(同上)」

 

この書き下し文を書いた人は、二番目の"輕"を少なくとも軽地とは判断せずに、軽い動き程度に判断している様子がある。

 

元の文章は「以輕行輕則危」であって、「軽を以って軽を行うは則ち危うし」としか書き下し文に出来ないのはそれはそうで、むしろここの二番目の"輕"を軽地とするのは特殊な訳し方になる。

 

このように元の文章があって、けれどもその解釈が後世になって種々分かれるというのは漢籍では割と良くあることになる。

 

僕は以前、『論語』にある「怪力乱神を語らず」という表現について、どうやってもそうとは読み取れないという話をしたことがある。

 

この「怪力乱神を語らず」という『論語』の言葉は、伝統的に「怪異、怪力、乱、神」という四つの事柄について語らなかったという意味だと解釈されている。

 

ただ問題があって、"神"について語らなかったという話だけれども、『論語』の他の箇所には孔子が神や鬼神について語っている場面があって、それが故に僕は、その四つの言葉という意味は取れないから、「怪力乱神」というのは、「怪力」と「乱神」という二つの語で、すなわち、超常現象のような不思議な力と、乱れる神、換言すれば殃禍を振りまくような鬼神について語らなかったという言葉だろうという話を以前している。

 

その事について、どうやらそのように四つの言葉と取らない理解は『論語』が書かれてから今に至るまでの間に、既に唱えられているということが後に分かっている。

 

「怪力乱神の四字は、怪力の二字で道理に外れた力、乱神の二字で正しからぬ神、と読む一説も、たとえば皇侃の「義疏」には、晋の李充の説として見え、また新出の鄭玄注の説もそうであるが、それらはむしろ普通の説ではない。普通の説は、怪、力、乱、神、それぞれ一つのことであり、あわせて四つのこととする。(吉川幸次郎 『世界古典文学全集 4』『論語』 筑摩書房 1971年 p.111)」

 

 

この文章はまぁ、怪力乱神の語を二字毎に分かれた意味と取るという学説はあると言えども、一般的には四つの意味と取るという話になっている。

 

結局、漢字という特性上、文章の情報量が多いのは良いけれども、その意味するところが多義的になってしまうということがあって、それが故にその読みに諸説が出てしまっているという話になると思う。

 

まぁ漢字ではない原始仏典とかでも諸説紛々の注釈はなされているから、その事は古典の注釈にはつきものなのだろうけれども。

 

問題は、果たしてどちらの意味が正しいのだろうかというところになる。

 

怪力乱神に関しては二字ずつと取るとした方が僕は正しいとは思うとはいえ、『司馬法』の"輕"に関しては、個人的に、『孫子』で言うところの軽地と取ることは飛躍ではないかと思う部分がある。

 

もっと抽象的な意味で、軽装兵が行う軽爽な動きの事を言っているかもしれないし、そもそも軽装兵という理解も正しくなくて、ただ軽やかな動きをする部隊が、軽薄に動いたら危ないという議論かもしれない。

 

さもなければ、ここで言っているのは軽戦車の話で、軽戦車は"軽"という表現で説明される場合もある語になる。

 

…本体の記事で、軽装兵の話をしようと他の兵法書を"輕"で検索したところ、『李衛公問対』"輕重"という表現があったから、記事で言及しようと手前で翻訳している作業の途中で、その話が軽戦車と重戦車の話だと分かったということがあった。

 

だから、『司馬法』のそれも軽戦車の可能性もあって、軽装兵の話であるかどうかは実際の所良く分からない。

 

結局、当時の中国に生きていた人しかあの文章の文意は分からないだろうし、今現在にしたところで、ある表現の理解に複数の見解が存在するのは良くある話であって、その辺りはもう、分からないとして処理するしか僕は方法がないと思う。

 

じゃあ何故あのように訳したかと言えば、色々な可能性は考えたけれども少なくとも『呉子』に軽装兵の記述はあって、元の文章は「善行間諜,輕兵往來,分散其眾,使其君臣相怨」となっている。

 

簡単に訳すと、「間者を善く使って、軽兵で往来させ、その衆団を分散させ、その将軍と兵卒を互いに恨ませる」という内容なのだから、軽装兵は存在していたらしいし、『司馬法』の書き下し文を書いた児島は文学博士で、大学院を出て博士号を取得した人なのであって、ここは児島博士や彼が参考にした注釈書を書いたお歴々の先哲の見解に従おうという話で、児島氏の注釈に従ったという流れになる。

 

『呉子』の原文には"輕兵"とあるけれど、ここで言う"兵"が軽い武器の事なのか、軽い兵士なのかは分からない。

 

ただ、どっちみち軽装の話ではあるので、『呉子』には軽装兵の話はあるということになるし、『司馬法』の例の文章の実際の意味合いはさておいて、まぁ博士持ちの教授が軽装兵の話だって言っていたのだから、本体の記事ではとにかくそうと訳すことにした。

 

…本当のところはその注釈には従いたくはなかったのだけれど、さりとてあの文章を他にどう翻訳すれば良いかも分からなくて、けれども軽装兵の話はしたかったし、一つ目の"輕"を軽装兵とする児島の注釈に既に従っているのだから、二つ目の"輕"も児島に従ったというのが実際になる。

 

あの場面では色々問題がある云々と言及していたのはこういう経緯があってのことで、しち面倒くさい事情の果てにあの翻訳が存在している。

 

そして、戦場では長い武器と短い武器が使われたという話に関しても、実際のところはもっと抽象的な議論なのかもしれないとはいえ、ここも児島の注釈に従って訳している。

 

へいまじえざれば、すなわならず。ちょうへいもっまもり、短兵たんぺいもっまもる。

はなはながければすなわおかがたく、はなはみじかければすなわおよばず。はなはかろければすなわするどし。するどければすなわみだやすし。はなはおもければすなわにぶし。にぶければすなわらず。(参考)」

 

「 武器は長短のそれが混ざっていなければ使えない。長柄の武器を以って衛り、刀剣や手槍を以って守る。

 非常に長い武器は敵からの攻撃が届きづらく、あまりに短い武器は距離が離れた敵に攻撃が届かない。非常に武器が短く軽ければその攻撃は鋭く、鋭ければ敵陣を乱しやすい。あまりに武器が長く重ければ攻撃は鈍く、鈍ければ役に立たない。」

 

これに関しても二段落目からは"長"とか"短"とかしか原文には書かれていないから、もっと抽象的な議論なのかもしれないなくて、そうと言えどもあまり深く考えてもキリがないし、児島博士は少なくとも武器の長短の話だと解しているのだから、今回は児島の見解に従った。

 

現代語訳が手元にあればもっと色々楽だったのかもしれないけれど、既に読んだ本をまた買う動機が僕の方にない。

 

普通に現代語訳はあるんだけどねぇ。

 

 

ただ、『六韜』に関しては、お手元に随分前に買った現代語訳があって、けれども、読み始めて「なんだこれは…」と思うような訳で、「あ?」と思って翻訳者を確かめたら、専門家でも何でもない、小説家が訳したそれだったということがあった。

 

だから僕は、改めて『六韜』を買うという行動をしていて、上の『司馬法』と同じシリーズから出ている『六韜・三略』を買い直している。

 

まぁ読むつもりはあっても読む予定はないんだけれども。

 

…というより、一度読もうと思って手に取った本が酷い訳で、そこから新しい本が来るまでの間に、気持ちが萎えてしまったというかなんというか。

 

やっぱこういう分野は専門家じゃなきゃ色々アレらしい。

 

僕も当然、専門家でも何でもないから、やはり専門家の見解の方がより正しい場合の方が多いだろうとの判断で、どう読んでも軽地であるとは読み取れないけれども、この場面では愚鈍な僕が浅慮な判断を下すよりは文学博士の見解に従った方が良いだろうという話で、あのように翻訳をして、ただどうしてあの訳になるのかは説明しないと誰にも分からないだろうから、今回は補足の記事を作ることにした。

 

あの記事を書き終わった時点で、一つの記事が必要になるくらいの文字量が補足には必要だと考えたから、補足の記事を作ると言っていたけれど、果たして文字数はこの時点で7000字を越えていて、どう考えても本体の記事には紙幅が足りなかったのだから、ある程度は予定通りになる。

 

まぁ、こんなに沢山この話題で記事を作ること自体が想定外だったから、色々とあれだけれども。

 

そもそも、元々は銀雀山漢墓という漢の時代の墓から出て来た文章群についての論文を読んでいた時に、『孫子』と『呉子』についての話題があって、それを読んだからというのが一連の記事を作ろうと思った動機になる。

 

銀雀山漢墓から出て来た文章の中には「起師」というそれがあって、そこには略奪についての話がある。

 

「英明な王が興軍するのは必ず春である。春は溝の水が枯れ、道路も通達し(て行軍が容易になり) 、諸郡の児童・桑の蚕・物資が屋外に出ており、家畜も放牧されて郊外にいる(物資の収奪も容易である) 。だから春は客の側に有利なのである。(参考)」

 

このような記述があって、論文ではこの記述と『孫子』にある略奪の話を比較していて、僕はそれを読んで、「そういやそんな話書いてあったな」と思ったということがあった。

 

そんなことを思いつつ、『キングダム』の信は器がデケェから略奪なんてしないって話を思い出して、「『キングダム』くんさぁ…」と思ったということを覚えている。

 

(『キングダム』44巻p.174)

 

そして、その事は漫画の解説の記事に出来るかもしれないなと思って、そういえば『孫子』と『呉子』に関しては、漢籍を読み始めた本当に初めの方で読んだそれだから、内容は忘れたし、今の僕と当時の僕では色々な理解度が違うし、『孫子』に関しては二つ翻訳を持っていて、今回は前回読んでいない方を読むという方向性でまた読み直そうと思ったというのが今回の出来事の推移になる。

 

元々、岩波文庫で『孫子』は読んでいて、今回は『中国古典文学大系』で読んでいる。

 

『呉子』は一つしか翻訳持ってないからまた同じ訳を読んだけれども。

 

 

 

『キングダム』で略奪しないという話が『孫子』の内容と反していることが一番書きたかったことだと言っていたのはそういう話で、元々は「起師」に関する論文で略奪に関する言及を読んだことに一連の記事を作ろうと思った動機があった。

 

それを書ければ全ての動機は満たされるわけであって、けれども、色々準備段階で用意していた話を全部書き切った結果がこのザマになる。

 

まぁ色々仕方ないね。

 

そうそう、「起師」についてなのだけれど、これは非常に短い断片だから、折角なので全文を引用することにします。

 

「英明な王が興軍するのは必ず春である。春は溝の水が枯れ、道路も通達し(て行軍が容易になり)、諸郡の児童・桑の蚕・物資が屋外に出ており、家畜も放牧されて郊外にいる(物資の収奪も容易である)。だから春は客の側に有利なのである。

秋は主人が小城を整理し、廃邑を移し、大木を……し、……木を伐り、道路を清掃し、山沢を焼き、(野外の)廃屋を撤収し、城外の利(となるもの)を収め、それらを城中に集約するので、客の側が不利となる。

冬は主人が(他国との)会合を画策し、要塞を修繕し、水路を移して険阻な地を繋ぎ、戟(武器)を総点検して険しい山(戦略拠点)を守り、謀略の士を上(王)に推薦し、游士が外交に努め、役人を発動して仕事をさせ(内政に努め)、(他国と)外交して親交を結び、国内の憂慮を安定させ、国外の外交関係を統合するので、客の側は危険にさらされる。(同上)。

 

ここでは夏に関する記述がないけれども、出土した分に夏に関する部分がなくて、原文だとあったかもしれないという話が論文ではされています。

 

この「起師」の記述に関しても、やっぱ『キングダム』とは全然違うよなと思ってしまう。

 

水路なんて概念はないし、略奪はしないし児童の誘拐もしないし、戟も出てこない。

 

農耕しているのだから灌漑もしているはずであって、けれども『キングダム』では荒れ地ばかりでそもそも畑すらロクに出てこない。

 

『春秋左氏伝』の成公二年の記事には、晋の国が斉の国と戦争をして勝って、それに際して斉の国に畑の畝の方角を全て東西の方向に走るように尽く変更するよう求めるという描写がある。

 

晋の国は斉の国の西にあって、戦車で斉の国に乗り込むに際して、簡単に乗り込めるようにするためにそうと要求したという話で、俺たちの車輪に合わせて畝を作れという要求になる。

 

つまりは戦車は畑の上も走るわけで、戦争はそういうところでも行われていたらしい。

 

けれども、『キングダム』では延々荒れ地で戦争をしていて、まぁ『真・三國無双』とか畑の中であんまり戦わないもんなと僕は思う。

 

そのような様相だから当然、『キングダム』には水路なんて出てこないとはいえ、「起師」の記述に関しては、これは論文の内容なのだから、原先生が読んでいるわけもなくて、その辺りは再現しろというのは無茶な注文になる。

 

そうとはいえ、実際の古代中国の戦場はどんな感じだったのかを示すのが一連の記事のコンセプトなので持ってきました。

 

という、誰も得をしない『キングダム』と兵法書について。

 

一応『六韜』買ったから、『六韜』読んだらまた記事は作れるのだけれど、そんな記事作ってどうするのと僕自身が思うので、色々ねぇ…。

 

なんというか、『孫子』の時点で終わらせておけば良かったのではと思うところはあるよ。

 

まぁ書いたものはどうしようもないから、うん。

 

そんな感じです。

 

では。

 

・追記

Q.『蒼天航路』の話は?

A.マジに書き終わるまで存在を忘れてたし、この記事は既に九千字を越えているし、だからと言って『蒼天航路』と『キングダム』だけで一つの記事を作る程に話題はないので、色々と駄目みたいですね…。

 

・追記2

こんな誰も読まないような記事に追記をしても仕方がないのだけれども、一つ、自分が引用した文章についてで分かったことがあるのでそれについて補足したいと思う。

 

僕は本体の記事の方で『尉繚子』の文章を引用して、大将が死んだ時の話をしていて、その中に軍功がなかった場合の罰として辺境の守備の仕事に左遷させられる話があった。

 

たいしょうしてじゅうひゃくにんじょうてきすることあたわざるものる。たいしょうゆう近卒きんそつじんちゅうものは、みなる。そつ軍功ぐんこうものは、いっきゅううばう。軍功ぐんこうものは、まもること三歳さんさい。(同上)」

 

「もし自軍の大将が死んで、それに際して五百人将以上の人間の内、率いる部隊が敵兵を殺していなかったものは斬る。大将の側近で陣中に居た者はみな斬る。残りの兵士の中で、軍功があったものは爵位を一段階下げる。軍功がなかった者は国境での警備の任務へ左遷し、それを三年続ける。」

 

この「ること三歳」という罰について、僕はまぁ辺境に飛ばされるのは結構辛いもんな程度に考えていたのだけれども、実際の所ほぼ死刑宣告に近い内容であるらしい。

 

その話は『史記』の「陳勝世家第十八」にある。

 

陳勝というのは始皇帝の次の代の二世皇帝の時代の人で、あまりに苛烈な秦の施策に耐え切れずに反乱を起こした人物になる。

 

陳勝はお上からの命令で、辺境の地の守備の任務を受けて任地に向かっていたのだけれども、大雨で道が通れなくて足止めを食らって、秦の法律だと期日までに辿り着けなければ斬罪で、行っても殺されるのだからいっそのこと反乱を起こそうと考えて、それに際して賛同した部下たちに以下のように言っている。

 

「きみらは大雨にあったため、みな期限におくれることになった。期限におくれたら斬罪だ。たとえ、ただ斬られることがないにしても、辺境の守備ではもとより十人のうち六、七人は死ぬ。ともあれ男子として、死なずにおれるものならそれもよいが、どうせ死ぬなら大名声をあげて死ぬことだ。王侯でも将相でも、何の種族の別があろう。(司馬遷 『世界文学大系 5A 史記』 小竹文夫訳 筑摩書房 1962年 p.368)」

 

この時の台詞が、世界史でも習う「王侯将相いずくんぞ種あらんや」ですね。

 

ここの辺境での守備云々は原文だと「而戍死者固十六七」となっていて、日本語訳すると「けれども、戍はもとより十人中六七人の者が死ぬ」という感じで、先の『史記』の引用文でもそう翻訳されているように戍は辺境の守備のことを言っている。

 

ともかく、辺境の守備は過酷な任務であったらしくて、二人に一人は死ぬレベルの話だったらしい。

 

日本の大宰府の防衛を任された防人の人々も、悲惨なそれであったと聞いたことがあるけれど、『尉繚子』で罰として辺境の守備の話があったのはそういう理由だったんだな…と思って追記することにしました。