『キングダム』と『呉子』について(後編) | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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『キングダム』と『呉子』についての話の最終回を書いていくことにする。

 

前回までで『呉子』全六篇中の第四篇までについて色々書いてきた。(前編)(中編)

 

今回はその続きになるわけだけれども、流石にこの記事を単体で読む人とかは居ないだろうので、一連の兵法書と『キングダム』との関係性についての記事のコンセプトについてはあまり触れないでとっとと始めることにする。

 

…まぁコンセプトを説明するも何も、結局は原先生はあんまり古代中国の兵法書とかを参考にしていないから、実際の文章を持ってきて、当時の戦場がどんな感じだったかの話をするだけなんだけれど。

 

前回の記事で『呉子』の第三篇である「論将」まで話は進んだ。

 

今回はその続きで、前回の記事と、お手元のメモを読み直した結果、「論将」の中で言及しそびれた内容があったことが分かったので、今回は「論将」の続きから『呉子』の終わりまで色々書いていく。

 

ていうか確認したらメモが間違ってて、今回の最初に言及する箇所の方が本来的に言及したかったことで、前回最後に引用した『呉子』の文章は、全然予定になかった箇所で間違って引用してたというのが実際で、ただ引用するために文章用意してたら書くことを思いついただけだった様子がある。

 

書いててメモの内容にある、将の資質についての話が引用した文章になくて「なんか足んねぇよな?」とは思ってたんだよなぁ。

 

まぁともかく、本来的にしたかった話を書いていく。

 

『呉子』の第三篇の「論将」には戦場において攻撃を開始するタイミングについての言及がある箇所がある。

 

実際にその文章を引用する前に補足すると、ここで言う"潮時"というのは好機やチャンスの事で、潮時という言葉には引き時という意味以外に、そういった良いタイミングという意味もあるらしい。

 

「 呉先生が言われた、「およそ戦争には四つの機〔すなわち攻撃発動の潮時(しおどき)〕がある。その第一は気による機であり、第二は地による機であり、第三は事による機であり、第四は力による機である。(第一の機とは)全軍百万の軍兵が軽装重装それぞれに陣を張りめぐらして将軍一人の号令が下るのを今や遅しと待っている、こういうときを気概による機というのである。(第二の機とは)道路は狭く険しく、高い山がたちふさがっていて、十人で守るだけで千人の敵を防ぎ止めることができる、こういうときを地勢による機というのである。(第三の機とは)うまく間諜を使い軽装の部隊をあちこちに出没させて敵の兵卒を分散させ、敵の君臣上下のあいだで怨みとがめあうようにさせる、こういうときを事情による機というのである。(第四の機とは)車は車軸のくさびがしっかりし、舟は櫓や棒がじゅうぶんにととのい、 兵士はよく戦陣のことを習い、馬はいろいろの走り方になれている、こういうときを戦力による機というのである。〔攻撃発動の機として〕この四つのことをよくわきまえていてこそ、将軍となれるのである。

 とはいえ、〔良将といわれるには、まだこれだけではだめである。〕将軍としての威厳と恩徳と慈愛と勇気とが備わっていて、それによって部下を統率し、兵卒を安心させ、敵を恐れさせ、疑惑を裁断するということができ、ひとたび命令を下せば部下のものは決してそれにそむくことがなく、賊兵はこの将軍の行くところどこででも敵対できないというありさまで、この将軍を得て自由に働かせれば国は強くなり、この将軍がいなければ、国が滅亡するという、そういう将軍を良将というのである」(金谷治他訳 『中国古典文学大系 4 老子 荘子 列子 孫子 呉子』 『呉子』 平凡社 1983年 pp.468-469 (第〇の機云々は引用者補足)」

 

この文章の初めの方に、軽装と重装の兵士の話がある。

 

「全軍百万の軍兵が軽装重装それぞれに陣を張りめぐらして将軍一人の号令が下るのを今や遅しと待っている、こういうときを気概による機というのである。(同上)」

 

どうやら古代中国に軽装兵と重装兵という概念があったらしくて、その話は『司馬法』にもある。

 

今回も現代語訳は用意できなかったので、ネットにある書き下し文をまず引用して、その後にお手元の大正時代に出版された書き下し文のそれの注釈を参考に、僕が手前で現代語にしたものを持ってきます。

 

およたたかいはかるきをもっかろきにおこなえばすなわあやうし。おもきをもっおもきをおこなえばすなわこうし。

かろきをもっおもきをおこなえばすなわやぶる。おもきをもっかろきをおこなえばすなわたたかう。

ゆえたたかいはけいちょうあいす。(参考)」

 

「およそ戦いにおいて、軽装兵で敵地の中の自軍の侵攻の浅い所に行けば危うく、重装兵で敵地の中の自軍の侵攻の深い所へ行けば戦功はない。軽装兵を以って重装兵と戦えば敗北する。重装兵で軽装兵を相手する場合は(勝てるので)戦う。故に戦いは、軽装兵と重装兵を両方用いる。」

 

この翻訳に色々問題とか補足があるけれど、本題は軽装兵と重装兵の話だから、その話については触れずに、ここでは『司馬法』では『呉子』と同じように、軽装兵と重装兵の両方が用いられていた様子が読み取れるという言及に留めておくことにする。

 

『司馬法』の言及ではもう軽装兵の必要価値とか感じられないけれど、『呉子』では「うまく間諜を使い軽装の部隊をあちこちに出没させて敵の兵卒を分散させ、敵の君臣上下のあいだで怨みとがめあうようにさせる(同上『呉子』)」とあるので、そういう攪乱などに軽装兵は必要だった様子がある。

 

ただ、彼らがどのような装備をしていたかは良く分からない。

 

そもそも軽装兵と重装兵の記述自体が武経七書の中で殆どなくて、七つの本全部を検索して調べたのだけれど、言及があるのは『司馬法』と『呉子』だけらしい。

 

まぁ戦場にあった全てを兵法書に記しているわけではないし、戦場では虐殺や強姦はあったはずだけれども、そのような事柄は兵法書には記されていない。

 

兵法書ではないけれど、戦場であった虐殺について言及のあるテキストは存在していて、出土文献である『黄帝四経』にそのような言及がある。

 

「(蚩尤が暴虐なのでそれを征伐しようとしたが、その方策として悪政を理由に民衆が反乱を起こすのを待つこととして、そしてその反乱が起き) 戦いの機運は熟した。太山之稽は言った「潮時でしょう」と。そこで𨪙鉞などの武器を使い、軍隊を激励して、黄帝自身が蚩尤に当たり、そこで彼を捕らえた。彼の革を剥いで的を作り、それを射させて、的中率の高い者には褒美を与えた。彼の髪の毛を切りとって高く掲げ、蚩尤の旗と名づけた。彼の胃袋に毛を詰め込んで皮の鞠を作り、それを蹴らせて、多く蹴ることができた者に褒美を与えた。彼の身体を腐らせ、苦菜を加えて調味した肉醬に漬け、天下の人々に啜らせた。(澤田 喜多男訳 『黄帝四經』 知泉書館 pp.172-173)」

 

 

どうでも良いけどこの本、Amazonだとこの値段だけど普通に出版社のサイトで買えば5000円ちょいで買えるよ。

 

ともかく、こういう風に残虐行為に関する記述があるテキストもあって、ただ兵法書にはそういう話はないから、兵法書は戦場の全てを書き尽くしているということもない。

 

ところで、ここに蚩尤に関する言及がある。

 

『キングダム』で蚩尤って言ったらまぁ、羌瘣の出身のあれですね。

 

(原泰久『キングダム』8巻p.160 以下は簡略な表記とする)

 

『キングダム』だと蚩尤は特殊な武闘派集団という設定だけれども、先の『黄帝四経』ではそのような感じではない。

 

あの場面だと蚩尤はどうやら人名のようで、蚩尤は殺されて髪は旗印にされて、胃袋はサッカーの球にされて、肉は発酵させて見せしめとして配られたという話になっている。

 

肉を啜らせたという話だけれども、おそらくは肉醤(参考)にした死体をただ配られただけで、『史記』にも塩漬け肉を見せしめとして配る話があるから、その話であって流石に食わせたって話ではないと思う。

 

(横山光輝『史記』13巻p.107)

 

『キングダム』では蚩尤は良く分からない民族集団だけれども、古代中国人の認識では人物だったようで、少なくとも『黄帝四経』のあのテキストを書いた人は、人名だと思っていたらしい。

 

『史記』の冒頭にも蚩尤に関する言及がある。

 

「 黄帝は小典の子で、姓は公孫、名を軒轅(けんえん)といった。生れつき神霊で、嬰児のときから、よくものを言い、幼年のころには利ロですばしこく、少年時代には落着いていて敏捷であり、成年になると、すこぶる聡明であった。そのころ神農氏が天下を治めていたが、世とともに徳が薄れ、諸侯は、たがいに攻めあって百姓は困窮した。しかし、神農氏は、これを鎮めることができなかったので、軒轅は、干戈の術を修練し、神農氏に入朝しない諸侯を討伐した。それで諸侯は、また、みな神農氏のもとに来て命令に従うようになった。ただ、そのうち蚩尤が、もっとも凶暴で、なかなか討伐できなかった。その時、炎帝の子孫が、また諸侯を侵したので、諸侯は、みな軒轅を頼りとして、そのもとに集まった。そこで、軒轅は徳を修め、兵を整え、五気を治め、五穀を植え、万民を撫(いつくしみ)み、四方を安んじ、熊や羆や貔・貅・貙虎などの猛獣を訓練して戦いを教え、炎帝と涿鹿の野に戦い、三度戦って、ついに勝つことができた。この時、蛍尤が、また乱をおこし、命令をきかなかったので、黄帝は諸侯の兵を募り、蚩尤と涿鹿の野に戦い、ついに蚩尤を虜にして殺した。このため、諸侯はみな軒轅をたっとんで天子と仰いだので、神農氏に代わって位についた。(司馬遷 『世界文学大系 5A 史記』 小竹文夫訳 筑摩書房 1962年 p.5)」

 

 

これは『史記』の冒頭の文章で、『史記』はこの黄帝に関する記述から始まるわけだけれども、そこに蚩尤を討伐したという言及がある。

 

先の『黄帝四経』はこの場面であったという出来事で、殺された蚩尤が八つ裂きにされて旗とかにされたという話らしい。

 

本来的に蚩尤というのは黄帝と敵対した国か人の名前であって、それ以上でもそれ以下でもない。

 

中国では時代が下がると史書に出てくる人名が何故か神の名前として捉えられるようになって、蚩尤とかも神になるのだけれども、そういう風に神の名を冠する人々で、時の支配者と戦ったという話から、蚩尤というのをなんか凄い集団という設定にしたのだろうとはお思う。

 

まぁ蚩尤に関してはググったら他のサイトで説明しているところが複数あったから、この場ではこれ以上言及しない。

 

もっとも、『黄帝四経』の話をしているサイトはないだろうけれども。

 

どうでも良いけれど、黄帝が生きた時代は設定上、紀元前2500年とかの時代で、中国はまだその頃は新石器時代なのであって、あれは普通に昔の中国人が創作した物語で、そういう人物がいたということもなければ、黄帝が蚩尤を討伐したという歴史上の事実があるというわけでもないということだけは留意した方が良いと思う。

 

話を『呉子』の「論将」に戻す。

 

元の話は古代中国には軽装兵と重装兵がいたらしいという話だったけれど、そういう兵士の区別は『キングダム』では特にない。

 

弓部隊と騎馬部隊がいて、あとは装備が統一された歩兵がいるだけで、『呉子』のように攪乱用の軽装兵の話は特にされていない。

 

まぁやっぱり、イメージが『真・三國無双』だから、という話で全ては済む問題だと思う。

 

あのゲーム、確か弓兵部隊居たし、歩兵が同じ装備で大量に居るというのも『真・三國無双』の風景だし。

 

ただ古代中国の実際の戦場では、兵装に関しては兵器は使われたのは以前の解説で書いてきた通りだし、共通規格のように同じ装備が使われていたという様子はない。

 

『司馬法』では兵種を編成するにあたって、長い武器と短い武器を持った兵を用意するという話がある。

 

へいまじえざれば、すなわならず。ちょうへいもっまもり、短兵たんぺいもっまもる。

はなはながければすなわおかがたく、はなはみじかければすなわおよばず。はなはかろければすなわするどし。するどければすなわみだやすし。はなはおもければすなわにぶし。にぶければすなわらず。(参考)」

 

「 武器は長短のそれが混ざっていなければ使えない。長柄の武器を以って衛り、刀剣や手槍を以って守る。

 非常に長い武器は敵からの攻撃が届きづらく、あまりに短い武器は距離が離れた敵に攻撃が届かない。非常に武器が短く軽ければその攻撃は鋭く、鋭ければ敵陣を乱しやすい。あまりに武器が長く重ければ攻撃は鈍く、鈍ければ役に立たない。」

 

これは辞書にも載っている話なんだけれど、長兵で槍とか柄の長い武器を言って、短兵で剣とかそういうあまり長くない武器のことを言う。

 

まぁこのくだりは早い話、柄の長い武器は守勢で有利だけれども、攻勢だと重くてその分動きが鈍くなるから、短い武器を持った兵士も必要で、その両方が軍中に混じってなければ利はないという文脈で良いと思う。

 

もしかしたら、先の軽装兵と重装兵はこの話なのかもしれない。

 

ともかく、『キングダム』のように戦場で雑兵は同じ武器を持って戦っていたという様子はなくて、むしろ状況に応じて武器や部隊は使い分けられていた様子がある。

 

軽装兵に関しては、時代が下ると騎兵がその役割を担うようになって、そういう役割の兵士は居なくなったのかもしれない。

 

戦車は鈍重だからそういう役割はあまり期待できないからそのように軽装兵が攪乱をしていたのかもしれないけれども、戦車には重車と軽車の両方が存在しているようで、『李衛公問対』にも重車と軽車に関する言及があるので、戦車とてそういう攪乱は行っていた可能性はある。

 

『キングダム』の場合だと、戦車はそもそも序盤しか出てこないし、まぁ歩兵は大将以外装備は大体同じで、あんまり当時の戦場の風景は再現していないという理解で正しいと思う。

 

連載の比較的初期の方だと信の周りの人々は軽装だったけれど、あれはただ下級兵だから装備が与えられてないだけの話であって、『呉子』だと軽装兵は攪乱のために敵軍の周りを走り回っている様子があるので、全く違う話ということになると思う。

 

「うまく間諜を使い軽装の部隊をあちこちに出没させて敵の兵卒を分散させ、敵の君臣上下のあいだで怨みとがめあうようにさせる(同上『呉子』)」

 

『キングダム』にもこういう戦いがあったら普通に面白そうなんだけれども、結局は武将の戦闘能力以上にあの漫画の戦闘で重要な概念はないから、まぁ『真・三國無双』のイメージが強いということで大体の話は終わってしまう。

 

先の『呉子』の引用文には、将軍に必要な気質の話がある。

 

「将軍としての威厳と恩徳と慈愛と勇気とが備わっていて、それによって部下を統率し、兵卒を安心させ、敵を恐れさせ、疑惑を裁断するということができ、ひとたび命令を下せば部下のものは決してそれにそむくことがなく、賊兵はこの将軍の行くところどこででも敵対できないというありさまで、この将軍を得て自由に働かせれば国は強くなり、この将軍がいなければ、国が滅亡するという、そういう将軍を良将というのである(同上『呉子』)」

 

このような素質が必要らしいけれど『キングダム』の信の場合、勇気と部下が命令に背かない以外の全てが信にはないのでは…?と思ってしまう。

 

更にここに『キングダム』では重要である武に関する記述もないわけで、やはり古代中国の戦場における指揮官は、腕っぷしが必要な職業ではなかっただろうし、必要なのは部下をよく統率する能力だったのだろうと思う。

 

信の部下は命令をよく聞くけれど、『キングダム』の場合、そもそも兵士が背くことがまずないのであって、そうなると勇気以外、『呉子』で必要であるとしている要素を信は持っていないということになってしまう。

 

実際の戦場だと恐慌状態の兵士は逃げ出すわけであって、『尉繚子』の「兵令下第二十四」では兵が逃げた場合などの様々な処罰の話や、指揮官級の立場の人間が逃げた場合は死刑だとかそういう言及がされているけれど、ここでは長いから翻訳はしない。(参考)

 

おそらくは『尉繚子』の大部分を書いたのは秦人であって、秦軍にも逃走兵は居ただろうし、まぁ戦場なんて古今東西逃走兵が出るような場所なのだから、居ないと想定すること自体が的外れな話だと思う。

 

…その文章を読んでいて、秦の国では指揮官が戦ってはいけない理由がやっとわかった。

 

僕は『尉繚子』の大部分は秦人が書いたと考えていて、それは『商子』で見た異常なまでの苛烈さが『尉繚子』から見て取れるからという理由もある。

 

その苛烈さについて、『尉繚子』の「兵令下第二十四」では大将が死んだ時の話があって、そういうことがあったら将軍の周りの人間は死刑だったらしい。

 

たいしょうしてじゅうひゃくにんじょうてきすることあたわざるものる。たいしょうゆう近卒きんそつじんちゅうものは、みなる。そつ軍功ぐんこうものは、いっきゅううばう。軍功ぐんこうものは、まもること三歳さんさい。(同上)」

 

「もし自軍の大将が死んで、それに際して五百人将以上の人間の内、率いる部隊が敵兵を殺していなかったものは斬る。大将の側近で陣中に居た者はみな斬る。残りの兵士の中で、軍功があったものは爵位を一段階下げる。軍功がなかった者は国境での警備の任務へ左遷し、それを三年続ける。」

 

おそらく、これは秦の国の軍法で、先の記事で秦の国では大将は戦ってはいけないという話をしたけれども、こんな決まりがあるから大将は戦っていけないという話なんだと思う。

 

このレベルの話なら、敵の首を自ら取っただけで島流しってのは分かりますね…。

 

だから、『キングダム』では王騎が戦死したのだから、副将の騰とかは秦の法律では本来的に死刑だったらしい。

 

まぁ『史記』には騰が王騎の部下であるという記述とかはないし、王騎が戦死したって記載も別にないから色々ね?

 

『キングダム』では大将が死んでも側近は死刑になっていないけれど、まぁ原先生は『尉繚子』の言及内容とか知らないという話で良いと思う。

 

僕が『尉繚子』のあの文章を秦人が書いたと考えるのはその苛烈さの話もある一方で、階級を一級奪う云々の言及に際して、『商子』にはそういう爵位の話があって、軍功を得た場合は爵位を与えるという話もあるし、秦の国の役人の墓から出て来た「睡虎地秦簡」には爵位の話がある。

 

「 二級分の爵位を返還することで隷臣妾の父母一人を庶人にしようと願う者、隷臣が敵の首を獲得して公士の爵位を受け、その公士の爵位を返還することで隷妾である故妻一人を庶人にすることを求める者については、いずれも許可し、(父母や妻を)庶人とする。(工藤 元男編『睡虎地秦簡訳注』汲古書院 2018年p.216)」

 

僕はこの軍功と爵位に関する言及について、秦の国関連のテキストでしか出会ったことがないし、内容も『商子』と同じように異常なまでに苛烈な部分があるから、先の『尉繚子』の文章も秦人が書いたと考えるし、秦の国ではお偉いさんは戦ってはいけないという話があるので、まぁそういうことだと思う。

 

さて。

 

ここまでで『呉子』の第四編の「論将」についてで僕が何かを言いたいことが書き終わったので、次の第五篇の「応変」の話題に移ることにする。

 

この「応変」には、兵数差がある場合の軍の指揮に関する記述がある。

 

「 武侯が問いかけた、「もし敵が大軍で身方は少ないというばあいには、どのように戦ったらよかろうか」

 呉起は答えて言った、「平坦な動きやすい地形では、〔大軍の威力が発揮されやすいわけだから〕敵軍を避けて戦わず、狭くけわしい地形のところに誘いこんで戦うことです。そこで、『一の兵力によって十の軍勢を攻撃するには狭くるしい土地で戦うのが最善であり、十の兵力によって百の軍勢を攻撃するには険しい山坂の土地で戦うのが最善であり、千の兵力で万の軍勢を攻撃するにはでこぼこの多い活動しにくい土地で戦うのが最善だ』といわれています。

 いま少数の兵士がいたとして、彼らが狭くけわしい道に陣立てをして、急にふるいたって鐘をたたき太鼓をうちならしたとすると、どんな大軍であったとしても必ずひっくりかえるほどに驚くものです。そこでまた、『大軍を動かす者は平坦な動きやすい地形で戦うようにと務め、少数の兵を動かす者は狭くけわしい地形で戦うようにと務める』といわれるのです」(同上『呉子』p.472)」

 

これに関しては兵法の基本過ぎて、別に『呉子』がどうこうの話ではないと思う。

 

ここに、

「一の兵力によって十の軍勢を攻撃するには狭くるしい土地で戦うのが最善であり、十の兵力によって百の軍勢を攻撃するには険しい山坂の土地で戦うのが最善であり、千の兵力で万の軍勢を攻撃するにはでこぼこの多い活動しにくい土地で戦うのが最善だ」

という話が書かれているけれども、書き下し文だと、

いちもっじゅうつはあいよりきはく、じゅうもっひゃくつは、けんよりきはく、せんもっまんつは、よりきはし、(参考)」

となっていて、翻訳の問題で険しい山坂とか、でこぼこした土地とかになってるところに関しては、"阨"は狭いというニュアンスで、"險"はけわしいとかそんな感じで、險は中国語の辞書サイトでは地形的な要害のことも言うと言及があって、"阻"は入り組んだとかそういう意味らしい。

 

まぁ要するに、寡兵で戦うときは狭かったり険しかったり入り組んだ場所で戦うべきだという話であって、ゲリラ戦とかも想定していたという話なのかもしれない。

 

どんなに大軍が居たとしても、手に持つ武器が敵に届かなければ戦えないのであって、例えば、狭い場所で三人がやっと通れるような地形があったとして、そこで十人の軍勢と百人の軍勢が戦った場合、百人の方はその数的優位を上手く発揮することが出来ない。

 

一度に戦えるのは二~三人くらいまでで、平原で対峙した時のように、百人で十人を袋叩きにするなんてことは出来はしない。

 

どんなに大軍がいたところで、敵軍がジャングルの中で木々の上や穴倉にバラけて潜んでいて、それが急に襲い掛かってくるような場合は、大軍の真価など発揮しようがない

 

『呉子』では大軍には寡兵であった場合真っ向勝負はしないと言及されているけれど、同じ地域の場合、兵装のレベルは大体同じになって、そのような戦いになると戦う人種や人間の質も大体同じで、そのような場合だと、指揮官の指揮次第とはいえ、結局は数の優位が勝敗に最も影響を与えるところになる。

 

だから寡兵で大軍と真っ向勝負しないのはそりゃそうなのであって、『孫子』にしたところで、兵数が劣っていて勝算がない場合はそもそも戦うなという話をしている。

 

「そこで用兵の法としては、わが兵力が、敵に十倍するときは敵を包囲し、五倍するときは攻撃をかけ、倍するときには、わが軍を二手に分けて敵に当たらせる。兵力が互角のときには戦い、兵力が劣るときには守り、勝算がなければ戦いを避ける。兵力が少ないのに頑強に戦う軍勢は、ただ大敵の捕虜となるだけのことである。(金谷治他訳 『中国古典文学大系 4 老子 荘子 列子 孫子 呉子』 『孫子』 平凡社 1983年 p.429)」

 

敵より自軍が少ないというのに戦いを挑むというようなことは『孫子』でも推奨されていない。

 

まぁ普通に考えたらそりゃそうなのだけれども。

 

それでも敵が多く味方が少ないという戦いはあって、それはやはり、敵国に攻められたときになると思う。

 

『呉子』の言及だと、狭い場所で奇襲を仕掛けて混乱させて打ち勝とうという話だけれども、守勢の場合は時間を稼いだり、敵の士気をくじいたり、敵の兵糧を消費させることが出来ればいいわけであって、そのために少数の兵で敵を迎え撃つという戦い方もあると思う。

 

そのように戦っても相手を殲滅することは不可能かもしれないけれども、ただ、戦線を維持するだけで守勢の場合は意味があるから、足止めにしかならない戦力で戦って時間を稼ぐというのは無意味ではない。

 

このように、少数の兵で大軍を相手するという話は古代ギリシアにもあって、有名なテルモピュライの戦いで、スパルタ兵300対ペルシア軍21万で戦ったという話は有名で、その話は『スリー・ハンドレッド』という映画にもなっている。

 

まぁ今書いた兵数はヘロドトスの誇張らしいけれども。

 

 

この映画見たけど普通につまんなかったね…。

 

なんつーか、演出が気持ち悪かったです。(小並)

 

ともかく、そういう風に映画になるくらい有名なテルモピュライの戦いだけれども、この戦いでも大軍に不利な狭い場所で戦っていて、地形を生かした戦いで少数のスパルタ軍は大軍のペルシア軍と渡り合っている。

 

実際の動員兵数は不明瞭にしても、ペルシア側は数万とか十数万とかいった軍勢を海を越えてギリシアに送り込んでいるのだから、兵站を維持するだけで大変で、足止めでしかなかったスパルタの雄姿は、それでもペルシア戦争での勝利に一役買っている。

 

ただ、テルモピュライの戦い単体で見た場合、スパルタ軍は全滅しているし、局地的な戦いとしてはギリシア側の敗北になる。

 

少数の兵で大軍を相手したところで、最終的には大軍の方が勝つのはそれはそうで、狭い所で戦ってもあまりに敵が多いなら、足止めにしかなりはしない。

 

けれども、その足止めにも十分意味はあるという話です。

 

まぁ『キングダム』では隘路で戦えば千の軍勢に五百で勝てるらしいけれども。

 

(23巻pp.155-156)

 

個人的にそういう話ではないのでは?と思うし、この地形だったら足止めして上から弩を射かけたり、崖から駆け下りて側面から挟み撃ちにした方が効率的だと思うんだよなぁ。

 

ともかく、『呉子』の記述は大軍に対しては狭い所とか入り組んだところとかそういう地形を利用するという話で、ベトナム戦争でもベトコンはそうやって世界最強のアメリカ軍と戦ったし、ソ連とアメリカが勝ちきれなかったアフガニスタンにしても入り組んだ土地であるそうなので、兵が少ない場合は何処の地域でも結局はそういう戦い方になるのかなと思う。

 

まぁ聞いた話でまだ読んではいないけれども、『六韜』では寡兵での戦闘を推奨する記述があるらしくて、そういう守勢で仕方なしという場合以外にも寡兵でも戦う場合はあったみたいだけれども。

 

『キングダム』の場合…ゲリラ戦とかそういう戦いは普通しないし、毎回真っ向勝負するというのに、秦の軍隊の方が敵軍より少ないんだよなぁ…。

 

なんというか漫画として、数も多く士気も高い軍が、数に劣る敵軍を蹴散らしても普通につまらないから、そこら辺は仕方がない。

 

…『センゴク』とか、圧倒的に優勢な豊臣軍が長宗我部軍を蹴散らす四国征伐を普通に面白く描けてたから、描き方次第だとは思うけれども。

 

それはそれとして、そもそも劣った兵数で敵国に攻め込むという行いに関しては、『キングダム』の世界観的には問題はないと個人的に思う。

 

何故なら、一人の武勇があれば兵が何千何万いても関係なくて、王騎が何万の軍を率いたところで、龐煖一人が王騎を撃破すれば勝敗は決するような世界観だから、兵の多寡は問題ではなくて、将軍に武勇があるかどうかというのが最も重要であるという話になって、そうであるならばひたすらに武勇に優れた将軍を送り付ければ良いだけなのだから、兵が多いか少ないかはあまり関係がない。

 

実際問題として、『キングダム』では毎回秦軍は兵数が少なくても大体勝っているのだから、あの世界観ではその運用で問題ない様子がある。

 

勝っているのなら、アレは間違っていないとしか言及しようがない。

 

ただ、自軍の兵が少ないというのなら、『呉子』にあるように入り組んだ場所や狭い戦場で戦うのが基本なのはそうで、けれども『キングダム』でそういう描写がないことに関しては、まぁ原先生はそういう話は知らないし、なんつーか、やっぱ『真・三國無双』的なものを描きたいのだろうと思う。

 

あのゲームはバッサバッサと敵をなぎ倒していく爽快感が楽しいゲームで、それなのに敵が木や岩の隙間に潜んでゲリラ戦を展開してきたら、もはやゲームのコンセプト自体に関わる問題で、ゲームの方向性的に、ある程度は開けた場所でしか戦闘は行えない。

 

こちらが寡兵だったとしても、ゲリラ戦で敵を奇襲して撤退を繰り返すのは、やはりゲームのコンセプトとマッチしていない。

 

そのゲームを参考にするならば、戦いはそりゃ、開けたところがメインになると僕は思う。

 

黒羊では密林で戦っていたけれども、最初の方に一度奇襲を受けただけであとは割といつも通りというか、あの場面設定は森で羌瘣がはぐれるというイベントや、信の目に入らないところで桓騎軍が残虐行為を行うという状況のためには見通しの悪い地形が必要だったのだろうという話で、最初の方を除けば戦闘風景は割といつも通りでしかなかったから、やはり根底にあるのはそういうイメージなのではと思う。

 

…『センゴク』は寡兵によるゲリラ戦も面白く描いてたんだけどねぇ。

 

その時の相手が湯川直春という武将で、無名の敵が強すぎるという問題はあったけれども。

 

まぁいい。

 

次に『呉子』のこの「応変」には野戦陣地というか、野戦築城に関する記述がある。

 

魏王が呉起に、これこれこういう野戦陣地を敵が構築した場合、どのように対処したら良いだろうかと聞いたという設定で、その対策を呉起が語るという箇所がある。

 

そのような土木作業を用いた陣地に関しては、『キングダム』でも蒙驁が作っていた。

 

(『キングダム』21巻pp.164-165)

 

他にも黒羊であったけれども、このように山肌に柵を用意しているという場合が多いと思う。

 

野戦築城自体は『史記』にも言及があって、古代中国ではそういう方法で戦っていた様子があるし、古代ローマの『ガリア戦記』を読んでいても、カエサルは野戦築城で作った陣地でウェルキンゲトリクスというケルトの名将と戦っている。

 

『史記』にある野戦築城の記述に関しては、王翦がそれを作っている言及がある。

 

なんとなく漫画版を用意しましょうね。

 

(横山光輝『史記』8巻pp.38-39)

 

原作の『史記』にも塁璧を堅固にしたと書いてある。

 

「王翦は(楚の戦場に)到着したが、塁璧を堅固にして守るだけで、出撃しようとせず、荊軍(注:楚軍のこと)がしばしば出てきて挑発しても、ついに応じなかった。(司馬遷 『世界文学大系 5B 史記』 小竹文夫訳 筑摩書房 1962年 p.77 冒頭()および注は引用者補足)」

 

まぁ普通にこの言及は野戦築城の話であって、古代中国の戦場ではそのような概念があったらしい。

 

『キングダム』にも蒙驁が作ったそれがあるけれど、その内容とその攻略方法を見る限り、先秦の漢籍を参考にしてそれを描いているとは個人的に判断できない。

 

なんか、『キングダム』の蒙驁の砦に関しては、あんなの三国志関係の何かで見たことあるんだよな。

 

無双だったかもしれないし、三国志演義の何かだったかもしれないけれど、既視感は実際ある。

 

ただ、『呉子』に語られるところのそれとは似ていない。

 

「武候が問いかけた、「敵の軍団では兵員は極めて多く、しかも武勇の士に富み、〔その陣立てのありさまを見ると、〕 高山を背面にひかえ、険しい地形を前面のへだてとし、右には山、左には川、そのうえ堀を深くほり、土塁を高く積みあげ、強い弩で守備を固めている。 〔その行動を見ると節度があって、〕退くときには山が動くように落ちついており、進むときには風雨のようにはげしく、食糧はまたじゅうぶんに用意していて、とてもこちらでそれに対抗して長く守りつづけているのはむずかしい。もしこういう状況のばあいには、どうしたものであろう」(同上『呉子』p.472)」

 

僕はこれを読んでいて、まぁ…防御拠点はそういうところに作るよなと思う。

 

ここでは山を背後にすると書かれているけれども、『キングダム』の場合は山全体に作っていて、土塁と言えるような構造物はないし、堀もなくて、実際に古代中国で想定された野戦陣地とは色を違えている。

 

その攻略方法に関しても、『キングダム』では武勇に優れた廉頗将軍が突撃して武によって打ち破ったわけだけれども、『呉子』で語られるところの対策は、十分な数の戦車や騎兵、歩兵を集めて戦力を確かにした上で軍を五つに分けて、五つの方向から攻めて敵の防御を一か所に集中させないようにしたり、間者を送って敵の考えを探ったり、勝てないならさっさと引いたり、負けたフリをして退却して不意に反転して逆襲をすべしとか、まぁそういう戦い方になるよなという内容が書かれている。

 

他には敵の背後に回って連絡路を絶ったり、波状攻撃で敵を惑わせたり、口に板を噛ませて隠密に行動する部隊を用意して、それによって敵の不意を突くとかそういった、実際的な話が書かれている。

 

こういうところを読むと、実際の戦場がどのようなものだったのかがなんとなしに見えてきて、『孫子』より『呉子』の方が実際的で僕は好きだというのは、そういう記述を言ってになる。

 

『キングダム』の廉頗による野戦陣地の攻略は、アレがそのまま『真・三國無双』のミッションとしてあったとしても、普通にそれはそのまま再現できそうなイメージが個人的にある。

 

やっぱそういうイメージが『キングダム』では強いのだろうと僕は思う。

 

次に「応変」では敵が略奪してきた場合の話がある。

 

「 武侯が問いかけた、「強暴な侵入者がにわかに国内に攻めこみ、わが田野の物資を掠奪し、牛や羊をとらえるというばあいには、これにどう対処したらよかろうか」

 呉起は答えて言った、「強暴な侵入者が攻めこんできたばあいは、必ずその勢いの強いことをよく考えて、こちらの塁壁の守備をじゅうぶんにして、すぐにあいてにはならないことです。彼らは日暮れになるとその陣営にひきあげようとするでしょうが、そのときは戦利品で持ち物は必ず重く、精神的にも必ず追撃を恐れていますから、できるだけ速くひきあげようとして、きっと隊列がとぎれとぎれになってしまいます。これを追迹して攻撃したなら、その軍隊は必ずうちやぶれましょう」(同上『呉子』p.475)」

 

『キングダム』では基本的に桓騎軍しか略奪は行わないけれど、まぁ敵国に来たらまずするのはそりゃ略奪だよなと個人的に思う。

 

漫画の中で略奪の場面を描くとしたならば、わざわざそのような場を設定しなければならないわけで、そのような場面を描いてもあまり面白くないというか、敵側だったら胸糞悪いだけだし、桓騎以外の味方だったら読者の心証が悪いし、描いて期待できる得もあんまりない。

 

あの熱血の世界観で信の軍隊が略奪するのは見れたものじゃないだろうし、蒙恬や王賁、そして騰の軍隊が略奪を行っても漫画が面白くなるとは思えない。

 

描かれないのはそういう"事情"もあると思う。

 

その略奪に関して、「応変」では以下の言及がある。

 

「 呉先生が言われた、「およそ敵国に攻めこんでその都城を包囲攻撃するときのありかたとしては、すでに都も村も落としてしまったからには、それぞれに敵の宮殿に入り、官吏たちの残った者を収容して使役し、宮殿の器物を没収する。軍隊の進む土地では、〔敵地のものだからといって〕その材木をむやみに切り採ったり、その民家をとりこわしたり、その穀物を奪ったり、家畜の類を殺したり、蓄えの資財を焼きはらったりしないで、乱暴なむごい心がこちらにないことを敵地の民衆に示すことだ。もし降参をねがってくる者があれば、それを許して安泰にしてやれ」(同上『呉子』p.476)」

 

結局、敵地とはいえ攻め落としたならば以後は自分たちの領土だし、そこに居る人間は以後領民になるのだから、その時点になったらもう、酷いことをしても恨みを買うだけであって、そういうことはしないという話で良いと思う。

 

桓騎軍は征服した土地でそういうことをやっていたけれども、『呉子』では推奨されていない。

 

まぁこれに関しては実際の所、殺し合いをした恨みのある相手なのだから、『呉子』がそう指南したところで、実際の戦場では降伏後に略奪や乱暴はあったと思う。

 

兵法書にそう書かれたところで実際の戦場ではそうならないというか、このことに関しては制圧後も酷い扱いをする場合があるから、その振る舞いは良くないと論じているという話なのではないかと思う。

 

さて。

 

ここまでで『応変』に関するそれが終わったので、『呉子』の最後の第六篇である「励士」の話に移る。

 

「励士」では、字面通りに兵士を激励するためにはどういう事柄が必要かが言及されていて、数か月前にそれを読んだ僕が書いたメモには、「刑罰と恩賞、霊廟の前、騎馬と戦車」とだけ書かれている。

 

そのメモを書いた時は『孫子』と『キングダム』の記事を書く前だったから、『孫子』の時に刑罰と恩賞についてと霊廟の話をあそこまで掘り下げる予定は脳内になくて、『孫子』の時のあれで十分だと思うので、今回は言及しない。

 

つーか多分、『孫子』の記事でその話をするときに、『呉子』の文章を引用するつもりだったのを書くときに忘れたのだと思う。

 

騎馬と戦車に関しては、『キングダム』では戦車は最初の方にしか出てこないけれど、古代中国の戦国時代では使用されていて、その話をしようとメモを書いた時の僕は考えていたのだろうという推論はある一方で、そのような話は一連の記事でもう済ませてしまっている。

 

戦車は古くから使われていて、春秋時代より前の周の時代の厲王の時代(紀元前9世紀頃)に作られたとされる青銅器の『多友鼎』には、周に所属する丼(『春秋左氏伝』に見られる邢)という都市国家の君主である武公が、部下である多友という人物に命じて戦車で玁允(けんいん)という異民族を征伐させたと言及されている。

 

(『多友鼎』:参考)

 

騎兵がいつから使われたのかは僕は詳しくは知らないけれども、少なくとも前漢の時代には戦車は軍備として記録に残っていて、『キングダム』のように殆ど使われていないというようなものではなかったと思う。

 

まぁ一連の『孫子』や『呉子』に関する僕が書いた何かを読んだ人ならば、『キングダム』で何故そうなっているかに関しては、今更ここでその理由を言及することもないと思う。

 

という、『キングダム』と『呉子』について。

 

…。

 

今回はマジにきつかったですね…。

 

結局、書くだけで六時間以上かかっているし、折り合いが悪くて一日では終わらずに、結局四日間この記事にかかずらっている。

 

特にキツかったのはメモとか一切なかったから一冊の本を頭からケツまで確認した『黄帝四経』の残虐行為に関する記述を見つける作業とか、『司馬法』や『尉繚子』を翻訳する作業だった。

 

特に『司馬法』については、一番最初に持ってきた文章に関して、何故あの訳になるのかの補足が必要になって、ただ今回は紙幅が足りないから補足の記事を用意するしかなかったりで、もう色々どうしようもない。

 

そもそも当初の予定では『孫子』前後編、『呉子』前中後編とプラスして補足の記事の六つの記事で書く内容を一つの記事で書く予定だったのであって、こんな事態は想定していなかった。

 

しかも書いたところで誰も幸せにならないというか、少なくとも『キングダム』の善き読者にとってはむしろ不快な内容で、なにもかもがどうしようもない有様になっている、

 

まぁともかく、書いたものはどうしようもないし、消すほどの内容でもないと思うので、まぁ良しとして終わりにすることにする。

 

補足の記事が残っているけれども。

 

そんな感じです。

 

では。