『キングダム』と『呉子』について(中編) | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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やって行くことにする。

 

今回は『キングダム』と『呉子』についての続きの記事だけれども、この類の記事を書くたびに二度も三度もコンセプトについて言及していて、そのたび、『キングダム』は先秦の漢籍なんて碌に参考にしていないという話をねっとりとしているのだから、今回は特にコンセプトの説明はしないで始めることにする。

 

前回までで『呉子』の第二編である「料敵」までが終わった。

 

『呉子』は全六篇の小著なんだから、残り四編を頑張ってやって行きましょうね。

 

第三篇の「治兵」には、戦車などの軍備と馬草についての話がある。

 

「 武侯が問いかけた、「戦争を行なうための方法としては、まず何からとりかかればよかろうか」

 呉起はそれに答えて言った、「まず四軽すなわち四つの軽便なこと、 二重すなわち二つの重いこと、一信すなわち一つの確かさ、これをはっきりさせるべきです」

「どういう意味であろうか」

 答えて言った、「〔まず四軽というのは、〕土地については馬のために便宜のよいようにし、馬については車のために便宜のよいようにし、 車については人のために便宜のよいようにし、人については戦闘のために便宜のよいようにすることです。土地についてその地形をよく調査して、〕険阻なところ平坦なところをはっきりとわきまえておくというのが、土地を馬のために便宜よくすることです。乾草や豆などの馬糧をそろえて適時に与えるというのが、馬を車のために便宜よくすることです。車軸の環に十分たっぷりと油をぬっておくというのが、 車を人のために便宜よくすることです。武器が鋭利であって鎧・かぶとも堅牢だというのが、人を戦闘に便宜よくすることです。さて、 次の二重としては、勇敢に進撃する者には重い恩賞を与え、卑怯な 退却をする者には重い刑罰をくだします。そしてその実施には厳正確実を旨とすべき〔で、これが一信〕です。以上のことを十分に実行できれば、勝利の君主であります」(金谷治他訳 『中国古典文学大系 4 老子 荘子 列子 孫子 呉子』 平凡社 1983年 p.463」

 

『キングダム』ではごく初期にしか出てこない戦車だけれども、古代中国の場合は、秦の始皇帝が中華を統一して以後も戦車は現役で、何だったら三国時代でも確か戦車は使われていたと思う。

 

他の兵法書だと、『司馬法』にも戦車の話はあるし、『司馬法』は戦国時代の一つ前の春秋時代のものらしいけれども、この『呉子』は春秋時代ではなくて戦国時代に書かれたものであって、古代中国戦国時代では戦車は使われていたと考えて良いと思う。

 

実際、秦の時代の役人の墓から出て来たテキストである、「睡虎地秦簡」では戦車兵の訓練の話や、戦車に搭載する軍備の話がされている箇所があって、このテキストは実際に秦の時代を生きた人が読んでいたものであって、そうであるならば、『キングダム』の時代でも戦車は普通に現役であった様子がある。

 

漢代にも戦車はあって、尹湾漢簡という出土文献の『武庫永始四年兵車器集簿』というテキストの中に、軍備としての戦車の言及がある。

 

そのように古代中国では戦車があった一方で、『キングダム』では出てこないのはまぁ、作者のイメージが『真・三國無双』であって、あのゲームは武将は騎乗しているというかなんというか、無双をするにあたって戦車に乗っているとそれは難しいし、敵に戦車が居たら無双をするにあたってストレス要素となりかねないのであって、余計なオブジェクトをゲームとして配置していないという話で良いと思う。

 

『キングダム』は基本的に『真・三國無双』やゲームの『三國志』がベースであって、呂不韋と秦王政が論説で争う場面や、政が斉王とやり取りする場面が『キングダム』にはあるけれども、あれは普通にゲームの『三國志』が元という話で良いと思う。

 

(原泰久『キングダム』45巻pp.185--187)

 

ゲームの『三國志』ではシリーズによって、舌戦というシステムがあって、武将同士で口頭でバトルするそれがあって、大体、文官による一騎打ちのような感じになっている。

 

『キングダム』だと政も斉王も手を体の前で合わせてから話を始めているけれども、『三國志』でもそのような動作をしてから舌戦は始まるし、相手を言論で圧倒出来た時、昌文君がそうなっているように、相手がのけぞるような動作をしたりする。

 

僕は先の引用や呂不韋との言葉による戦いに関して、初見で『三國志』かな?と思ったし、『史記』で言及されるところの議論と言うか論破と言うか、弁論家の説論と、『キングダム』のそれは似ていない。

 

歴史書である『史記』には、戦国時代の中国で弁舌を以って身を立てた縦横家である、蘇秦と張儀の列伝があって、そこで見られる弁論と『キングダム』ではまるで様相を異にしている。

 

古代中国の場合、相手が正論を言って言い負かした場合、言い負かされた方は黙然として、何も答えず沈黙によって相手の意見を肯定するようなイメージがある。

 

一方で『キングダム』の討論は『三國志』のそれとは割かし似ていて、まぁやはりイメージが古代中国の漢籍よりも、コーエーのゲームのそれの方が強いのだと思う。

 

そのようなことから、前提とするイメージが漢籍ではなくてゲームの方だと考えた方が妥当で、そうと考えるならば、当時は現役だった戦車が作中で登場しないことも理解できるし、その整備の話も、馬たちが食べる馬草が作中で一切想定されていないことも理解できる。

 

当たり前の話だけれども、馬は生き物なのであって、食べ物がなければ生きていけないわけで、その確保は重要な概念になる。

 

その馬の話は次の第三篇の「治兵」にもある。

 

「 武侯が問いかけた、「およそ車をひく馬を養うのに、いったいきまったやりかたがあるものだろうか」

 呉起は答えて言った、「いったい馬のためには、必ずその居どころを快適なものにし、その飲料や飼料を吟味し、空腹のときと満腹のときとにきまりをつけ、冬には厩舎の中を温かくしてやり、夏にはその軒ばを涼しくしてやり、毛やたて髪を切りそろえ、四つの蹄の肉をよく注意してけずり落としてやります。〔それから〕馬の耳や目をなれさせて、〔不意のことに驚いて暴走したりしないようにし、よく訓練して〕 いろいろの走りかたを習わせ、進んだり止まったりする動 作にもなれさせます。[こうして〕人と馬との気持がぴったり合うようになって、そこではじめてその馬を使ってよろしいのです。車をひく馬につける馬具としては、鞍・勒・銜・轡など、必ず完全堅固なものにします。さて、馬を使ってのことですが、およそ馬というものは、その使用の終わりになってだめになるのではなくて、必ず畜(か)いかけの初めにだめにするものですし、空腹にさせてだめになるのでなくて、必ず満腹させすぎてだめにするものです。〔行軍で〕日が暮れて 道のりの遠いばあいは、必ずたびたび交代させて馬を休め、人を疲れさせることがあっても、馬を疲れさせないようくれぐれも注意します。いつも〔馬の力に〕余裕のあるようにして、敵の不意の来襲に用意するのです。こういうやりかたがじゅうぶんによくできる人なら、世界じゅうどこでも勝利をおさめることができるでしょう」(同上pp.466-467)」

 

軍人にとっては戦場以外での馬の扱いは重要な話のようで、傭兵として活躍する傍ら、数多くの著作を残した古代ギリシア、アテネの軍人であるクセノフォンは『馬術について』という著作を残していて、僕はそれを読んだのだけれども、乗馬の訓練の話だけではなくて、普段からどのように馬を扱うかの話がされていた。

 

 

古代中国では乗馬はギリシア程には行われていなかっただろうし、実際、先の『呉子』の引用箇所でも戦車のための馬の話はされていても、騎乗用の馬の話はされてはいないとはいえ、馬の扱いは重要な概念だった様子がある。

 

…『キングダム』にはそういう話はないけれども。

 

まぁそこに関しては『キングダム』が"抜かっている"というよりも、馬糧を想定している創作物の方が少数で、少なくとも僕はそのようなところを厳密に描いている創作物と出会ったことがない。

 

一応、『センゴク』の後半くらいとかだと、馬をそれなりに描いているけれども、馬糧に関する話題はなかったと思う。

 

ただ、戦場では馬を用いていたというのが実際なわけで、そうとすると当時の戦場の風景として、そのような馬のためのあれこれがあったわけで、この記事のコンセプトは当時の中国の戦場はこんな感じだったらしいっすよ?ということを示すことなので、今回はその話をした。

 

次に、この「治兵」には進軍に用いる太鼓や鐘の話がある。

 

「 武侯が問いかけた、「軍隊は何によって勝利をおさめるものであろう」

 呉起はそれに答えた、「軍隊を整備することによって勝利をおさめるのです」

 武侯はさらに問いかけた、「人数の多いことによるのではなかろうか」

 呉起は答えて言った、「もし〔軍中での〕法令がはっきりせず、賞罰も厳正でなくて、鐘をたたいて〔退却させようとしても〕停止せず、 太鼓をうって 〔進撃させようとしても〕進まないのでは、たとい百万の軍勢があったところで、とてもものの役にはたちません。

 いわゆる整備というのは、こうです。 平静でいるときには礼節が守られ、行動を起こすときには威厳があり、進撃すれば 〔勢いはげしくて〕退却すれば〔迅速斉整で〕とてもそれを追撃できず、前進するに も後退するにも節度があり、左へゆくにも右へゆくにも指揮どおりに従い、〔隊伍のあいだが〕 きれぎれに断絶していて突破しやすいように見え〕ながらそれで陣ができており、ばらばらに散っていて各個撃破がしやすいように見え〕ながらそれで隊列ができており、安全なときも危険なときも全軍ともに行動し、兵士たちは心を一つにさせることはできてもばらばらにさせることはできず、戦闘に力をふるわせることはできても疲れていやにならせることはできないのです。(同上p.463)」

 

「呉先生が言われた、「〔兵士たちに〕 戦闘技術を教えるについて教えるについてのきまりとして、背丈の低い者には長い矛や戟を持たせ、背丈けの高い者には弓や弩を持たせ、力の強い者には部隊の旗じるしや指揮の旗差しものを持たせ、勇敢な者にはあいずのための鐘や太鼓を持たせ、 体の弱い者は炊事に当たらせ、知慮にすぐれた者には謀議の中心とならせる。また同郷同里の者どうしはたがいに親しみあわせ、十人組五人組の隣組どうしはたがいに守りあわせる。 [太鼓のうちかたのきまりは〕一つうって武器を整備させ、二つうって陣立てになれさせ、三つうって食事につかせ、四つうって装備を厳重にさせ、五つうって隊列につかせるが、すべての太鼓が同時にうたれてその音がとどろきわたると、そこではじめて旗差しものをあげて前進するのである」(同上p.465)」

 

このように、古代中国では情報伝達は太鼓や鐘を鳴らして行っていた様子がある。

 

その話は『尉繚子』にもある。

 

今回は書き下し文しか用意できなかったので、直後に僕が現代語訳したやつを用意します。

 

「金きんれいつのもの各〻おのおのほうり。これすればすなわすすみ、かさねてすればすなわつ。これきんすればすなわとどまり、かさねてきんすればすなわ退しりぞく。すずれいつたえるなり。はたこれひだりさしまねけばすなわひだりし、これみぎさしまねけばすなわみぎす。へいすなわこれはんす。(『尉繚子』「勒卒令第十八」:参考)」

 

「鐘、太鼓、鈴、旗という四つの情報伝達の道具には、それぞれ使い方がある。太鼓を叩けば軍は前進し、太鼓を連続して叩けば軍は攻撃を仕掛ける。鐘を鳴らしたときに軍は前進をやめ、鐘を連続して叩いた時は後退の合図である。鈴は伝令を伝えるものである。旗は左に振れば軍を左に進め、右に振れば軍を右に進ませる。奇兵、すなわち奇策を行う軍隊の場合は、先の方針と反した動きをさせる。」

 

このように古代中国では鐘や太鼓、そして旗などを使って情報伝達をしていて、その話は『呉子』の他の箇所にもある。

 

「 武候が問いかけた、「全軍の進軍と駐軍とには、いったいきまった方法があるのだろうか。」

 呉起は答えて言った、「天竈に位置してはならないし、竜頭に位置してはなりません。天竈というのは深い谷の入り口ですし、竜頭というのは高い山のはずれです。〔旗指しものは〕必ず青い竜の旗を東に立て、白い虎の旗を西に立て、朱い雀の旗を中央にいただいて、全軍がその旗の指揮下で働きます。(同上『呉子』「治兵」p.466)」

 

「 武候が問いかけた、「戦車は堅牢で軍馬もよく訓練された勇将強卒の部隊であっても、不意の敵にでくわして、統率が乱れ隊列もばらばらになるということがあるのだが、これはどうしたらよかろうか。」

 呉起は答えて言った、「およそ戦闘のきまりとしては、昼に旌・旗・旛・麾(注:種々のはた)を使って軍中での節(しるし)とし、夜には鐘・太鼓・笳・笛(注:笳はふえの一種)使って軍中での節と〔して、士卒をよくよく教習〕します。左へと麾(さしまね)けば左へゆき、右へと麾けば右へゆき、太鼓をうてば進み、鐘をたたけば停止し、一度笛を吹けば隊列をつくり、二度吹けば集合する〔というように合図をなれさせ〕、号令に従わないものがあれば誅罰を加えます。」(同上『呉子』「応変」p.471)」

 

まぁここまで引用すれば当時の中国の戦場の風景というものがなんとなしに見えてくるのではないかと思う。

 

僕は『呉子』を前々から読んでいて、このように語られる古代中国の戦場の風景を知っていたから、『キングダム』で描かれる戦争風景を見るたびに、うーん、と思ってしまっていた。

 

当時の史料がないというのなら、どのような戦場を描いてもそれは差支えがないのだけれども、実際に当時の戦場について言及のあるテキストを読んでいると、古代中国の戦場というものがどういうものだったのかがある程度分かってしまって、それが故に『キングダム』が戦闘シーンについて、やはり古代中国の戦場を再現する気などないのだろうという結論に至ってしまう。

 

そして、古代中国の戦場を描いていないとしたならば、あれは何なんだろうというのが問題で、僕の記憶の中で最も似ているそれが、ゲームの『真・三國無双』であって、この記事で言及した舌戦の話もそうなのだけれど、やはり、漢籍ではなくてゲームや現代の創作物が『キングダム』のベースなのだろうと僕は思う。

 

加えて、先に引用した「治兵」には当時使用された武器の話がある。

 

「呉先生が言われた、「〔兵士たちに〕 戦闘技術を教えるについて教えるについてのきまりとして、背丈の低い者には長い矛や戟を持たせ、背丈けの高い者には弓や弩を持たせ、力の強い者には部隊の旗じるしや指揮の旗差しものを持たせ、勇敢な者にはあいずのための鐘や太鼓を持たせ、 体の弱い者は炊事に当たらせ、知慮にすぐれた者には謀議の中心とならせる。(同上p.465)」

 

ここに矛や戟、そして弓や弩の言及がある。

 

『キングダム』では矛と弓は出てきても、戟や弩はあまり出てこない。

 

戟というのは槍に突起が付いたような長物で、弩はクロスボウのことになる。

 

戟に関しては、横山光輝先生の『史記』で描かれているから、それを参考にすると良いかもしれない。


(横山光輝『史記』12巻p.7)

 

ここで雑兵が持っているのが戟で、戟は古代中国のメインウェポンみたいな側面がある。

 

そして弩に関しても多く用いられていたはずで、「睡虎地秦簡」では軍備としての弩の話や、弩兵の訓練の話が普通に存在している。

 

 

一方で、『キングダム』でそのどちらもないのは、まぁやっぱり、『真・三國無双』のイメージが強いからという話で良いと思う。

 

戟も弩も、大して出て来た記憶がないし、それを使う武将は居ないだろうし。

 

次に、兵卒の訓練の話が「治兵」にある。

 

「 呉先生が言われた、「いったい、人はいつも自分の能力をこえた事態に出あってたおれ、自分のなれていない状況に出あって敗れるものである。そこで戦争のための原則としては、人々を教え戒めることがまず第一のことである。一人が戦闘の技術を学ぶとその教育の効果は十人に及び、十人が戦闘の技術を学ぶとその教育の効果は百人に及び、百人が戦闘の技術を学ぶとその教育の効果は千人に及び、千人が戦闘の技術を学ぶとその教育の効果は万人に及び、万人が戦闘の技術を学ぶとその教育の効果は三軍すなわち全軍に及ぶ。

 戦場の近くにいて遠くからやって来る敵を待ちうけ、安楽にしていて疲労したあいてに当たり、腹いっぱいでいて飢えたあいてに当たる 〔という、そうした必勝の教育である]。

 円陣を作らせてまたそれを方陣に変え、坐らせてまたたちまちそれを立たせ、進ませてまた停止させ、左へ行かせたかと思うとまた右に行かせ、前進させたかと思うとまた後退させ、隊を分けてまたたちまち合わせ、一つに集結させてまたたちまち散開させる。このようにしてどんな変化にも習熟してしまうと、そこで実際に武器を持たせることになる。これを将軍の仕事というのである」(同上p.456)」

 

これに関してはまぁ、そういう風に訓練してたんだろうなという以上の話はない。

 

『キングダム』にも兵卒の訓練をしている場面があったけれども、なんかイメージが全然違う。


(原泰久『キングダム』45巻pp.195-196)

 

なんかこう、イメージが違うというか、映画の『フルメタル・ジャケット』味がするというか、『呉子』で言及されるところのそれと違うとしか僕には言及しようがない。

 

ただ、『呉子』にあのように書かれていたところで、肉体の鍛錬や"しごき"はおそらくあっただろうので、ただその辺りについて書かれたテキストを僕は知らなくて、それが故に実際にどのような訓練が当時行われていたのかは判然としない。

 

少なくとも、命令したら即座に兵たちが動きに移るような訓練はしていたのだろうけれども。

 

とはいえ、『商子』という秦の国の本の言及を見る限り、秦の軍人と農民以外の職業の蔑視は凄まじくて、そうとすると大概の場合は農民の出であって、そうであるならば彼らの身体は農作業で鍛えられてるわけで、だとすると、現代の新兵訓練のようにしごきとかは別に必要なかったのかもしれない。

 

「治兵」で『キングダム』と関連して言及できるところは言及し尽くしたので、次は第四篇の「論将」の話に移る。

 

この「論将」には、敵の将軍の性質に合わせた戦い方の話がある。

 

「 呉先生が言われた、「およそ戦闘のために大切な要点となることは、必ずまず敵の将軍がだれであるかをさぐり出してその才能を良く調べ、敵軍の態勢に応じてそれにふさわしい便宜の策を用いたなら、苦労もなく功績があがるものである。〔すなわち〕 敵の将軍が愚か者で人を信用しやすい性質であれば、謀略によってだまして誘い出すのがよい。貪欲な性質で名誉心の薄いものであれば、財宝を送って賄賂で身方にひきいれるのがよい。行動をかるがるしく変化させて深慮に欠ける者であれば〔あちこちと動かせて〕 疲れさせて苦しめるのがよい。将軍をはじめとする上位の者が豊かでいばっていて、下層の人々が貧しく怨んでいるというのであれば、上下の間をひき離して人心をばらばらにさせるのがよい。軍を進めるにも後退させるにも優柔不断で、配下の人々の頼みとする中心になっていないというのであれば、突然に驚かせて逃走させるのがよい。兵士たちがその将軍を軽視してわが家に帰りたいという心をいだいているばあいには、平らな進みやすい道をしっかり塞いで通れぬようにして、険阻な通りにくい道すじをあけておき、そこに来るのを向かえてうちとるのがよい。

 さて、一般的に敵軍の態勢を論ずると、敵の前進する道が平坦で進みやすく、後退する道が険阻で退きにくいというばあいは、こちらへ招きよせて前進させるのがよい。〔反対に〕前進する道が険阻で進みにくく、後退する道が平坦で退きやすいというばあいは、こちらからおしつめていって攻撃するのがよい。敵軍が低い湿地に駐屯していて、そこでは水のはけ口がなく、それに長雨がしきりに降りつづくというばあいは、そこに水を流して敵軍を溺れさせるのがよい。敵軍がひろびろとした沢地に駐屯していて、そこでは草やいばらが一面に生え繁っており、それに強い風がしきりに吹きつづくというばあいは、そこに火をつけて敵軍を焼き滅ぼすのがよい。敵の駐軍が長びいていっこうに動かず、将兵ともにあきあきしてその軍備も十分でなくなっているばあいは、その陣中に潜入して不意に襲撃するのがよい」(同上p.471)」

 

『キングダム』では戦争は一騎打ちで決着するようなもので、全ての性質は一騎打ちの強さという指標の前では全く無意味な世界観だから、ここに書かれている内容とはあまり重なってはいないけれども、実際の戦場だと将軍はただの指揮官であって、兵同士が集団で戦うもので、そうであるならばその指揮官の性質によって行うべき行動は変わってくるのであって、ここではその性質によって軍の行動指針を変えるという話がされている。

 

後半に関してはその話とはあまり繋がらないけれども、当時の戦術と実際の戦場について、臨場感があるような言及だったので引用した。

 

まぁ『キングダム』の場合は全てが一騎打ちでどうにかなる世界観だから、そのような兵略などというものは些細な問題でしかないのだけれども。

 

そもそも、秦の軍隊だと一騎打ち自体してはいけない決まりになっていて、その話は『商子』に言及がある。

 

「戦争のばあいは、五人をまとめて登録してこれを伍とし、そのうちの一人が戦死し、他の四人がこれを救わなかったなら、その四人を処罰する。だれでもよく敵の首一級を得たならば、その賦役を免除する。五人に一屯長をおき、百人に一将をおき、その戦うに当たっては、百人の将や屯長は(指揮にあたらねばならないから)、みずから敵首を斬ることはしてならない。(清水潔訳 『商子』 「境内」 明徳出版 1970年 p.187)」

 

 

『商子』というのは、始皇帝が生まれる100年くらい前に秦で活躍した名宰相である商鞅が書いたとされる本で、世界史でも彼の名前は習うから知っている人も居るかもしれない。

 

ともかく、これを読む限り、兵たちは賦役免除を喜ぶし、五人組の隊長以上の身分だと、敵の兵士の首を斬ってはいけないということが分かる。

 

ちなみに、斬ったらどうなるかに関しては、お偉いさんがそれをやると島流しの刑に処されたらしい。

 

「大夫の爵位を有する者が戦場で首を獲ったら、遷に処せ。(工藤 元男編 『睡虎地秦簡訳注』 汲古書院 2018年 p.350)」

 

遷というのは左遷の事で、まぁ島流しの話ということで良いと思う。

 

…どうでも良いけれど、以前の記事で『キングダム』の兵士のモチベーションが分からないと僕は言及していた。

 

ただ、『商子』の文章を読む限り、秦の兵士たちは賦役免除や爵位や金などを目的として彼らは従軍していた様子がある。

 

秦の賦役はちょっと異常で、酷い労苦であったことが『商子』の言及から読み取れる。

 

実際、この記事の前編で秦の政令は厳しいという『呉子』の話を引用しているし、『商子』を読む限り、絶対にこの国では暮らしたくはないというような厳しい苦役の様子が見て取れる。

 

秦の兵士たちはそれを逃れるためにも戦場で働いていた様子がある。

 

…まぁ『尉繚子』とか『商子』を読んでいると、秦の国はちょっとしでかしたら即死刑みたいな様子があるから、死にたくなくて戦っている部分もあるのだろうけれども。

 

といったところで紙幅の問題で今回はここまで。

 

…。

 

(中編)とかなぁにやってるんですかねぇ…。

 

でももう、今更どうすることも出来ないし、一応、当初に立てた予定だと、『呉子』と『蒼天航路』の話はセットだった一方で、今回の記事は『呉子』だけで紙幅が埋まるから『蒼天航路』の話はしないつもりで書き始めてはいた。

 

結果として『呉子』の話はしきれなかったわけで、とりあえず今回はこのまま公開して中編として、後編の記事で、『呉子』の話をしきったあとに、『蒼天航路』と『キングダム』の関係性の話をして行く方針にしようかと思う。

 

マジ何やってるんだろうね。

 

でもやっちゃったものはもうしょうがないね…。

 

そんな感じです。

 

では。