『ヒストリエ』のデモニコスについて他 | 胙豆

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書いていくことにする。

 

まず、表題にあるデモニコスが誰かについてから色々始めて行く。

 

デモニコスってのはアレですね、『ヒストリエ』六巻で滝を見に行った時に、仮病を使ってサボって滝を見つけたっていうアレクの学友ですね。

 

(岩明均『ヒストリエ』6巻p.128 以下は簡略な表記とする)

 

彼が誰なのかは僕の中の長年の謎で、色々調べても彼が誰なのかが良く分からなくて、実際、そこのところは僕以外でもそうであるらしい。

 

Wikipediaの『ヒストリエ』の記事では、登場人物に関して、その人物が実在のそれかどうかの記述があって、*がついている人物は実在しているという話なのだけれども、このデモニコスについては実在の人物ではないとあの記事を書いた人は判断したらしく、彼の名前のところに*はない。

 

(Wikipedia ヒストリエより)

 

このようにデモニコスという人物は岩明先生のオリキャラのように扱われているけれど、僕としてはおそらく、実際に史書に言及のある実在の人物ではあって、けれども、その名前に僕が未だ辿り着けていないだろうと考えていた。

 

そんな風に漠然とデモニコスについて捉えていたある日、自分が書いたものを確認していたら、彼の名前が史書に言及されている場面を見つけることに成功して、岩明先生もその本から彼の名前を取って来て、滝のところで彼を登場させたのだなと僕は思った。

 

デモニコスは『インド誌』というネアルコスのインド洋の冒険についての本に言及があって、以前言及した通り、エウメネスの父親がヒエロニュモスだと言及している場面で、彼の名前が言及されている。

 

「軍中にはまたこれも、海事にもの馴れた島育ちの男どもも少なからず居たし、それにイオニア人やヘッレスポントス出身の者たちもいたのである。すなわちアミュントルの子ヘパイスティオン、エウヌウスの子レオンナトス、アガトクレスの子リュシマコス、ティマンドロスの子アスクレピオドロス、クレイニアスの子アルコン、アテナイオスの子デモニコス、アナクシドトスの子ティマンテス、以上は全てペッラ出身者。(フラウィオス・アッリアノス『アレクサンドロス東征記およびインド誌 本文編』 大牟田章訳 東海大学出版 1996年 p.977 下線部引用者)」

 

 

…送料抜きで35円は買い時だな。下巻だけど。

 

ともかく、この記述はインド遠征途中で川下りをした際に、その面子についての言及で、アレクサンドロス大王の陣営に居た人物が列挙されていて、マケドニアの首都であるペラの出身者として、アテナイオスの子であるデモニコスの名前がある。

 

まぁ普通に考えて、『ヒストリエ』のデモニコスは彼の事という話で良いと思う。

 

僕は『ヒストリエ』の解説記事のために色々やってた時にデモニコスの名前を見つけて、「お前…ここに居たのか…!」と素で思いました。(小学生並みの感想)

 

『ヒストリエ』のデモニコスは授業をサボってパカラってたら良い感じの風景を見つけたわけであって、そうとすると勉学に関して優秀ではないという話で、そのような立ち回りを東方遠征やディアドコイ戦争で目立った活躍をした人物にさせるというのは変な話で、そのような役割で誰かを登場させるに際して、ミエザの学校に参加できるような出自の人物の中で、特に目立った事績のないデモニコスが選ばれたのかなと僕は思う。

 

あの場面に関しては、ミエザで共に学んでいるアレクサンドロスの学友となると、多くの場合はマケドニア貴族になって、その中でペラ出身で他に特筆すべきところのないデモニコスが適当に選ばれたというのが一番近い所だと思う。

 

ちなみに、さっき引用した『インド誌』の同じ箇所にはオレスティス出身者の言及がされている。

 

「オレスティス出身者としてはアレクサンドロスの子クラテロスオロンテスの子ペルディッカス。エオルダイア人としてはラゴスの子プトレマイオスにペイサイオスの子アリストヌウス。ピュドナ出身者としてはエピカルモスの子メトロンとシモスの子ニカルキデス。それにアンドロメネスの子でテュンパイア人のアッタロス、アレクサンドロスの子でミエザ人のペウケスタス、クラテウアスの子でアルコメナイ人のペイトン、アンティパトロスの子でアイガイ人のレオンナトス、ニコラオスの子でアロロス人のパンタウコスおよびゾイロスの子でベロイア人のムッレアスといった面面だ。これらはすべてマケドニア人である。

(同上 下線部引用者)」

 

『ヒストリエ』の11巻でオレスティス出身の色々な人の言及があって、あの描写はこの記述からだろうと思う。

 

(11巻pp.39-41)

 

多分、彼らがオレスティス出身だという話は『インド誌』以外に記載がなくて、おそらくはこれらの描写は『インド誌』に依っているという話で良いと思う。

 

だからまぁ、今引用した『ヒストリエ』の出典は『インド誌』になると思う。

 

ただ、最後に描かれている、フィリッポス暗殺を試みたパウサニアスについては、『インド誌』だと時系列的にもう死んでいるので記載がない。

 

けれども、パウサニアスがオレスティス出身だという話はディオドロスの『歴史叢書』にある。

 

「オレスティス地方出身の家系のパウサニアスなるマケドニア人がいた。彼は王の側近護衛官であり、その美しさのために彼の寵愛を受けていた。王がもう一人の同名のパウサニアスなる者に夢中になっていることを知ると、彼は口汚い言葉を吐いて彼〔後に出た方のパウサニアス〕をおとこおんな、手が早く誰であれ望む者の性愛を受ける奴だと非難した。パウサニアスはその嘲弄に耐えることができず、他の人たちはしばらく沈黙を保っていたものの、友人の一人アッタロスに自分がやろうとしていることを打ち明けた後に自分から、そして見せ物のように死を招くことになった。この数日後にフィリッポスはイリュリア人の王プレウリアスと戦い、パウサニアスは彼の前に飛び出して王に向けられた攻撃で体中に傷を受けて死んだ。(ディオドロス 『歴史叢書』 16巻 (参考)」

 

多分、パウサニアスがオレスティス出身だと言及しているのは『歴史叢書』だけなのではないかと思う。

 

『地中海世界史』にはパウサニアスはマケドニア貴族の若者としか言及されていない。

 

「マケドニア貴族の若者、パウサニアスが、誰にも怪しまれずに隘路に先回りして待ち伏せ、通りかかったフィリッポスを(後略)(ポンエイウス・トグロス『地中海世界史』合阪学訳 西洋古典叢書 1998年 p.164)」

 

岩明先生がディオドロスの『歴史叢書』を読んでいるかは定かではないけれど、確実に『歴史叢書』由来の情報は『ヒストリエ』に用いられていて、直接的にせよ間接的にせよ、『ヒストリエ』の材料として『歴史叢書』は存在している。

 

まぁ『王妃オリュンピアス』という概説書というか新書に、割とガッツリ目に『歴史叢書』からの引用があったのは確認していて、そういう風に解説書の類で『歴史叢書』の情報を岩明先生が得ているという可能性があって、そういうルートから岩明先生はパウサニアスの出身がオレスティスだという情報が入ったのかなと僕は思う。

 

ちなみに、その『王妃オリュンピアス』にはマケドニア王家と貴族たちの安泰とは言えない関係性についての話もされていて、もしかしたら『ヒストリエ』11巻および、12巻収録のオレスティスの人々のマケドニア王家への反感の話は『王妃オリュンピアス』とかそういった解説書の類に由来を持っているのかもしれない。

 

チラチラ記述を拾い読むような形でしか確かめてないからよう知らんけど。

 

純粋に…『ヒストリエ』の事は好きでも、古代ギリシアに関心がないんだよなぁ…。

 

加えて、岩波文庫の『アレクサンドロス大王東征記』のまえがきには、そのようにマケドニア譜代ではない将軍たちの王国への忠誠についての話が確かあって、そのような所から『ヒストリエ』11巻の描写があるのかなと僕は思う。

 

(11巻pp.114-116)

 

このような豪族たちの内心不穏な心境については、『アレクサンドロス大王東征記』のまえがきに言及がある。

 

「 しかし豪族代代に蓄積された多種多様な既得権に関して、その縮小ないし廃止をともなった「近代化」改革の強行は、ピリッポスの実力威信や、生活安定の具体的な基礎を約束された民衆の支持を以てしてなお、その推進と実現は容易ではなかった、この国家改造の進行過程でほぼその大勢が決したのちも、これに不満をいだき、陰に陽に抵抗妨害をつづける反対派の残存は、特権を失った地方豪族のなかにもたぶん避けがたいところだったろう。謎につつまれたピリッポス二世の暗殺の背景(本文三六頁、第一巻註(三)参照)にまた、アレクサンドロスの王位継承をめぐる暗闘(本文 三六頁、第一巻註(三)参照)や、東征の陣中にまで尾を引いた王位簒奪陰謀の背景(本文 八五頁、一〇五頁、第一巻註(一〇五、一三一)参照)などに、彼ら改革不満派貴族の策動を推測してみることは、あながちに奇矯無稽の論ではないであろう。ともあれマケド二ア王国の国民的統合を目ざしたピリッポス二世の国家改造努力は、その結果として 「王の軍隊」――民衆をも取りこんだ国民軍をつくりだすことになった。ピリッポスがアレクサンドロスに遺した、それはおそらく最大の遺産であった。(フラウィオス・アッリアノス『アレクサンドロス東征記 付インド誌 上』 大牟田章訳 岩波文庫 2001年 pp.12-13)」

 

 

岩明先生はなんというかこの記述は読んでいて、それ故に『ヒストリエ』の先の描写があるのではないかと思う。

 

元々、『アレクサンドロス大王東征記』は東海大学古典叢書で全訳が出版されたのだけれど、これは定価が19800円で、後に同じ内容で索引を一部省略したものが岩波文庫で上下巻で1900円で出版されている。

 

流石に買ったのは後者だろうし、岩波文庫版の発売は『ヒストリエ』の連載開始前だし、この本には『ヒストリエ』に出てくるエウリュディケがクレオパトラではなくエウリュディケという名前で言及されていて、『ヒストリエ』のエウリュディケの呼称はこの本に由来しているという話で良いと思う。

 

「 ハルパロスがアレクサンドロスに忠実だからという理由で最初に追放されたのは、 ピリッポス二世がまだ王位にあった時分のことだが、そのときはラゴスの子プトレマイオス、アンドロティモスの子ネアルコス、ラリコスの子エリギュイオスと彼の兄弟のラオメドンもまた、同じ理由で追放されたのである。それというのもピリッポスがエウリュディケを妻に娶って、アレクサンドロスには実の母であるオリュンピアスを辱しめたそのとき以来、アレクサンドロスの心中には、ピリッポスにたいする猜疑の念が去らなかったからだ。(同上『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌 上』p.198 下線部引用者)」

 

僕が把握している限り、他の本で全てクレオパトラという名で呼ばれているフィリッポスが最後に娶った妻の名前が、この場面ではエウリュディケになっていて、やはりその辺りはこの本が由来だろうと僕は考えていて、何故そうとしたかと言えば、クレオパトラという呼称だと、ぜっったいに、読者が何か勘違いをすると予見できたからだと思う。

 

僕にしてももし、彼女がクレオパトラとして出てきていたら、ローマ皇帝カエサルの妻であるクレオパトラと一瞬勘違いしたと思う。

 

…ていうか、ライトな読者の中に『ヒストリエ』を読んでいて、普通にローマ時代の物語だと誤解している人も確認していて、それなのにクレオパトラとか名前出したら、そんなもん、勘違いするに決まっている。

 

ちなみに、先の引用の続きにはハルパロスが体が丈夫ではないという話がある。

 

「しかしピリッポスが死ぬと、アレクサンドロスのことで放逐されていた者たちはのこらず追放先から帰国し、プトレマイオスは側近護衛官に、ハルパロスは身体が戦事には向かなかったので財務官の地位に据えられ、またエリギュイオスは同盟軍の騎兵指揮官に、エリギュイオスの兄弟のラオメドンは(夷狄の文字に通じて)二か国語をあやつったので、夷狄の捕虜の担当官にと、それぞれ任命され、ネアルコスはリュキアとリュキアに隣接してタウロス山にいたる地域とを統治する太守に任命されたのであった。(同上 下線部引用者)」

 

この話は『ヒストリエ』にもあるし、『ヒストリエ』作中で彼が怪我をすることになったのはこの記述が由来だと思う。

 

(6巻p.119)

 

(6巻p.196)

 

ハルパロスは『ヒストリエ』の原作である『英雄伝』のアレクサンドロスの列伝にも言及があって、少なくともこれらの描写をしたころには、『英雄伝』で素描されるところの東方遠征以後の彼を描くつもりであって、今現在にしても可能ならば描くつもりだろうと僕は思う。

 

他には、今回は面倒だからその話はしないけれど、『ヒストリエ』の1話から登場するカリステネスについての言及がこの本にはあって、彼が差別主義者だったというか、ギリシアの伝統以外は否定する人物として記述されていて、『ヒストリエ』の1話のあのカリステネスは、この本の言及が由来らしい。

 

(1巻p.20)

 

加えて、今言及している本の下巻には『インド誌』が翻訳されていて、このテキストはネアルコスのインド海の冒険の話で、その記述の一部はこの記事の冒頭で引用している。

 

その引用文の中に、ミエザ出身のペウケスタスの記述がある。

 

「オレスティス出身者としてはアレクサンドロスの子クラテロスとオロンテスの子ペルディッカス。エオルダイア人としてはラゴスの子プトレマイオスにペイサイオスの子アリストヌウス。ピュドナ出身者としてはエピカルモスの子メトロンとシモスの子ニカルキデス。それにアンドロメネスの子でテュンパイア人のアッタロス、アレクサンドロスの子でミエザ人のペウケスタス、クラテウアスの子でアルコメナイ人のペイトン、アンティパトロスの子でアイガイ人のレオンナトス、ニコラオスの子でアロロス人のパンタ ウコスおよびゾイロスの子でベロイア人のムッレアスといった面面だ。これらはすべてマケドニア人である。

(同上 下線部引用者)」

 

ここにペウケスタスの名前があって、彼は『ヒストリエ』の原作である『英雄伝』で、エウメネスの同僚として同じ陣営で戦っていて、『ヒストリエ』は予定表的に彼の活躍が描かれるはずにはなっている。

 

結局、ミエザの学園でアレクサンドロスが思春期を過ごしたのは歴史的事実で、偶然、後々『ヒストリエ』でエウメネスと共闘する関係上描く予定に居るペウケスタスがミエザ出身と分かったから、彼はここで登場させようということを思いついて、彼は原作の『英雄伝』だと権力に溺れた無能な将軍だから、より権力に負けそうな人物として描くために、彼は庶民出身であるという話を思いついて、ミエザの庶民だった彼が、アレクサンドロスに見出されたという話になったのだろうと僕は思う。

 

加えて、この本のまえがきには、当時は庶民であってもヘタイロイになれたという言及もあって、そのような話が『ヒストリエ』の物語に採用されているのかなと思う。

 

「 その一方でピリッポスはまた、久しく騎士貴族だけの特権とされてきた「ヘタイロイ(王の仲間)」という、一種の名誉称号を、重装歩兵として活躍する農牧の市民たちにも広く開放することにした。「ヘタイロイ」の誉れを拡張適応した先例はおそらく、アルケラオス王の着想にさかのぼるものだが、ピリッポスがその先例を、初めて組織的に、徴募錬成に全壮丁に頒(わか)ったことの意味は、小さくない。「歩兵ヘタイロイ(ペゼタイロイ)」の名は、「(これを得た壮丁の)一人ひとりを直接、王の仲間という名誉ある資格にあずからせる」(アナクシメネス断片四(ヤコビ編『ギリシア史家断片集』ⅠA七十二番)ことで民衆心理にも、王というものの存在を従来以上に身近な、親近感のある「民衆王」として意識させるのに大きく役立ったからである。(同上『アレクサンドロス大王東征記 付インド誌 上』 pp.10-11)」

 

ここに農牧の市民にもヘタイロイへの門戸が開かれたと言及があって、『ヒストリエ』でもペウケスタスは農牧の民であったところを考えるに、これらの記述が『ヒストリエ』影響を与えているのかなと思ったり思わなかったりする。

 

(6巻p.131)

 

この本に関しても、僕のギリシアへの関心の絶望的な欠如から、上巻の前書きにプラスして本文を20ページくらいしか読んでないからこれ以上のことは分からない。

 

どうでも良いけれど、先にミエザ人のペウケスタス云々という話を引用していて思ったことがあって、『ヒストリエ』でアレクサンドロスの事を神なんかじゃないって言っていた、ペウケスタスのお父さんの名前はアレクサンドロスなんですね…。

 

「それにアンドロメネスの子でテュンパイア人のアッタロス、アレクサンドロスの子でミエザ人のペウケスタス、クラテウアスの子でアルコメナイ人のペイトン、アンティパトロスの子でアイガイ人のレオンナトス、ニコラオスの子でアロロス人のパンタ ウコスおよびゾイロスの子でベロイア人のムッレアスといった面面だ。これらはすべてマケドニア人である。(同上)」

 

(7巻p.115)

 

彼もまたアレクサンドロスなのだから、思うところがあるのかもしれない。

 

…自分で「彼もまたアレクサンドロス」とか書いたけど、その事で一つヘファイスティオンについてで思い出したことがあった。

 

『ヒストリエ』ではヘファイスティオンという人物がアレクサンドロスのもう一つの人格として登場している。

 

その事について、ペルシア人が彼とアレクサンドロスを間違えたに際して、アレクがヘファイスティオンの事を「彼もアレクサンドロスだ」と言ったという逸話があって、そこからもう一つの人格という設定になったのだろうという話は以前したような気がする。

 

その話なんだけれども、どうやらあれは『歴史叢書』の記述が由来らしい。

 

『歴史叢書』には以下の記述がある。

 

「初めてダレイオス[三世]の母と会見した時、彼女が何も知らずにヘファイスティオンを王だと思って彼の前に跪いたが、誤りに気づいて取り乱した。その時王はこう言った。「ご心配には及びません、母上。彼もまたアレクサンドロスなのですから」。(参考)」

 

まぁこの話は、国王の母である高貴な人が誤りをした時に、恥をかかせないために適当にフォローしただけなんだろうけれど。

 

この記述からヘファイスティオンはアレクの別人格になっただろうし、続く文章ではヘファイスティオンがオリュンピアスと不仲だったという話が続いていて、『ヒストリエ』でもヘファイスティオンはオリュンピアスを尊敬していなくて、あの辺りは『歴史叢書』が由来らしい。

 

「オリュンピアスが嫉妬心からヘファイスティオンと仲違いし、手紙で彼を厳しく非難して脅した時、彼は彼女にあれこれと厳しい調子で返事を書き、手紙の最後を次のように結んだ。「私たちを非難するのはおやめ下さい。そして怒ったり脅したりしないで下さい。もしお続けになるとしても、私たちは大して気にしないでしょう。アレクサンドロスが誰よりも強いことを、あなたもご存じなのですから」。(同上)」

 

(5巻p.138)

 

(6巻p.209)

 

岩明先生がその『歴史叢書』を読んでいるかどうかは未だに不明瞭ではあるけれど、『歴史叢書』の記述が種々の解説書に用いられている場合はあるようで、岩明先生はそういう本を読んでいると既に分かっているのであって、そうとするとまぁ、あれらの描写大元は、『歴史叢書』という話になると思う。

 

といったところで文字量が十分なほどに溜まったので今回はこれくらいにする。

 

…おかしい。

 

本来的にこの記事は冒頭で軽くデモニコスの話をした後に、メディアのハルパゴスの話に移って、それから4巻のエウメネスの計略の元ネタの話に移行するつもりだったのに、それら一切をせずに記事が完結してしまった。

 

まぁどうせ、『ヒストリエ』12巻が発売されるまでは猶予期間と言うか、前々から言及している通り、このサイトのアクセス数が多く見込めるのは12巻に登場するアルケノルを見て、「なんだお前(素)」と思った人が「アルケノル」でググる時だろうので、それまでは…うん。

 

気が向いた時にエウメネスの計略の半分くらいの元ネタであろう、ペルシア人貴族ゾピュロスの逸話と『ヒストリエ』の関係性の話は書くとして、それまでは僕の心の中にとどめておきましょうね

 

そんな感じです。

 

では。

 

・追記

 

話の流れ的に追記できる場所がなかったから、最後に追記するけれど、この記事でオレスティス出身の人々の話をしていて、その中でレオンナトスについても名前が出てきている。

 

「オレスティス出身者としてはアレクサンドロスの子とオロンテスの子ペルディッカス。エオルダイア人としてはラゴスの子プトレマイオスにペイサイオスの子アリストヌウス。ピュドナ出身者としてはエピカルモスの子メトロンとシモスの子ニカルキデス。それにアンドロメネスの子でテュンパイア人のアッタロス、アレクサンドロスの子でミエザ人のペウケスタス、クラテウアスの子でアルコメナイ人のペイトン、アンティパトロスの子でアイガイ人のレオンナトス、ニコラオスの子でアロロス人のパンタウコスおよびゾイロスの子でベロイア人のムッレアスといった面面だ。これらはすべてマケドニア人である。

(同上 下線部引用者)」

 

ただ、よくよく見て見ると、レオンナトス父親の名前がアンティパトロスになっている。

 

一方で『ヒストリエ』だとアンテアスになっていて、先の記述と差異がある。

 

(11巻p.56)

 

このことについて僕はあれやこれやどうしてこうなっているのかを考えて、色々検討して色々調べたりしたのだけれど、最終的に、どうやら、ここで言及のあるレオンナトスは同名の別人の話であるらしいということが分かった。

 

先の『インド誌』にはアイガイ人とあって、一方で『ヒストリエ』ではオレスティス出身とあって、この差異についてで僕は非常に煩悶する羽目を見ている。

 

その煩悶の中でレオンナトスについて少し調べたということがあって、その時に、彼をオレスティス出身者とする論文が見つかったりしていた。

 

どういうことなの…と思って色々考えたけれど、結論としては、どうやらこのレオンナトスと『ヒストリエ』に出てくるレオンナトスは別人であるらしい。

 

色々考えてもしかして同名の別人なのではと思った時に、岩波文庫の『アレクサンドロス大王東征記』の縮小化された索引に、レオンナトスの名前があったような気がして、索引を確かめたら果たして、アレクサンドロスの部下で勇名を馳せたレオンナトスと、先に川下りの際に名前が見られるレオンナトスが別々の人物として記載されていた。

 

『ヒストリエ』に出てくるレオンナトスについてはどうやら、先の『アレクサンドロスの大王東征記』について、エウヌウスという人物が書いた注釈書に詳しい言及があるそうで、そこにアンテアスの子という話がされているのかもしれない。

 

先に言及したように、『アレクサンドロスの大王東征記』は19800円で元々出版されていて、その出版に際しては付属としてこの本の注釈書も翻訳されている。

 

その注釈書に、レオンナトスについての話があるらしい。

 

現状、ネット上には件の注釈書も日本の古本屋のサイトに本文の翻訳と注釈書の翻訳がセットで18500円で売りに出されているけれど、こんなん買うわけがないのであって、確かめるとしたら図書館だけれど、結局、解説書にそのような情報について書かれているものが存在している可能性もあって、殊この場面に関しては、クソ真面目に原典当たっても、岩明先生がこれを読んでいるという結論には至れないからもうどうしようもないんだよなぁ…。

 

今回の作業中に彼がオレスティス出身だと書かれた論文に出会っているし、解説書の中でアンテアスの子で、ペルディッカスの縁戚であると言及のある本が一つでもあったら、岩明先生がそのクソ高い注釈書を読んだという話には出来なくなるし、無数にある古代ギリシア関係の本を確かめて、アンテアスの子レオンナトスの記述を見つけ出すことは僕の能力を越えている。

 

ともかく、レオンナトスに関しては、『インド誌』ではなくて、他の本由来ということは確かだと分かったので、追記でそこについて書いておきます。

 

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