『ヒストリエ』のヒエロニュモスについて | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

この記事のコンセプトについてまず初めに言及すると、当然、『ヒストリエ』に出てくるヒエロニュモスについてあれこれ言うのはそうなんだけど、ネット上にカルディアのヒエロニュモスについてまとめた論文があって、僕はそれを読んではぇ^~と思ったので、今回はその論文に言及のある、歴史上の人物であるヒエロニュモスについて一つの記事でまとめることにした。

 

もっとも、岩明先生が歴史上の人物としてのカルディアのヒエロニュモスについて詳しいということはおそらくなくて、岩明先生はプルタルコスの『英雄伝』に一か所だけ言及されているヒエロニュモスについての言及だけを元にして、『ヒストリエ』のあの冴えない青年を描いているだろうという推論はある。

 

具体的にはこの記述です。

 

「 さうして攻囲が長引いているうちに、やがてアンティゴノスはアンティパトロスがマケドニアで死去し、カッサンドロス(アンティパトロスの息子)とポリュスペルコーン(アレクサンドロス大王の将軍の中で最年長の人)との不和から(中略)、事態が混乱してきたと聞くと、小さな望を棄てて支配権を全て握ろうと企て、その計画のためにエウメーネスを味方にしようと考えた。そこでヒエローニュモス(エウメネースと同国のカルディアー人。前三百二十三年アレクサンドロスの死から前二百七十二年ピュルロスの死までの歴史を書いているが、今残っていない)をエウメネースのところへ使に出して、休戦の交渉をさせたが、その時出した誓の文句をエウメネースは訂正して、自分を攻撃しているマケドニアの人々にどちらの誓の方が正しいかを判断するように提議した。」(河野与一訳『プルターク英雄伝 8』 岩波文庫 1955年 p.56 旧字体は新字体に変更)」

 

 

ここに言及のあるヒエロニュモスが『ヒストリエ』のヒエロニュモスの元ネタであって、それ以上のことを岩明先生は知っているということはないと思う。

 

(岩明均『ヒストリエ』2巻p.30 以下は簡略な表記とする)

 

以前言及した通り、岩波文庫の『プルターク英雄伝』の注釈ではヒエロニュモスの著書が今残っていないという話があって、『ヒストリエ』でもその話はあるし、諸々の検証によって岩明先生はこの本を読んでいるということは分かっている。

 

…というか、岩明先生が『ヒストリエ』の前に描いてた『ヘウレーカ』の最後の参考文献一覧の一番上に岩波文庫の『プルターク英雄伝』が挙げられてたんだよな。

 

それを早くに知れていたら、戦後から『ヒストリエ』執筆より前の期間に日本に存在していて、日本語で読めるエウメネスに関する文献を全て検証するという割と地獄じみた作業はしなくて良かったのになぁと思う。

 

ともかく、『ヒストリエ』のヒエロニュモスに関しては、後々、アンティゴノスの使者として再登場する予定であって、その場面のためにエウメネスの兄として設定されているという理解で良いと思う。

 

ただ、岩明先生はヒエロニュモスについてはそれ以上の事は知らないと思う。

 

なんというか、カルディアのヒエロニュモスについてまとめた論文を読む限り、歴史上の人物であるカルディアのヒエロニュモスは割かし有能な人物で、コーエー基準で考えると政治とか70とか80とか越えてそうな感じの政治家にして著述家になる。(信長の野望脳)

 

だというのに、あのような才覚のない人物としてヒエロニュモスは描かれていて、そうだというのなら、岩明先生は歴史上の人物であるカルディアのヒエロニュモスのことに詳しくないのだろうという推論がある。

 

ちなみに、『ヒストリエ』だとエウメネスとヒエロニュモスは義兄弟で、それはエウメネスの父親がヒエロニュモスという人物だからということが理由になる。

 

その話はアッリアノスの『インド誌』に言及があって、岩明先生はこの本をほぼ間違いなく読んでいて、その記述から色々考えた結果、エウメネスはヒエロニュモス家に拾われることになったのではないかと思う。

 

「 ヒュダスペス川の岸辺に〔川下りの〕船団の準備が完了するとアレクサンドロスは、これまでの内陸遠征に従軍してきたポイニキア人、キュプロス人、エジプト人をのこらず選び出した上、彼らの中から海事に明るい者を選抜し、その者たちを水夫や漕ぎ手として船に乗り込ませた。軍中にはまたこれも、海事にも馴れた島育ちの男どもも少なからず居たし、それにイオニア人やヘッレスポントス出身の者たちもいたのである。すなわち…(中略)。アンピポリスの出身者としては…(中略)。オレスティスの出身者としては…(中略)。エオルダイア人としては…(中略)。ギリシア人のうちからはオクシュテミスの子でラリサ人のメディオス、ヒエロニュモスの子でカルディア出身のエウメネス、プラトンの子でコス人のクリトブロス、それにマンドロドロスの子トアスとマンドロゲネスの子マイアンドロス…(中略)。キュプロス人のうちからは…(中略)。そればかりか三段橈船艤装奉仕の担当者のなかにはペルシア人もいたのであった。(フラウィオス・アッリアノス『アレクサンドロス東征記およびインド誌 本文編』 大牟田章訳 1996年 p.977 下線は引用者)

 

 

ここにエウメネスがヒエロニュモスという人物の子であるという言及がある。

 

おそらく、今現存している史料の中でエウメネスの父親の名前がこのテキスト以外に存在していないので、岩明先生はこの文章から『ヒストリエ』のエウメネスの父親を描いていて、偶然、エウメネスの父親の名前と、エウメネスに降伏を呼びかけるためにアンティゴノスが送った使者の名前が一緒だったということがあって、そこから色々考えて、カルディアのヒエロニュモスはエウメネスの義兄弟という設定になったのだろうと思う。

 

結局、エウメネスとヒエロニュモスの関係性を考えるにあたって、『英雄伝』で言及されるところのカルディアのヒエロニュモスは、エウメネスの知略に良いようにされていて、もし、カルディア時代の友人だというのなら、そのような愚鈍な人物を聡明なエウメネスが友人としているのは少し変だし、優れていないけれど関係性が深くても問題がない間柄となると、義理の兄弟というのが色々矛盾なく処理が出来て、偶然エウメネスの父親と名前が同じだったから、その二人には血縁関係があるという話にしようとして、エウメネスがスキタイという設定になったのだから、ヒエロニュモスはエウメネスの義兄弟という関係性に落ち着いたのかなと僕は思う。

 

実際のところは分からないけれど、まぁそんな所なのではないかなと思う。

 

さて。

 

ここまでで『ヒストリエ』作中のヒエロニュモスの話が終わった。

 

なので、歴史上のカルディアのヒエロニュモスの話をして行くことにする。

 

彼については田中穂積氏の書いた論文である、「ヘレニズム概念と古代の歴史家(二)―カルディアのヒエロニュモス―」に言及がある。

 

この論文はググればネット上にPDFがあって、無料で読むことができる。

 

実際僕は読んでいて、読んだからヒエロニュモスの話を記事にまとめようと思って僕は今この文章を書いている。

 

なので、以下の内容は先の論文の中で、僕が気になった内容をピックアップするだけなので、詳しく知りたい方はその論文を読んだ方が色々早いです。

 

そもそもその「ヘレニズム概念と古代の歴史家(二)―カルディアのヒエロニュモス―」って論文、13ページしかないしな。

 

彼はエウメネスと当初行動を共にしていて、エウメネスの死後はアンティゴノスの配下として行動している。

 

このアンティゴノスという人物は、歴史上だとエウメネスと敵対関係にあった将軍になる。

 

アンティゴノスって名前は『ヒストリエ』でもフィリッポスが偽名として使ってたよね。

 

そのアンティゴノスは『ヒストリエ』ではフィリッポスが転身すると12巻掲載分の『ヒストリエ』の描写から分かっていて、これ書いている現在の最新話ではフィリッポス二世=ディアドコイのアンティゴノスというのが確定路線になっている。

 

だから、『ヒストリエ』の物語では、ヒエロニュモスはエウメネスの死後はあのフィリッポスの部下になる。

 

そして、ヒエロニュモスはそのアンティゴノスの息子であるデメトリオス、その更に息子のアンティゴノス二世の時代まで生きていて、104歳まで健在であったらしい。

 

その話は論文によると「T 2 [Lukian.] Macrob. 22)」というテキストに書いてあるらしいのだけれど、僕が古代ギリシアのテキストの略号についての知識がなくて、この略号が何を意味しているのかは分からない。

 

ただ、何らかの著述家が書いた本の話である様子があって、断片集とかの中にヒエロニュモスの話があるということだとは思う。

 

・追記

色々頭をひねって、[Lukian.]と書かれているから、ルキアノスという人物の著書なのではないかという当たりをつけて、ルキアノスの英語版ウィキペディアのページで、「Macrob」でページ内検索をかけたら、果たして、彼の著書の中に『Macrobii』というそれがあるということが分かって、その本にヒエロニュモスが104歳まで生きたという話が書いてあるということが分かった。

 

…まぁだから何だという話ではあるけれど。

 

追記以上。

 

『ヒストリエ』ではエウメネスと義理の兄弟であるヒエロニュモスではあるけれど、先の論文を書いた田中は、古代ギリシアでは孫が祖父の名前を受け継ぐ習慣があるから、エウメネスの父親であるヒエロニュモスの孫がカルディアのヒエロニュモスであるという推論をしていて、エウメネスとヒエロニュモス叔父と甥の関係で、エウメネスに従ったのは彼から見たらエウメネスが年長の親戚だったからなのではないかと言及している。

 

まぁそんなことはただの推論で、どれ程信憑性があるかは定かではないし、『ヒストリエ』に出てくる臆病者で、戦場から逃げ出したデモステネスの父親はデモステネスという名前なので、参考程度の話だと思う。

 

「 ところで、戦が終わると喜びのあまりフィリッポスは直ぐに傲慢になって、酔ったまま死体の上で乱舞し、デーモステネースの決議案の最初の文句を韻に合わせて口誦さんだ。『パイアーニアーのデーモステネースの子デーモステネースは提議する。』(プルタルコス『プルターク英雄伝 10巻』河野与一訳 岩波書店 1956年 p.145)」

 

結局、ヒエロニュモスの著作は現存していないし、分かっていることも多くなくて、この論文はかなり推論で話が進んでいる部分がある。

 

田中は先の叔父と甥の関係を正しいものと仮定して、そうであるならば、おそらくエウメネスより若干後に生まれた人物で、エウメネスの部下としてアレクサンドロスの遠征に参加したのではないかと言及している。

 

ただ、記録として残っているヒエロニュモスの説話はディアドコイ戦争以後のようで、ヒエロニュモスに関しては先の『英雄伝』に言及があるのはそうなのだけれど、『歴史叢書』にも言及がある。

 

というか、論文のその話を読んでたら出典となっているテキストが『歴史叢書』だと分かったので、実際に日本語訳の該当の箇所を持ってきましょうね。

 

42 その後エウメネスはアンティパトロスへと降伏の条件を話し合うための使者を送った。その主席は後継者たちの歴史を書いたヒエロニュモスであった。人生における状況の多くの、そして様々な変化を経験していたエウメネスその人は運命はどちらの方向にも突然変わるということをよく知っていたために落ち込んではいなかった。彼は一方でマケドニア人たちの王への忠誠は中身がない見せかけのものであり、その一方で大きな野心を持っていた多くの者は将軍の地位にあり、その各々は自らの利害で行動しようとしていたことを見て取っていたのだ。したがって、彼は戦争での自らの判断力と経験、さらに誓約への並外れた誠実さために多くの人が彼を必要とするということが本当に起こることを望んでいた。(『歴史叢書』 18巻 下線部引用者 (参考))」

 

これはディアドコイ戦争中の話の様子があるけれど、僕は『歴史叢書』を読んでいないので、どういう流れかは分からない。

 

ただ、記述を見るにエウメネスの配下としてディアドコイ戦争中に活動していた様子がある。

 

更に時系列的にもう少し後に、ヒエロニュモスはもう一度言及されている。

 

50 アジアでは、アンティパトロスの死が広く知れ渡るとすぐに各々有力者たちは己が目的のために動こうとしたために変革の機運が起こった。そのことを予測していたアンティゴノスはすでにカッパドキアでエウメネスに勝利して彼の軍を引き継いでおり、またピシディアでアルケタスとアッタロスを完全に打ち破って彼らの兵士をも軍門に加えていた。さらに彼はアンティパトロスによってアジアの最高司令官に選ばれ、同時に大軍の将軍となってもいたために自尊心が強くなって高慢になってもいた。すでに覇権への野望を抱いていたために彼は王たちからもその後見人からも一切の命令を受けまいと決めた。彼は良質の軍を持っており、誰も彼に太刀打ちできないために全アジアの富を手にすることは当然のことだと思った。というのもその時の彼は六〇〇〇〇人の歩兵、一〇〇〇〇騎の騎兵、三〇頭の戦象を有していたからだ。アジアは彼が集めるであろう傭兵のための無尽蔵の報酬を提供できたため、さらにそれに加えて彼はもし必要とあらば既に他の軍の動員をも期待できる状況にいた。それらの計画を胸に抱きつつ彼はノラと呼ばれた砦に非難していたカルディアのエウメネスの友人で同胞の市民であった歴史家ヒエロニュモスを召還した。莫大な贈り物でヒエロニュモスを手なずけた後に彼はカッパドキアでアンティゴノスに対して戦われていた戦いをやめ、彼の友人、同盟者となり、エウメネスが以前に持っていたものの何倍もの価値の贈り物と強大な州を受け取り、概してアンティゴノスの第一の友人、全ての試みにおける盟友となるようエウメネスを説得するたべくヒエロニュモスを使節としてエウメネスのところへと送った。また、アンティゴノスはすぐに友人たちを会議に招集して覇権を獲得するための計画を知らせ、州を最も重要な友人たちに、他の者には軍の指揮権を割り当てた。そして大きな期待をその全員に持たせて覇業への情熱で彼らを満たした。現に彼はアジアを制覇し、現存する太守たちを排除して彼の友人たちのために指揮権の再配置をする腹づもりであった。(同上 18巻)」

 

僕が下線をつけたヒエロニュモスの話の直前にある非難という言葉はおそらく、避難の変換ミスだろうけれど、この翻訳に於いて誤字は本当に少なくて、あれだけ長文を翻訳してて、ほぼ誤字がないのは驚嘆と賛嘆に値すると本気で思う。

 

校閲の人がチェックしている市販の本の方が誤字が多いまである。

 

僕とか誤字が多すぎて色々なぁ…。

 

話を戻すと、ヒエロニュモスはノラに立て籠もるエウメネスのところへと使者として出たという話になっていて、そのノラに立て籠もるエウメネスの話は『英雄伝』にもあって…ていうか、この記事の冒頭で引用した場面でエウメネスが立て籠もってるのがノラですね。

 

「 さうして攻囲が長引いているうちに、やがてアンティゴノスはアンティパトロスがマケドニアで死去し、カッサンドロス(アンティパトロスの息子)とポリュスペルコーン(アレクサンドロス大王の将軍の中で最年長の人)との不和から(中略)、事態が混乱してきたと聞くと、小さな望を棄てて支配権を全て握ろうと企て、その計画のためにエウメーネスを味方にしようと考えた。そこでヒエローニュモス(エウメネースと同国のカルディアー人。前三百二十三年アレクサンドロスの死から前二百七十二年ピュルロスの死までの歴史を書いているが、今残っていない)をエウメネースのところへ使に出して、休戦の交渉をさせたが、その時出した誓の文句をエウメネースは訂正して、自分を攻撃しているマケドニアの人々にどちらの誓の方が正しいかを判断するように提議した。」(同上)」

 

マケドニアの事実上の支配者であったアンティパトロスが死んで、大王の遺領の完全掌握がワンチャン行けそうだと思ったアンティゴノスは、エウメネスという戦上手の人物を包囲し続けて時間を浪費するよりも、エウメネスを懐柔して配下にすることによって、ディアドコイ戦争に勝利しようと方向転換したという話になる。

 

それに際して送った使者がヒエロニュモスで、『英雄伝』だとヒエロニュモスが何でそこにいるのかは言及がない一方で、『歴史叢書』の記述だと莫大な贈り物で手なずけられた結果として、使者となったらしい。

 

けれども、その前の段階だとエウメネスの麾下にあって、いつの間にかエウメネスの元から離れている。

 

その事に関してはおそらく、ノラに立て籠もる前にエウメネスは敗走していて、その敗走中に逃走兵を許していて、そのように兵士が減っていく中でヒエロニュモスもエウメネスの軍隊から離れたという流れだと思う。

 

その話は『英雄伝』にある。

 

「 それからエウメネースは放浪しながら逃走を続けるうちに、兵士の大多数を承服の上去らせたのは、それらの兵士の身を案じたためか、それとも戦闘には足りないが敵の目を逃れるのには多すぎるものを引っ張って歩きたくなかったためであらう。(同上『英雄伝』 10巻 p.54)」

 

この文章はノラの要塞に立て籠もる少し前の話で、兵を減らしながら行軍して、少ない兵でノラに立て籠もったと書かれている。

 

『歴史叢書』だとヒエロニュモスはノラに立て籠もる前にはエウメネスの配下に居たということを考えると、おそらく、この時にカルディアのヒエロニュモスはエウメネスの元を離れていて、その後にアンティゴノスに見つかって、金で屈服させられた上に、使者に仕立て上げられたという話らしい。

 

まぁ殺されないだけマシだとは思う。

 

結局、アンティゴノスから見ても莫大な贈り物を支払う価値がある人物としてヒエロニュモスはあったようで、『ヒストリエ』のような"無能な"男性にそんなことはしないので、岩明先生は『ヒストリエ』のヒエロニュモスを描いた段階だと、『歴史叢書』のヒエロニュモスの話は知らなかったのではないかと思う。

 

知っていたらもう少し有能な人物として描くと思う。

 

ただ、『ヒストリエ』だと無能なのは、『英雄伝』基準で色々書いているからで、『英雄伝』だとヒエロニュモスはカルディアからわざわざやって来て、降伏の交渉のための使者としてヒエロニュモスはエウメネスの元に現われたというのに、何の成果も出せずに煙に巻かれて終わりなのであって、やはり、原作が『英雄伝』だからヒエロニュモスは無能という理解で良いのではないかと思う。

 

けれども、『歴史叢書』の記述ではヒエロニュモスという人物はそんな感じではないようで、その後にヒエロニュモスはエウメネス陣営に戻って、アンティゴノスとの戦いに際して負傷をしたと言及がある。

 

おそらくは戦場でエウメネスと一緒に戦っていて、それに際して負傷をしたという話であって、交渉の主席として任命されたり、アンティゴノスが大金を払ったり、戦場に出てきたりとかなり有能な人物であった様子がある。

 

その負傷の話は『ヒストリエ』のよろしくないネタバレがあるので、引用はしないけれども、ヒエロニュモスは負傷をしてアンティゴノスに捕虜として捕らえられたらしい。

 

その部分は日本語訳だと「(アンティゴノスがエウメネスと戦った結果として発生した)負傷者のうち捕虜であり、今まで常日頃エウメネスによって敬意を表されていたカルディアの歴史家ヒエロニュモス(同上 18巻 冒頭()は引用者補足)」とあって、けれども底本になった英文を確かめたら、「Among the wounded there was also brought in as a captive the historian Hieronymus of Cardia(参考)」となっていて、「負傷兵の中には同じように捕虜として連行されていた歴史家であるカルディアのヒエロニュモスが居た」とも取れる文章にはなっていて、怪我をしたわけではなくて、負傷兵と同じように捕虜として連れられていたという話で、ノラの後もずっと捕虜としてアンティゴノスの陣営に居たとも判断できる。

 

ただ、莫大な贈り物をして手なずけたヒエロニュモスが捕虜として負傷兵と一緒くたに扱われているのは変な話ではあるので、もしかしたらエウメネス陣営にまた戻って戦って、捕虜になったという流れかもしれない。

 

その辺りはギリシア語の原文を確かめなきゃはっきりしないし、僕にその能力はないからどうしようもない。

 

流れとしてはアンティゴノス陣営にずっといて、降服者として随っていたという話の方が分かりやすくはあるけれども。

 

そしてその後はアンティゴノスの配下として活動したようで、後にアスファルト採掘の責任者として派遣されている。

 

100 アンティゴノスは、デメトリオスが戻ってきて彼がしたことの詳細な報告をしてくるとナバテア人はデメトリオスの寛仁のためにではなく彼らをデメトリオスが倒すことができなかったために容赦を得たと思うだろうがために、アンティゴノスは夷狄を罰しなかったことによって彼らをずっと大胆にしたと言ってナバテア人との条約で彼を叱責した。しかしアンティゴノスは池を調査して王国の財源を明らかに見つけたことでデメトリオスを褒めた。彼は歴史を書いたヒエロニュモスをこれ〔アスファルトの採取〕の担当とし、船を準備し、全てのアスファルトを集め、そしてそれをある所に集めるよう指示した。」

 

ヒエロニュモスは歴史書も書けるし、交渉の使節の主席にもなれるし、戦場で負傷するまで戦った(かもしれない)し、論文によるとコイレー・シュレア地域の統治を委ねられていたのかもしれないとある。

 

ヒエロニュモスがその土地の統治を委ねられた話は「Joseph.c.Apion.Ⅰ,213-4」にあるそうで、調べたらフラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ古代誌』の話だと分かって、ググったら英訳のそれがあった。

 

折角なので該当の記述を翻訳しましょうね。

 

お手元に日本語訳の『ユダヤ古代誌』があったらそんなことしなくて良かったのにね…。

 

「 今、多くの著述家が私たち(ユダヤ人)の国家について、私たちを知らないからではなく、妬みやさもなければ不当な理由が故に、その言及を省いている。その事について、私は一つの例を挙げることで論証が可能であると考えている。(アレクサンドロスの)後継者たちの歴史についての本を書いたヒエロニュモスは、ヘカタイオスと同じ時代に生き、アンティゴノス王の友人であり、シリアの総督であった。ヘカタイオスが我々についての全般的な本を書いたのは明らかであるが、しかしながらヒエロニュモスは、彼の歴史書の中で私たちについて決して言及しなかった。彼は私たちの住むところの直ぐ近くで生まれ育ったのにも関わらずである。(参考、冒頭()は翻訳者の補足)」

 

 

ここで言及のあるヘカタイオスはおそらく、アブデラのヘカタイオスで、ヒエロニュモスと同じ時代を生きた歴史家らしい。

 

まぁ英語版のアブデラのヘカタイオスのWikipediaの記事に、彼がユダヤ人についての本を書いたとあるので、彼の本の話ということで良いと思う。

 

話としては、ヘカタイオスの歴史書だとユダヤ人の歴史についてしっかりとした言及を残している一方で、ヒエロニュモスは完全に無視していて、それは妬みとかが理由だろうという話で、ヘカタイオスがちゃんと書いてるんだから知られてなかったわけではなくて、不当に無視されていたという主張になると思う。

 

この記述を考えるに、ヒエロニュモスはシリア総督をやっていた時期があるらしい。

 

…英訳の『ユダヤ古代誌』の記述を読む限り、割としっかりシリアの総督をやっていたと言及されていて、けれども論文だと、「コイレー・シュレア地域の統治を委ねられていたのかもしれない」という曖昧な記述であるところを考えると、多分、あの論文を書いた田中氏は『ユダヤ古代誌』を読んでいないのだと思う。

 

ちゃんと田中が指定した一巻にさっきの翻訳の文章があったし、ページ内検索で英語でヒエロニュモスと入れたら、一巻だとあそこ以外ヒエロニュモスに関する記述はなかったんだけどなぁ。

 

まぁ彼があの論文を書いた時に、日本語訳の『ユダヤ古代誌』が存在していたかすらも定かではないけれど。

 

他には、先の論文にはヒエロニュモスが書いた歴史書についての話があって、彼は『ディアドコイ史』などの著書を残したとされている。

 

さっき翻訳した『ユダヤ古代誌』でフラウィウス・ヨセフスが言っていた「後継者についての歴史書」というのはその本の話で、彼の本は大著で、後代の歴史家のハリカルナッソスのディオニュシオスは、あんな本誰も全部は読みはしないという話を残しているらしい。

 

その話は注釈だと『compositione verborum』という本で言及されていると略号で書かれていて、その本の英訳は『The Arrangement of Words』だって英語版のWikipediaの彼のページに書かれていて、調べたら一応、日本語訳は出ているらしい。

 

 

まぁ手元にないから今参照することは出来ないけれども。

 

ただ、ネット上にこの本の英訳があったので該当の記述をまた翻訳しましょうね。(吐き気)

 

「したがって、彼らは最初から最後までを読むということに誰も耐えられないような労作を残すことになった。そう私が言うところにあるのは、Phylarchus、デューリス、ポリュビオス、プサオン、カラティスのデミトリアス、ヒエロニュモス、アンティゴノス、ヘラクレイデス、ヘゲシアナクス、その他、数えきれない多くの著作家である。(参考)」

 

Phylarchusがアルファベットのままなのは、僕が読めなくて片仮名に出来なかったからです。

 

まぁともかく、大著を残したのはそうらしくて、論文によるとプルタルコスも『英雄伝』を書くのに読んだらしいという話だし、ディオドロスも『歴史叢書』を書く際に参考にしていたらしい。

 

プルタルコスは一世紀から二世紀にかけての人で、ヒエロニュモスは紀元前四世紀から三世紀を生きた人だから、数百年は彼の本は読まれていたという話になって、更に先の『ユダヤ古代誌』のフラウィウス・ヨセフスもプルタルコスと同じくらいの時代の人だから、ローマの時代まで彼の著書は残っていたという話になる。

 

少なくともフラウィウス・ヨセフスはユダヤ人の話は決して語られることはなかったと言及している以上、ヒエロニュモスのその著書の全文を読んでいたはずで、ヨセフスの時代にもヒエロニュモスの本は現存していて、現存していたということは、彼の本は数百年も複写され続けるような本だったということは確かだろうと僕は思う。

 

外交のための使節の主席になるし、戦闘で負傷をしたかもしれないし、アスファルト採掘の責任者にも任命されるし、シリアの総督をやってたりしている傍らで著作を残していて、それは数百年も読まれ続けたそれになって、そのような人生を歩みながら少なくとも104歳まで生きたような人物が、カルディアのヒエロニュモスになる。

 

どう考えたって『ヒストリエ』で描かれるような無能な人物ではないのだけれども、岩明先生がヒエロニュモスの詳しい話を知らなかったのは仕方ないというか、僕としても偶然論文を見つけることが出来て、それを読んだ結果として彼が有能な人物だと初めて分かったし、『ヒストリエ』を執筆し始めた当初は、あの論文は一般人が読める形で存在していなかっただろうので、色々と仕方がない部分があると思う。

 

まぁそもそも『ヒストリエ』とか、カルディアのエウメネスがスキタイ人だし、ヘファイスティオンはアレクのもう一つの人格だし、アンティゴノスはフィリッポスだったりする漫画なので、史実性はそれほど重要な漫画ではない。

 

ただ、所々で面白くするための変更はある一方で、作者の古代ギリシアに関する関心が異常だから、普通そこまでやらないというレベルで資料を読んでいて、それが故に色々歴史書を読んでいると、『ヒストリエ』の描写の出典に見当がつくだけで、その資料の中にヒエロニュモスについて詳しく書かれたそれがなかったのだろうということになる。

 

だからそんなことを言っても仕方ないと思うし、そもそも仕方ないというか、『ヒストリエ』のあれで良いでしょ…ヒエロニュモスは。

 

『ヒストリエ』のヒエロニュモスに関しては、この記事で言及したそれである必要性がないというか、面白い漫画を描くために、この記事で言及した内容が必要かと言えば、一切必要がないと思う。

 

ただそれはそれとして、史実のカルディアのヒエロニュモスはああいう人物だったらしいからこの記事ではまとめただけになる。

 

ちなみに、この記事は書き始める前の段階だと五千字くらいを目安とした軽いそれを想定していて、けれども、この時点で一万一千字を越えている。

 

つらい。

 

更に『インド誌』でエウメネスの父親についての記述について色々言ったところで、話の流れで『ヒストリエ』に言及のあったオレスティス出身の人々の話もしていて、ただ、その話はヒエロニュモスとは関係性がなかったから、書き終わった後の点検でその部分は複製だけしてこの記事では削除していて、本来的にこの記事が書き終わった時点だと一万三千字以上あった。

 

とてもつらい。

 

特に翻訳するところがとてもつらかった。

 

実際、この記事は『歴史叢書』の引用で他のサイトからコピペするだけのところや、過去に引用した文章の再利用が多かったから、一万三千字と言っても実際それほどには文字は書いていなくて、けれども、翻訳は本当にきつかったので、もう本当につらいです…。

 

記事を完成させるのに6時以上かかってる。

 

とてもつらい。

 

そもそも英語なんて読めるわけねぇだろ。

 

英語さえできていれば僕は…。

 

まぁ書きたいことは全部書いたので、これで良いということで終わりにしましょうね。

 

そんな感じです。

 

では。

 

・追記

この記事の比較的序盤の辺りで、ルキアノスの『Macrobii』という本にカルディアのヒエロニュモスが104歳まで生きたという話が書かれているという追記を書いた。

 

あの場面では冗長になるからそれ以上言及はしなかったけれども、その『Macrobii』という本の英訳を見る限り、どうやらヒエロニュモスは従軍経験があって、体に戦場で負った古傷を持っていた人物であったとらしいということが分かった。

 

「アガタルキデスが彼の「アジアの歴史」という著書の9巻で述べているところによると、戦争に赴き多くの労苦を耐え、あまたの傷を負ったヒエロニュモスは、104歳まで生きたという。(参考)」

 

先にエウメネスと共に戦って負傷をして捕虜となった可能性についての話はしたけれど、それはそれとして彼は従軍経験のある人物で、戦場で傷を負うような立場で軍中に居たらしい。

 

僕らが知っている『ヒストリエ』のヒエロニュモスは、腰抜けで胆力もなく、ただ少し本が書ける程度の人物だけれども、史実のカルディアのヒエロニュモスは、従軍経験があって、前線で戦って、その後に採掘事業の責任者に任命されたり、シリアの総督をやった上で、アンティゴノス王の友人であると認知されていて、歴史書を書く傍ら、104歳まで生きたような人物であるらしい。

 

そうだというのなら、もうイメージが違い過ぎるよなと思う。

 

その話を書いたルキアノスの著書に関しては、西洋古典叢書のシリーズで今、彼の全集が刊行されている途中らしくて、『ヒストリエ』のヒエロニュモスを描いた時に岩明先生がその情報に辿り着く方法がなかったのだから、どうしようもない話だし、繰り返すようだけれども、『ヒストリエ』のヒエロニュモスはあれで良いと僕は思っている。

 

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