かの正義は、げに正しき直観は | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

 

今回は小さなトピックを用意して色々言っていくいつものやつをやっていく。

 

本来的にTwitterで呟いた事柄について、その呟きをそのまま記事にコピペして、このサイトで色々掘り下げて書いていて、けれども、Twitterで全然呟かなくなってしまったがためにそれが出来なくなって、一方で、記事を作る際にそのように小さなトピックをいくつか用意するというやり方は実際楽なので、そういう理由でこのような形で書いている。

 

大学生の学部生のレポートとか、大体3000字から4000字とかで、僕の普段書いている何かは6000字以上であることが多くて、場合によっては1万字を越えるのだから、大学のレポートを一つのテーマで6000字書くのと3000字くらいの二つのレポートを書くのとではどっちが楽かという話で、まぁ普通に二つ書いた方が楽なので、小さなトピックを用意して色々やっていくという方法を僕は選んでいる。

 

そもそも、なんで日記を書き始めたのかに関して言えば、大学に入ったばかりの頃、あまりに文章を書いた経験がなくて、それがために全然レポートが書けなくて、その事を高校の時の友人に相談したら、「俺たちは普段からブログ書いてるから書けるけど…」という返答を得たことがあって、それがために日記を書き始めたというのが最初になる。

 

結局、普段書いているようなことはもはや日記でもなんでもなくて、レポートや小論文に近いものでしかないのだから、原点回帰というかなんというか、当初、このようなことを始めた理由がそのようなものを作る能力を養うことにあったのだから、方向性としてはあっているのではないかと思う。

 

まぁともかく色々書いていく。

 

・気について

大学生の時、倫理学研究演習の授業で担当教諭が気が存在するとして、気を送ると言って、目を閉じさせた生徒の額の前で円を空中に書いて、それを感じることが出来たかどうかを生徒に問うて、生徒が感じたと答えると、ほら、気が存在しているだろみたいな話をしていたということがあった。

 

僕は大学生の当時、それを聞きつつ「やべぇな」と思った。

 

多分、静電気なんだよなぁ…。

 

以上。

 

この授業を行った水谷氏は、大学の修士の資格を確か二つ持っているような方で、哲学ともう一つ、何らかの修士を持っていた方になる。

 

大学の教員ともなると、何か特別優れている人であるという認識がある場合があるけれど、実際のところ、大学の教授や講師の人々は、教える学問について強い専門性は持っている方々ではあるけれど、その知性が全般的に優れているかどうかは別の問題で、専門分野に詳しくても人間性が優れているとは限らないし、他の分野について十分な見識を持っているかどうかは個人差が存在している。

 

大学生の頃、倫理学研究演習の授業を受けていたら、その講師の方は気が事実存在していると考えていたようで、目に見えない超科学的なエネルギーが存在していると認識していたらしい。

 

それが故に、瞑想の末に深く入り込み過ぎて帰ってこれなくなってしまった場合の話とか、気を飛ばして何かするみたいな話を疑いもなく事実であるがごとく語っていた。

 

瞑想に関して、彼は日本の仏教の瞑想について色々語っていたけれど、原始仏典で語られるところの瞑想と日本の仏教の瞑想は全く趣きを異にしていて、日本の仏教だと心を無にして瞑想する一方で、原始仏典を読む限り、当時の仏教徒は正しい思考を行いながら瞑想していたらしいということがある。

 

だから、日本の仏教の瞑想の方式である心を無にするやり方は、仏陀の教えではないわけであって、それを実行してその果てに何があるのか、僕には本気で分からない。

 

どうでも良いけれど、ユダヤ教の瞑想も神への思いを抱きながら行うようで、瞑想に際して心を無にするのは日本と中国くらいで、中国の仏教とか今どうなってるのか分からないから、下手したら日本にしか現存しない風習であるという可能性すらある。

 

ともかく、彼はそのような超自然的な力の存在を信じていたようで、その一環で、生徒に目を閉じさせて、気を送りながら額のすぐ前の空中で円を書いて、それを感じるかどうかを生徒に問うて、それを以て気が存在すると主張したという場面を、僕はそれは何年も前の話だというのに未だに忘れることが出来ていない。

 

人間は静電気を帯びた存在で、そのまとった静電気の中には細菌が存在していて、人間の周りには細菌の雲が存在しているという話もある。(参考)

 

リンク先では人間は微生物のオーラの中に居るという話になっていて、昔調べた時はもう少し分かりやすく色々説明されているサイトが検出されたのだけれど、今調べたら何故かこのようなサイトしか検出されなかった。

 

人間はある程度帯電しているから、その中に細菌などが存在していて、人間に付かず離れずの状態で雲のようにまとわりついているという話を以前読んだことはある。

 

実際、今目をつむって自分の額に当たるか当たらないか程度の距離に手を持って行ったところで、手の存在は感じることが出来て、その現象はおそらくは静電気がそれを可能にしていて、このことは気という概念とは関係ないという理解で良いと思う。

 

そもそも、気という概念自体がふわふわとした良く分からないそれで、水谷氏は哲学の文脈でエランヴィタールや、ベルクソンが『複製技術時代の芸術作品』という著書で語るところのアウラ、そして合気道などの文脈での気をないまぜにしたような感覚で"気"について語っていたという印象を僕は持っている。

 

 

ベンヤミンは第二次世界大戦前の時代に芸術作品について語っていて、写真などで簡単に複製が出来るようになった今、オリジナルにどれ程の価値があるのだろうかという話をこの本で語っている。

 

彼が語るところによると、オリジナルには複製にはない"アウラ"が存在しているらしい。

 

アウラが存在しているからオリジナルは優れていて、複製にはそれがないから芸術作品の価値は失われないという話をしていたと思う。(うろ覚え)

 

このアウラは英語だとオーラで、オーラのドイツ語がアウラであるらしい。

 

それを知った時、アウラと翻訳した奴はマジでくたばれと僕は本気で思いました。

 

結局、ベンヤミンはオリジナルには複製にはないオーラがあるという、クソみたいな理由でオリジナルを擁護していたという話らしい。

 

そのようなオーラや目に見えないエネルギーに近い概念として、エラン・ヴィタールという概念があって、これも言い出したのはベルクソンだから、なんか目に見えないエネルギーのようなものが存在していると彼は考えていたらしい。

 

それに加えて、日本だと合気道とかで気の概念があって、そういう文脈で水谷氏は気について色々言っていたのではと僕は考えている。

 

そもそも、気という概念自体が古今東西普遍的に存在しているそれでもなくて、古代中国の出土文献では気についての言及があるものがそれなりにあるし、漢籍にはちょいちょい、気に関する言及はあるけれど、その"気"は僕らの知っている"気"とはイコールではない。

 

以前も引用したけれど、古代中国の出土文献である『湯在啻門』には気に関する記述がある。

 

「 湯王はまた伊尹に尋ねて言った。 「人は何を得て生ずるのか。何を増加させて成長するのか。何を減少させて、老いるのか。どうして同じく人でありながら、或るものは悪く、或るものは好いといった差があるのか。 」伊尹が答えていった。 「それは五味の気によります。この五味の気がはじまりとなり人をつくるのです。その中でも精微な気のことを玉種といいます。 (胎児は)始めの一ヶ月の段階で発生し、二ヵ月で輪郭となる形ができ始め、三ヶ月でその外形がはっきりとしっかり固まり、五ヶ月で腕が伸び、六ヶ月で肉が付し、四ヶ月で外形ができ、七ヶ月で筋肉と皮膚とができ、八ヶ月で(体が)確定し、九ヶ月で男女を判別し、十ヶ月で完成して、民はこうして生まれます。その気が多くなり奮い立ち、通じて治まると、長寿となりよくなりましょう。(後略)(https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/61971/より)」

 

僕らが知っている気功などの"気"だと、人間の体内にエネルギーとして存在してはいる一方で、それが人間の材料として存在しているということはない。

 

加えて、ここで言うところの"気"は人の何らかの良し悪しを決定づける要因である様子がある一方で、気功などの文脈での気は、良い気や悪い気などという話を僕は聞いたことがない。

 

他には『孟子』にも気に関する記述がある。

 

「 公孫丑がいった。「では、先生は告子よりも、どこがまさっているのでございましょうか。」孟子はこたえられた。「わたしは他人の言葉をよく判断する。また浩然の気をよく養っておる。[この二つの点がちがうのだ]。」公孫丑がまたいった。「ぜひ、うかがいたいのですが、その浩然の気とは、いったい、どういうものなのでしょう。」孟子はこたえられた。「言葉ではなかなか説明しに くいが、この上もなく大きく、この上もなくつよく、しかも、正しいもの。立派に育てていけば、 天地の間に充満するほどにもなる。それが浩然の気なのだ。しかし、この気はいつも正義と人道 とにつれそってこそ存在するものだから、この二つがなければ(すなわち正義と人道とにはずれ たことをすれば)この気は飢えてしぼんでしまう。これはたえずこの道義を行なっておるうちに自然と生れてくるもので、外界からむりやりいっぺんに取りいれることができるものではない、自分の心になにか疚しいことがあると、すぐに飢えてしぼんでしまう。前に自分が、だから告子はまだ義を理解しておらぬといったのは、彼は義を心の外にあるものとみているからなのだ。 (孟子 『孟子 上』 小林勝人訳 岩波文庫 1968年 p.124)」

 

このように『孟子』には"浩然の気"という概念についての言及がある。

 

この言及を見るに、なんだか道徳心や人として良いあり方というか、素晴らしい心持ちのようなものとして、"浩然の気"という概念がある様子がある。

 

この『孟子』には「至誠、天に通ず」という言葉もあって、極めた誠実さは天にさえも届くという発想があって、そのような実直さや人間としての素晴らしさを極めれば天地の間に満ちるというようなニュアンスで"浩然の気"という語がある。

 

古代中国だと支配者が良い人だと天がそれを賞賛して豊作になったり、悪王が統治すると災害が起こったりするという発想が存在しているので、優れた人や偉い人の振る舞いが世界に影響を与えるという発想がある。

 

だから、君子として優れた振る舞いを極めればそれは天地の間に満ちるという話であって、ここで言う"浩然の気"として語られる"気"というのは僕らが知っている、丹田に溜めたり、かめはめ波として打ち出したりする"あの"気とは別の概念だという理解で良いと思う。

 

ここで言うところの"気"が、念じられるものであったり、飛ばされる類のものであると読み取るというのは現代文的な読解では不可能だと僕は思う。

 

そして、そのような丹田に溜めたり、呼吸でそれをどうこうしようという類の気についての記述を、僕は古代中国のテキストの中で未だ見つけられていない。

 

結局のところ、もし"気"などというものが人間の先天形質であって、そのようなものが事実存在してるのならば、古代中国人とて僕らが理解しているところと同じように気を理解していなければ道理に適わない一方で、古代中国人の言うところの気というのは僕らの知っている気とイコールではない。

 

他の漢籍にも気に関する言及はあるけれど、僕らの知っている気とは性質が違っていて、おそらく、僕らの知っている気というのはインド由来のそれになる。

 

『クリシュカー・ウパニシャッド』というテキストにそれと思しき言及がある。(参考)

 

結局、気などというものは何処かの誰かが言い出した法螺話であって、手をかざして相手にそれを送れるという何かなどは宗教者の誤認識の中にしか存在していないのだろうと僕は思う。

 

『湯在啻門』で語られるところの気が何か飛ばしたり念じたりでどうこうなる概念であるかは定かではないし、少なくとも『孟子』で語られるところの"浩然の気"はそのような概念ではないだろうという理解で良いと思う。

 

そこまでの事は講師が急に気を飛ばし始めたあの授業を受けた日の僕は理解はしていなかったけれども、あの日の時点で、「いや、静電気だろ…」と思えたくらいで、大学で教鞭を執る立場にあっても、専門分野以外の知識はそれほど信用できないというのは確かだろうと僕は思う。

 

…まぁそもそも、哲学関係の講師陣とか、そのほぼ全てがカントのガバガバ議論に疑問を抱けなかった人々なのだから、色々あれな部分は存在している。

 

この記事で言及している水谷氏が哲学科の科目である倫理学研究演習の授業で、何故人を殺してはいけないかを語った場面についてはこのサイトで何度もその話をしている。

 

彼曰く、それは直観らしい。

 

直観的に駄目だから、殺人は駄目だとクソ真面目に語っていた。

 

その直観的に駄目だから駄目というのは元々は哲学者のカントの議論であって、彼の語るところの定言命法は、換言するならば「駄目なものは駄目だから駄目」と言うような議論になる。

 

彼らの論調だと、殺人をして行けないことに理由はなくて、駄目なものは駄目だからそれは禁忌として扱われているというような感じになっている。

 

僕は、殺人が許されない理由は何かについての答えとして、「直観だ」という答えを聞いたあの日から、哲学という学問が本当にしょうもないそれであると思っている。

 

冷静に考えて、一つの問題を直観的に駄目だから駄目で終わらせられるのなら、全部の問題を直観的に判断すればいいわけであって、直観というのは換言すると「私が強くそう思ったから」程度の意味で、直観が結論として許されるなら、全部直観で終わらせろよと本気で思った。

 

直観で済むなら全部直観で良くて、以降一切の議論が必要ないのではないかと僕は本気で思ったし、哲学科の同期と飲んでいた時にその話をしたら、彼も確かにその通りだと言っていた。

 

その事を思った当時の僕はまだ知らなかったことだけれど、後に僕は哲学が語るところの普遍的な正義が全然普遍的ではないということを知るに至っていて、古代中国や古代インドのテキストを沢山読んだ結果、殺人や嘘は必ずしもそれらの社会では悪ではないということが分かっている。

 

古代中国では報復殺人が正義だし、古代インドでは愛の告白をした相手が断った時、その女性をぶん殴ることは悪ではない。

 

殺人を含む道徳判断は強く文化的な伝統に依存していて、僕はいくら古代世界のテキストを読んでも、普遍的な道徳判断を見つけることが出来なかった。

 

それなのに彼らが、特にカントの系譜に居るような人々が正義とするような事柄は、直観に保証されていて普遍的なそれであると考えているようで、自分たちが優れていて、自分たちの判断は基本的に正しいと思っているような西洋的な傲慢さをどうしても感じてしまう。

 

けれども彼らが想定する普遍性は、ちっとも普遍性を持っていない。

 

哲学者のヘーゲルは、自著の『歴史哲学』の中で、黒人の事を価値のない物体と言及していて、彼らが直観によって正しいとする倫理観は現代的な価値判断からしたら、とても正しいとは言えないそれになっている。

 

その辺りはカントも同じで、出典の本を持っていないからWikipediaのカントの記事から引用するけれど、カントは黒人を以下のように評価している。

 

「アフリカの黒人は、本性上、子供っぽさを超えるいかなる感情も持っていない。ヒューム氏は、どの人に対しても、黒人が才能を示したただ一つの実例でも述べてほしいと求め、彼らの土地からよそへ連れて行かれた十万の黒人の中で、そのうちの非常に多くのものがまた自由になったにもかかわらず、学芸や、その他なんらかの称賛すべき性質のどれかにおいて、偉大なことを示したただの一人もかつて見られたことはないが、白人の間には、最下層の民衆から高く昇り、優れた才能によって声望を獲得する人々が絶えず見られると主張している。それほどこの二つの人種の間の差異は本質的で、心の能力に関しても肌色の差異と同じほど大きいように思われる。 — イマヌエル・カント 『美と崇高との感情性に関する観察』 第4章」

 

彼らが差別的なことは、当時の西洋的な価値判断で、歴史的な経緯があってのそれで、僕はそれが良い悪いという話をしたいのではない。

 

ただ単に、彼らは自身の善悪の判断を直観的に正しいと主張するけれど、その直観で判断された善悪は本当に普遍的で妥当かが問題であって、結局、彼らが正義だと思った殺人を悪とする判断は、ただの文化的な伝統で、キリスト教道徳でそれが悪だから悪であるという以上の理由などないのだろうと僕は考えている。

 

別に…歴史上の人物がそのような主張をしたということは僕にとっては重要ではなくて、けれども、哲学という学問は未だにカントを前提としていて、哲学の教授陣などはカントの主張である直観に基づく正義を正しいものだと考えている人が多い…というか、哲学の教授だとほぼ全員がそうだと思う。

 

少なくとも水谷氏はそうだったわけで、僕が大学生の時の哲学科長も、彼の言動を今鑑みて、功利主義を否定して、カントの倫理を専門としていたという事情から、カントの主張を正しいものだと認識していた様子がある。

 

今から数百年前のおっさんが妄想した内容にどれ程の重要性があるかが問題で、1900年代になるまで銀河が存在しているかすら分かっていなくて、DNAも未だ発見されず、かつての脳で考えるかどうかすら確かにされていなかった時代の議論であって、果たしてそれは現在に適応できるのかという話になる。

 

特にキリスト教国ではない日本では、彼らの理屈は通らない場面が実際多い。

 

ポリティカルコレクトネスで主張されるところの正義が、何処か日本人には馴染めない部分は確かにあって、彼らが語るところの正義の多くは、彼らの文化的な伝統であるという以上の根拠がない。

 

そして彼らは、自身が正しいことをしていると信仰していると取れる部分もあって、もともとそういうのは彼らがキリスト教徒だった歴史があるからそのよう信仰めいた判断がある部分がある。

 

結局、彼らはキリスト教徒で、全ての事は神の御業で、その道徳判断を行う価値に関する判断能力も神が作ったもので、神が作ったものだから正しいという発想が元にある。

 

カントにしても道徳判断が何故正しいかについて言えば、神がそうお創りになられたからというのが根本的な理由であって、神が作った道徳直観は無条件に正しいから、それを疑うのは神に対する冒涜で、その正しさには理由がない。

 

そのような議論に関しては、日本人である僕からしたらついていけないという以上の感想はない。

 

キリスト教徒として生まれて、欧米で生まれ育ったなら疑いはないんだろうけれど、ねぇ?

 

そんな感じの日記。

 

どんな感じなんですかね…?

 

まぁいいや。

 

では。