『ヒストリエ』のカレスについて(後編) | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

僕は先月の終わりに『ヒストリエ』のカレスについてのねっとりとした記事を一つ書いた。(参考)

 

その記事を書き終わった後に、「あれ?アテネのカレスってWikipediaでどんな言及をされていたっけ」と疑問に思って、「アテネ カレス」という単語でググってみた。

 

結果として日本語のWikipediaには今の所カレスの記事がないということが分かったのだけれど、代わりにカレスについて言及している個人サイトが検出された。

 

特に何も考えずにクリックしたところ、以下のような文章が書いてあった。

 

「カルディアにやってきたエウメネスは、ヘカタイオス等々カルディアの支配者たちと、マケドニア軍駐留のプランをつめています。 いっぽう、ビュザンティオンにはアテネからの援軍が到来、それを率いているのはアテネの将軍カレスでした。

人々から、英雄のように扱われているカレス(カレース)ですが、彼は紀元前4世紀のアテネに現れた将軍たちの一人です。実際の所、彼は “英雄”というほどの名将だったのでしょうか?

・初期の軍歴

クセノフォンやディオドロスなどの歴史記述および、デモステネスの弁論などで、カレスは紀元前4世紀、ストラテゴス(将軍職) として良くその名が登場する人物ですが、出自はアンゲレ区の出身であるということ、父がテオカレスという名であること以外はよく 分かっていないようです。いつ生まれたのかと言うことも正確には特定できず、ストラテゴスを初めて務めたのが紀元前367/6年である ということから推測して、紀元前400年よりずっと後とは考えにくいと言う程度のようです。なので、彼が生まれたのはとりあえず、 紀元前5世紀末から紀元前4世紀初めといった感じでいいのではないでしょうか。(参考)」

 

この文章は『ヒストリエ』の考察サイトのそれであって、昔からこのサイトの存在自体は把握していた。

 

僕がエウメネスのペルシア戦争後の封土がカッパドキアとパフラゴニアであると初めて知ったのはこのサイトの記述を読んでだったと思う。

 

とはいえ、このサイトのコンセプトは『ヒストリエ』の内容をあれこれ言うというよりも、『ヒストリエ』の舞台になった古代ギリシアなどの歴史についての副読書のようなものを目指していて、僕はそのようなことに強い関心は持っていなかったから、所々を拾い読む程度にしか読んでいなかった。

 

だから、カレスについての言及が存在しているということは知らなくて、先月末にカレスについての記事を書いた後に検索して初めてその存在を知った。

 

そして、その言及内容にはカレスについて書かれた資料についてのそれがある。

 

「クセノフォンやディオドロスなどの歴史記述および、デモステネスの弁論などで、カレスは紀元前4世紀、ストラテゴス(将軍職) として良くその名が登場する人物ですが、出自はアンゲレ区の出身であるということ、父がテオカレスという名であること以外はよく 分かっていないようです。(同上)」

 

この文章を読んだことによって、僕の苦行がまだ終わっていなかったということを理解することになった。

 

実際、この記事を書くにあたってクセノフォンもディオドロスも既に確かめているのだけれど、カレスについての言及はそれぞれ『ギリシア史』と『歴史叢書』に存在している。

 

ディオドロスの方はネット上に翻訳が存在しているから、そのページに行ってF3キーを押して「カレス」と入力して検索をかけたことによって、実際にどのように言及されているかを先月末の時点で確かめている。

 

まぁなんつーか、岩明先生はこの『歴史叢書』を読んでいて、それが故に『ヒストリエ』のカレスがあるということで良いと判断していいような事柄が言及されていた。

 

『ヒストリエ』において、カレスは初登場の時に、ペルシア軍を打ち破った"英雄"として人々から賛辞を受けている。

 

(岩明均『ヒストリエ』7巻p.181 以下は簡略な表記とする)

 

この記述が存在しているのは『歴史叢書』になる。

 

「カレスは今や全艦隊の指揮権を継承してアテナイ人をその支出から解放しようと熱意を燃やし、一つの危険な作戦を採った。当時アルタバゾスがペルシア王から離反しており、寡兵で七〇〇〇人以上の兵を有した太守たちと戦っていた。カレスは全軍を率いてアルタバゾスに加勢して戦いで王の軍勢を破った。(参考)」

 

このように『歴史叢書』にはカレスがペルシア軍を打ち破ったという記述がある。

 

前回の記事を書いた時は『ヒストリエ』のカレスの英雄というあだ名についてのくだりの話をすっかり忘れていて、けれども、ディオドロスを読んでみたらカレスがペルシア軍を打ち破ったと書いてあって、カレスの英雄云々の話は今引用した文章が元だと僕は理解することになって、僕の苦行はまだ終わってないという現実に僕は打ちのめされることになった。

 

そもそも、僕は少し前から岩明先生はこのディオドロスの『歴史叢書』を読んでいるのではないかと考えている。

 

何故と言うと、アフタヌーン2020年9月号掲載の『ヒストリエ』において、フィリッポスはパウサニアスによって切りつけられているのだけれど、それに際して短刀が用いられているからになる。

 

フィリッポス暗殺において短刀が用いられたと言及があるのは『歴史叢書』であって、そこから僕は岩明先生がディオドロスを読んでいる可能性を考えるようになった。

 

「(パウサニアスは)彼は馬を市門に繋いでおいて外套の下にケルト風の短刀を忍ばせて劇場の入り口までやってきた。(同上)」

 

一応、『地中海世界史』にもこのフィリッポス暗殺の場面についての記述はあるけれども、特にどのような武器が使われたかは言及されていない。

 

「(前略)それらを見るためにピリッポスは身体の護衛なしで、息子と義子の二人のアレクサンドロスの間に挟まれて赴いたところ、マケドニア貴族の若者、パウサニアスが、誰にも怪しまれずに隘路に先まわりして待ち伏せ、通りかかったピリッポスを虐殺して、喜びの日を喪に服すべき葬式の忌日にしてしまった。(ポンエイウス・トグロス『地中海世界史』合阪学訳 西洋古典叢書 1998年 p.164)」

 

特にどのように殺したかは書いてないし、もちろん凶器の記述は存在していない。

 

『ヒストリエ』ではパウサニアスはフィリッポスの胸部に刃物を突き立てたけれども、『歴史叢書』でもしっかりとそう言及されている。

 

「フィリッポスは付き添っていた友人たちに劇場に先に行くよう指示して護衛に距離をとらせると、彼は王が一人になったのを見計らって彼に突進してあばらを突き刺し、死に至らしめた。(同上)」

 

ここであばらを突き刺したと言及されるけれども、12巻収録分の『ヒストリエ』でもフィリッポスはパウサニアスにあばら骨のある胸部を突き刺されている。

 

…まぁ、『ヒストリエ』でも劇場でその出来事は起きたのだけれども、刺したのは劇場の真ん中あたりだから、その辺りには差異はある。

 

けれども、『ヒストリエ』ではフィリッポスに刃物を突き刺したパウサニアスは心臓を外したとか言って、その辺りをパウサニアスが刺したという記述は『歴史叢書』以外で見つけられていない。

 

そうとなると、その辺りは『歴史叢書』由来と考えるくらいしか出来なくて、それに加えてカレスがペルシア軍を打ち破ったという話は僕が把握している限り『歴史叢書』にしか存在していないので、そうである以上、岩明先生はこれを読んでいるということになってくるのかもしれない。

 

まぁ僕が知らんだけでその事が書かれている本が存在していて、岩明先生はそっちを読んだのかもしれないとは考えているけれど。

 

この『歴史叢書』は一般向けの書籍としては出版されていない。

 

けれども、帝京大学の学会誌には翻訳が掲載されているらしい。

 

風の噂で僕は岩明先生が学会誌を取り寄せてまで資料を読んでいるという話を聞いたことがあって、もしその噂が正しいとしたならば、岩明先生が取り寄せたのは帝京大学の学会誌で、『歴史叢書』を読むためにそうしたということで良いと思う。

 

まぁカレスのペルシア軍を破ったという話と、パウサニアスの犯行については『歴史叢書』にしか書いてませんし。

 

以前の僕は岩明先生はネットとか弱そう(偏見)と言って、ネット上に有志によって翻訳されたそれがあるとはいえ、岩明先生は『歴史叢書』を読んでいないのではと考えていたけれども、もっとアナログな手段で、普通に学者が翻訳したものを紙で読んだというのが実際らしい。(追記あり)

 

前回のカレスの記事で参考文献リストをまた作るって僕は言及していたけれども、その話をするつもりでそういうことを言っていた。

 

まぁ予定が狂いに狂って今回、カレスの記事で言及することになったけれども。

 

・追記

パウサニアスが王の胸を刺したという話はどうやら『王妃オリュンピアス』という、アレクサンドロスの母親について書かれた日本人の研究者による新書の本が出典であるらしい。

 

この記事自体に僕が知らない未知の本にその事が書いてあるかもとは言及していて、のちに岩明先生も読んでいるらしいと分かっている『王妃オリュンピアス』で気になるところがあったからパラパラと読んでいたら、先に引用したディオドロスの『歴史叢書』の記述が引用されていて、その話が本文中でされていた。

 

『ヒストリエ』でフィリッポスが刺された劇場と、この本に挿入されている、暗殺時の劇場での人々の立ち位置の図解が大体合致していたので、どうやら、その辺りに関しては『王妃オリュンピアス』であるらしい。

 

一方でカレスがペルシアを破った話の出典は不明。

 

『歴史叢書』が由来かもしれないし、未知の概説書が由来かもしれない。

 

まぁ直接的にせよ間接的にせよ、『歴史叢書』が『ヒストリエ』の材料として使われているのは間違いなさそうではあるのだけれど。

 

追記以上。

 

さて。

 

以下では『歴史叢書』を含めた新たに判明したカレスについての言及がある諸テキストについての話をして行く。

 

実際…今回僕が調べたテキストの中で岩明先生が読んだだろうのは『歴史叢書』くらいであって、他の資料はほぼ岩明先生は読んでいないか、読んでいたとしても参考にはしていないと思う。

 

頑張って調べたけれど、『ヒストリエ』に関係性のある記述があるのは『歴史叢書』だけだった。

 

つまり、『歴史叢書』の記述がこの記事の本旨になってしまうのであって、この記事が竜頭蛇尾にならないように、『歴史叢書』の話は最後に持っていくことにして、以下ではまず、岩明先生は読んでないけれど、カレスについて言及のあるテキストの話をして行く。

 

新たにカレスについて言及されているテキストが判明したに際して僕は、もう、あとからあとから作業が増えるのを嫌って、英語版のWikipedaiaを参考にしたりして、抜けがないように把握できた限りのテキストを更に数種類の洗いざらい確かめた。

 

まず、先の『ヒストリエ』の考察サイトさんに言及があったクセノフォンの『ギリシア史』、次にネポスの『英雄伝』、そしてディオドロスの『歴史叢書』にカレスの言及があることを確認していて、他にはアリストテレスの『弁論術』にもカレスについての言及があることを確かめている。

 

以下ではそれらのテキストに言及されているカレスの記述の話をして行く。

 

僕は事前調査でそれらの本にカレスについての言及があるということを調べていて、『弁論術』を除くそれらの本はマイナーだからかなんなのか、僕が住んでいる都道府県では一か所の図書館にしか置いてないということが分かった。

 

前回のカレスの記事の時にも遠くの図書館に行ったと僕は言及したけれど、同じところに置いてあるということが分かって、僕はそれを確かめに電車に揺られて1時間半かけてその図書館に向かっている。

 

そして、到着して図書館の扉の前にまで来て初めて、その日は休館日だと知った。

 

えぇ…。

 

図書館の前に辿り着いて定休日だと知って、とりあえずスマホ取り出して気を落ち着けようとしたら、スマホが手から滑って地面に落ちて画面にひびが入った。

 

人生の中でスマホを落としてひびを入れたのは初めての出来事で、それほど動揺していたのかどうかは知らないけれど、とにかく踏んだり蹴ったりだった。

 

月一でしかこの図書館がある街には来ないから、次に来るとしたら来月になって、来月までこんなクソみたいな作業を後回しにしたくなかったから、事後策を色々考えた。

 

まず、『ギリシア史』については他の図書館にも置いてあると知っていたから、帰りに来る途中にあった駅で降りて、違う町の図書館に行って、その本を複写してきて今手元にテキストはある。

 

他の本に関しては、僕が住んでいる都道府県だと大学の図書館を除けばその図書館にしか置いていないから、来月までその文章を複写することは出来ない。

 

とはいえ、もうこんな作業は後にまわしたくないので色々考えて、ネット上にある英訳から僕が日本語訳に重訳するという方向性でやっていくことにする。

 

とにかく、複写することができた『ギリシア史』のカレスの記述から見ていく。

 

「 (自領で自由に作物を得られないプレイウス人は食料の入手は輸入に頼っていたが、物資を運搬することに)まったく困り果てて、カレスを荷駄の護送者として同行させる措置をとった。彼らがプレイウスに至ると、プレイウス人は戦闘力のない者たちをペレネに移送するのを手伝ってくれ、と彼に頼んだ。したがって彼らはこの者たちをペレネに置いていき、物品の購入を済ませると、できるだけ多くの荷駄用動物に荷を積み夜間に立ち去ったが、敵に待ち伏せされているとも気づかずに、食料がないというのは戦闘よりもつらいことだ、と思っていたのである。そしてプレイウス人はカレスと共に、先を進んでいった。だが敵と遭遇するや、なすべきことに速やかに取り掛かり、互いに励まし合って敵に向かったが、その際に大声でカレスに救援を求め続けていた。そして勝利を収め、敵を道路から駆逐すると、我が身もその率いる荷駄も、無事祖国に辿り着いた。(クセノフォン『ギリシア史 〈2〉』)根本 英世訳 京都大学学術出版会 1998年 p.152」

 

 

 

 

ここでプレイウス人とカレスが荷駄を運んでいて、その際に敵に襲撃を受けたけれども撃退した話が書かれている。

 

ここで言うプレイウスは『ヒストリエ』でも言及があるピレウスの話ですね。

 

この後にカレスとプレイウス人とのやり取りが続くけれども、書き写すのに飽きたので僕の方で要約していく。

 

荷駄をカレスと一緒に運ぶプレイウス人の中でカレスに提案する者がいて、カレスに「私たちが先行するから貴方は後からついてくるだけで良い、それはきっと上手く行く、疑うのなら神に捧げものをして神意を問うてもらっても良い、任せてほしい」とカレスに言って、カレスは言われるがまま生贄の祭壇を設け、その準備をしている間にプレイウス人は行軍の支度を速やかに行い、カレスの神託が終わり、吉と出たと分かると即座に行軍をはじめ、初めは急ぎ足だったけれども、に騎兵も歩兵も直ぐに全速力になって、カレスはそれを追いかけて行って、日没の頃にようやく攻城中の仲間の所にたどり着くと、城の中の敵は炊事の準備をしていて、彼らは好機と見て敵をそのまま打ち破ったと書いてある。

 

『ギリシア史』にはそういう記述があって、プレイウス人の荷駄を運んでいる人々と一緒にカレスが行動していて、その荷駄を運ぶ人たちがカレス率いる傭兵部隊を先導して、結果として勝利を収めたと記述されている。

 

…まぁ輸送部隊が何で攻撃仕掛けてるのかとか、僕は先の引用の文章の直前と直後しか読んでないから良く分からないけれど。

 

話としてはプレイウス人は忍耐強く戦い続けていて、その忍耐強さを示すエピソードとして、物資の輸送にも事欠いたけれども、優秀な彼らはそれをものともしないどころか、敵すらも打ち破ったという記述で、その場にカレスがいましたよと言うだけの話になる。

 

血気盛んなプレイウス人に引っ張られる形でカレスは輸送任務を行ったり戦ったりしたけれども、別に普通にカレス率いる傭兵部隊も戦っているし、お互いに励まし合って戦ったと書いてあるし、そして二度の戦闘にも勝利している以上、どちらかと言うと有能で、少なくとも無能ということはないと思う。

 

『ギリシア史』に言及があるカレスはこの程度の記述しかないけれども、この『ギリシア史』は同時代人であるクセノフォンの言及なので、『英雄伝』や『歴史叢書』とは比べ物にならないくらい信頼の置ける記述になる。

 

ちなみに、注釈ではこのような言及がされている。

 

「(カレスは)アンゲレ区出身でテオカレスの息子とされるが、家柄などは不詳。これ以降、他の文献にも、前三二四/二三(?)の死まで、アテナイの将軍としてたえず遠征していたらしい。「将軍というよりも盗賊の親分」との評がある。(同上p.153 冒頭()は引用者補足)

 

注釈においてカレスは、「将軍というより盗賊の親分」であるという評があるとされている。

 

これはあれですね、アテネの傭兵部隊が行う略奪を止められなかった件についてですね。

 

その話に関しては、金を払わなかったアテネが悪いので、僕はカレスの責任ではないと思う。

 

次に、ネポスの『英雄伝』について。

 

これは手元にテキストがないのだけれど、英訳はネット上にあって、ティモセウスという人物の所に言及があるということが分かっているので、頑張って英語を日本語に訳すことにしましょうね。

 

図書館開いてたらこんなことしなくて済んだのにねー。

 

まぁ英訳から日本語訳にするって言っても、とりあえず「chares」で検索して出て来た文章の前後をグーグル翻訳に突っ込んで、アテネのカレスの話って分かったら、そのグーグル翻訳を英文とにらめっこして、それっぽい日本語に直すだけの作業なのだけれど。

 

ネポスの『英雄伝』のティモセウスの所にカレスについての言及があるのだけれど、このティモセウスって人はプルタルコスの『英雄伝』でカレスのことを悪し様に言った人ですね。

 

「カレスがアテネ市民に対し、自身が戦場で投げ槍を受けた際の傷を見せて、その時に貫通した盾を誇り示したときに、ティモセウスは「私は将軍としてサモスを攻囲した際に投げ槍が自身の近くに落ちた時、軍の大将でありながら子供のように身を危険に晒したことを恥じたものである」と言った。(参考:プルタルコス 『英雄伝 2巻』 国民文庫刊行会 1915年 p.381)」

 

プルタルコスの方でもカレスとティモセウスは敵対関係にあって、ネポスの方でもどうやら良好な関係ではなかったらしい。

 

まぁともかく、今から数年ぶりの翻訳作業をやっていく。

 

「 ティモセウスが高齢に達し、任命されていた複数の役職をやめた頃、アテネは戦争によって逼迫され始めた。サモス人が反乱を起こし、ヘレスポントスは彼らによって荒廃させられ、それは当時強大であったマケドニアのフィリッポスの工作によるものであった。そのフィリッポスに対抗していた将軍カレスは強大なフィリッポスに対して(あまりにも)頼りないと考えらえていた。その結果、(アテネでは)イフィクラテスの息子であり、ティモセウスの義理の息子のメネステスが指揮官になり、戦争を継続するという法令が可決された。それに際し、経験と知恵とで名高い彼の実の父親と義理の父親の二人が相談役として指名され(メネステスは二人の父と共に艦隊をサモスへ出発させ)た。メネステスの率いるアテネ軍にはその二人の力があったため、失ったものが彼らによって取り戻されるかもしれないという大きな期待にアテネ市民は胸を膨らませた。彼らがサモス島に出発した時、彼らがやってくることと、メネステスが(有能な将軍であると知られていたイフィクラテスとティモセウスの)二人を相談役として連れてきていることを聞いたカレスは、自分が居なければ(アテネは)何もできないことを思い知らせようと考えた。メネステスらがサモス島の近くまでやってきたとき、大きな嵐が起こり、二人の老練者(イフィクラテスとティモセウス)は(嵐の中で航行することを)避けた方が好ましいと考え、自分たちの艦隊の進行状況を確認し(停泊しようとし)た。しかしカレスは急いで航路を取り、その二人の助言に従わず、しかし成功は自分の船にかかっているかのように、目的地へ向かって進み、イフィクラテスとティモセウスに彼についてくるように指示を出した。しかしその後、任務に失敗し数隻の船を失ったため、カレスはまた同じ場所に戻り、イフィクラテスとティモセウスの邪魔さえなければサモスを取るのは容易なことだったとアテネに手紙を送った。これらの(カレスが手紙で訴えた)容疑によって彼らは弾劾された。人々は暴力的で、疑い深く、気まぐれで、批判的であり、二人をアテネに呼び戻し、反逆罪の疑いでティモセウスは裁判にかけられた。この容疑でティモセウスは有罪になり、100タラントンの罰金を命じられた。そして恩知らずの人々の憎しみに追われた時、ティモセウスはハルキス逃げ場を求めた。(参考)」

 

以上が、ネポスの『英雄伝』のティモセウスの列伝に言及があるカレスになる。

 

()は翻訳した文章を読み直したときに、分かりづらいなと思って僕が後から入れた補足で英文にはそういうことは書いていないけれど、そう補足した方が分かりやすいと思って書いたもので、僕の英語力が覚束ないから仕方なしの補助輪みたいな文章です。

 

あくまで上の文章は英訳を僕が日本語に訳したものだけれど、日本語で読めるネポスの『英雄伝』のリンクも用意しましょうね。

 

 

…。

 

二万て。

 

まぁともかく、僕が翻訳した『英雄伝』の文章を読んでいただいたなら、この本においてカレスがどのように言及されているかは分かったと思う。

 

実際の文章は英訳のネポスの『英雄伝』が掲載されているサイト(参考)に行ってF3キーを押して、「When he was at an advanced age,」とかで検索かければ読めるので、英語が得意な人は直接読んで、僕の稚拙な英語力を笑ってください。

 

ともかくネポスの『英雄伝』に言及があるカレスなのだけれど…なんつーか、無能は無能なのだけれど、無能というより邪悪だよなと思う。

 

実際の所、岩明先生がネポスの『英雄伝』を読んでいるかどうかは定かではないのだけれど、読んでいたところで『ヒストリエ』にはあまり影響を与えてはいないと思う。

 

何故と言うと、『ヒストリエ』のカレスは無能ではあるけれど、邪悪ではないからになる。

 

流石に今翻訳した文章を参考にしてカレスを描くとしたら、あのように軍才がないだけの将軍というように描くよりも、もっと暗愚が如き人物として描くはずで、けれどもそうなっていないのだから、『ヒストリエ』に於いてカレスに関してはネポスの文章は参考にされていないと理解していいと思う。(追記:後に岩明先生はネポスを読んでいるらしいと分かっていて、でもプルタルコスほどには材料として用いていないみたいです)

 

ちなみに、著者のコルネリウス・ネポスは紀元前100年頃 - 紀元前25年頃を生きたそうで、カレスが実際に生きた時代の200~300年くらい後の人物になる。

 

現代日本人が知っている坂本龍馬像がどれ程に脚色されたものであるかを考えて、坂本龍馬は150年くらい前であることを理解すると、その程度の時間で歴史上の人物の実情は随分と歪められて伝えられるということが分かると思う。

 

だから、ネポスの『英雄伝』の記述はあまり信用に値するものではないとは思うけれども、そもそもカレスについて書かれたテキストが多くないので、参考にせざるを得ない部分もあるかなと思う。

 

ちなみにネポスの『英雄伝』のフォーキオンの列伝の部分にもカレスについての言及があるのだけれど、アメリカ語で何言ってるか分からなかったし、多分、デモステネスがカレスと争った時にフォーキオンがデモステネスを擁護したって書いてある程度で大したこと書いてないみたいだから翻訳はしない。

 

ネポスの『英雄伝』については以上になる。

 

本当は…アテナイオスの『食卓の賢人たち』でも同じ作業をするつもりで、英語訳の全文を「chares」で検索して該当箇所はメモっているのだけれど、既に今までの作業だけで発狂寸前なので、来月にまたあの町に行った時に図書館に寄って複写して、また今度追記で補填することにしましょうね。

 

次はアリストテレスの『弁論術』のカレスについて。

 

英語版Wikipediaに『弁論術』にカレスについての言及があると書いてあって、お手元に何故か『弁論術』があるので引用することにする。

 

…これあれですね、まだ僕が哲学という学問が学ぶ価値がないそれであると理解する前に集めたやつですね。

 

良く分かんないヘーゲルとかベルグソンとかの読んでない本が結構置いてあったりするし、今後読む予定は存在していないけど、捨てる程でもないからただ埃をかぶって部屋に置かれている。

 

まぁともかく『弁論術』のカレスについての記述の引用を持ってくる。

 

「さて、比喩には四種類のものがあるが、その中で最も評判が良いのは比較関係による比喩である。(中略) また、オリュントスの戦いのことで、カレスが自らの行動を説明するための審査会を開くように熱心に求めた時、ケピソドトスが立腹して、彼は「息もつけぬほど民衆の喉を締め付けて」審査会を開かせようとしている、と言ったのも(比喩の一例である。)(アリストテレス 『弁論術』「三巻 第10章」 戸塚七郎訳 岩波文庫 1992年 pp.349-350 最後の()は引用者補足)」

 

これはアリストテレスが弁論について語った時に、比喩の話題でケピソドトスがカレスの要求に対して使った表現を一例として挙げた場面になる。

 

だから何だという話でしかないけれど、オリュントスの戦いでカレスが指揮をしていた様子がある。

 

「オリュントスの戦いのことで、カレスが自らの行動を説明するための審査会を開くように熱心に求めた時、(同上)」

 

この戦いは『歴史叢書』に言及がある。

 

「この年が終わった時にアテナイではテオフィロスがアルコンであり、ローマではガイウス・スルピキウスとガイウス・クインティウスが執政官に選出され、一〇八回目のオリュンピア祭が開催されてキュレネのポリュクレスがスタディオン走で優勝した。彼らの任期の間、ヘレスポントスの諸都市の制圧を狙っていたフィリッポスはメキュベルナとトロネを裏切りによる引き渡しで戦わずして獲得し、次いでこの地方の最重要都市オリュントスへと大軍を率いて向かい、手始めに二度の戦いでオリュントス軍を破って城壁防衛にまで追い込んだ。そして連続の攻撃で彼は城壁で多くの兵を失ったものの最終的にエウテュクラテスとラステネスというオリュントス人の上級隊長を買収し、彼らの裏切りによってオリュントスを占領した。(参考)」

 

特にカレスについての言及はここにはないけれども、この時代でオリュントスに関連する戦いはこれくらいで、同時代人のアリストテレスがこの戦いの弁明をカレスがしたって言っているのだから、カレスは援軍としてオリュントス側でマケドニアと戦ったか、戦おうとしたけれど間に合わなかったとかそういった形で関わっていて、その際の不備を弁明させてくれと訴えたらしい。

 

まぁフィリッポスを相手にしているのだから、カレスがオリュントスで勝利を納められなかったとしても、相手が悪いというかなんというか。

 

・追記

自分が書いたものを読み返して、デモステネスの『弁論集』の注釈にカレスが参戦したオリュントスでの戦いについての記述があることに気が付いた。

 

「 カレスは前四世紀を代表する将軍の一人。艦隊を率いてエーゲ海を舞台に縦横に戦い、前三四九/四八年オリュントス援軍にも出征した。しかしピリッポスの陸上覇権拡大を阻止できなかった。(デモステネス 『弁論集 2』 木曽明子訳 京都大学学術出版会 2010年 p.361)

 

ディオドロスの『歴史叢書』にはアテネがこの戦いに関わったという話はないけれど、何らかのテキストにこのことが書かれているそれがあって、それが故にこういう注釈があるのだと思う。

 

ちなみに、先の引用の『歴史叢書』の注釈の方にも年代が書かれていて、紀元前349-348年の出来事だとあるから、『歴史叢書』に記述がないだけで、カレスは実際のところその戦いに参加していたらしい。

 

追記以上。

 

また、『弁論術』の同じ箇所にもう一つカレスの話がある。

 

「また、イピクラテスが、「なぜなら、私の弁論の道は、カレスによってなされた行為の真ん中を通り抜けるものであるから」と言ったそうである。(同上 pp.350-351)」

 

これはイピクラテスが使った比喩で、イピクラテスの弁論をリストテレスが紹介しているだけなのだけれど、特に注釈に説明はないし、僕がギリシア文化について詳しくないから、なんの話かは分からない。

 

この辺りはギリシア史について詳しい人でないと理解したり説明したりするのは無理だと思う。

 

最後にもう一つだけカレスについての言及があった。

 

「 それにまた、法廷弁論においては法が弁論の基礎をなしている。だが、出発点が与えられているのであれば、そこからの論証を見つけるのは比較的たやすいことなのである。また議会弁論では、例えば法廷弁論のように係争相手を攻撃するとか、自分の人となりについて語るとか、裁判官の感情に訴えるといったような、時間つぶしの機会が多く許されていない。いや、論者が勝手に本題を逸れるのでない限り、その機会は他のどの弁論と比べても少ない。だから、話題に行き詰った場合には、アテナイの弁論家たち、とりわけ、イソクラテスのやり口を実践すべきである。すなわち彼は、議会で助言を与える際、その中に誰かへの告発を持ち込んでいるのである。例えば、『パネギュリコス』の中でスパルタ人を(一一〇―一一四)、『同盟軍についての弁論』(二七)の中ではカレスを告発しているのがそうである。(同上「第3巻 第17章」p.392-393)」

 

ここにイソクラテスが『同盟軍についての弁論』でカレスを告発したと言及されているけれども、京都大学学術出版会から出ている西洋古典叢書のイソクラテスの『弁論集』にそれと思しき弁論は収録されていない。

 

出版社のサイトに行くと目次が確認できて、けれども、その目次に『同盟軍についての弁論』であろう弁論が確認できない。

 

だから『同盟軍についての弁論』は未翻訳であるか、散逸して現存していないかのどちらかだろうけれども、イソクラテスにカレスが告発されたというのは事実だと思う。

 

だって、カレスと同じ時代に生きたアリストテレスがそうだって言ってるんですもの。

 

『弁論術』の記述に関しては、カレスが有能も無能もないと思う。

 

ただオリュントスの戦いで失態をしたのだから無能なのかもしれないけれども、カレスが何をしでかしたかが分からないし、カレスは民会での弁明を声高に求めていて、その失態は弁論で取り戻せるとカレスが判断している内容である以上、それほどの過失でもなかったのかなと思う。

 

完全にやらかしたらどう言い繕っても無理なので、完全なやらかしではなかったのだろうと僕は思う。

 

加えて、時系列的にこの後にカレスはカイロネイアの戦いに指揮官として参戦するのであって、オリュントスの戦いの時点で大失態を犯していたらそうはならないので、やはり大した"しでかし"はしていないのだろうと思う。

 

ともかく、『弁論術』に言及があるカレスについての記述はこれくらいになる。

 

…まぁ岩明先生、アリストテレスなんて読んでないだろうけれど。

 

僕が哲学畑出身だから、哲学の話はある程度は分かっていて、『ヒストリエ』にはギリシャ哲学の要素皆無だから、岩明先生はアリストテレスの議論を知らないと思う。

 

さて。

 

最後にディオドロスの『歴史叢書』について。

 

これは結局、わざわざ僕があれこれ言わなくてもネット上に翻訳があって誰でも現状読めるのだから、それぞれが読んだ方が早いのではないかと思う部分がある。

 

けれどもまぁ、ここまで色々やったので、ともかく引用していくことにする。

 

折角だからカレスの記述は全て下線を用意しましょうね。

 

「さてボイオティア人は帰国してからは平穏だったが、キオス、ロドス、そしてコス、さらにビュザンティオンの反乱に遭ったアテナイ人は同盟市戦争と呼ばれた三年間続いた戦争にかかずらうことになった。アテナイ人はカレスとカブリアスを将軍に選び、彼らを軍と共に派遣した。キオスに航行した二人の将軍はビュザンティオン、ロドス、そしてコス、さらにまたカリアの僭主マウソロスからキオス人を助けるために同盟軍が到着したのを見て取った。そして彼らは軍を出撃させて陸海から〔キオス〕市を包囲した。さて歩兵部隊を指揮していたカレスは城壁へと陸から進撃して市から出撃してきた敵と戦った。しかしカブリアスは港へと航行して激しい海戦を戦い、彼の船が衝角攻撃で被害を受けて最悪の事態に陥った。他の船の兵士が間一髪で退却して生きながらえた一方で、彼は敗北の代わりに栄光ある死を選び、船で戦って傷が元で死んだ。(参考)」

 

ここでは普通にカレスは勇敢に戦っている様子が言及されている。

 

どうでも良いのだけれど、ここで言及のあるカブリアスってのは、フォーキオンが副隊長として働いた時の上司のことで、フォーキオンが傭兵部隊の副隊長としてカブリアスの下で働いたとプルタルコスの『英雄伝』で言及されている。

 

そのカブリアスが指揮しているのだから、おそらく、ここにフォーキオンも副隊長として従軍しているのだろうなと思う。

 

けれども、名前がない所を見ると、この時点ではカレスの方が知名度のある将軍であったらしい。

 

次の記述に関しては、さっきネポスの『英雄伝』でカレスがベテラン二人を無視して無茶して船を沈めたあの話の場面になる。

 

「ギリシア本土では、キオス人、ロドス人、コス人、そしてビュザンティオン人がアテナイに対する同盟市戦争を続けており、海戦で戦争の決着をつけようとして双方で大規模な準備をした。アテナイ人は既にカレスを六〇隻の船と共に送っていたが、今やさらに六〇隻の船に人員を乗り込ませて市民のうちで最も高名な人物だったイフィクラテスとティモテオスに指揮権を与えて将軍とし、反乱を起こした同盟諸国との戦争を続行するため、この遠征軍をカレスに加えて送った。キオス人、ロドス人、そしてビュザンティオン人は彼らの同盟国と共に一〇〇隻の船に人員を乗り込ませてアテナイの島であるインブロス島とレムノス島を荒らし、サモス島に大部隊を上陸させて田園地帯を荒らし、陸海から都市を包囲した。そしてアテナイに服属していた多くの土地を略奪した彼らは戦争に必要な資金を集めた。アテナイの将軍の全員が今や合流してビュザンティオン人の都市を手始めに包囲しようと計画してその後にキオス人とその同盟諸国がサモス包囲を放棄してビュザンティオン人の救援に向うと、全艦隊がヘレスポントスに集結した。しかし海戦が起こったまさにその時強い風がアテナイ軍の方へと吹き、彼らの計画は頓挫した。しかし、カレスは悪天候にもかかわらず戦おうと望んだが、イフィクラテスとティモテオスは海が荒れているとして反対し、カレスは自身の証人とするために配下の兵士を呼んで同僚たちを裏切りの廉で告訴し、彼らは海戦から故意に逃げたとの罪状で彼らについて民会に手紙を書いた。かくしてアテナイ人はイフィクラテスとティモテオスの起訴に非常に憤慨し、何タラントンもの罰金を科して将軍の権限を剥奪した。(同上)」

 

ここではカレスと二人が対立したという話はあっても、カレスが邪悪の塊だから二人を陥れたという話はされていない。

 

ディオドロスとネポスは大体同じくらいに生きた人で、ディオドロスの方が年長である様子があるけれど、この出来事については彼らの時代には既に諸説があったらしい。

 

ネポスはカレスが失敗した上で二人が邪魔さえしなければサモス島は容易に攻め落とせたとアテネに手紙を送って二人を告発したと言及していて、ディオドロスはただ対立があったと言及している。

 

個人的に、ディオドロスの方が正しいのではないかと思う。

 

何故なら、カレスが『英雄伝』の記述のように非のないティモセウスらを告発していたとしたならば、兵がアテネに帰った後にそれは発覚するのであって、カレスもティモセウスらと同じように弾劾されて裁判で負けてなければ道理に適わない。

 

けれどもカレスはその後も将軍として働き続けている。

 

もし、ネポスの言及が正しかったならば、アテネの民会がカレスを将軍のままにする道理がない。

 

ティモセウスが訴えられたときは情報がなくてカレスの言い分が通るかもしれないけれども、軍が帰ってきたときには真実は明らかになる筈で、けれどもカレスは罷免されていないのだから、ネポスの言及が風聞に過ぎないのだろうと僕は思う。

 

次は冒頭で引用したペルシア軍との戦いについて。

 

「カレスは今や全艦隊の指揮権を継承してアテナイ人をその支出から解放しようと熱意を燃やし、一つの危険な作戦を採った。当時アルタバゾスがペルシア王から離反しており、寡兵で七〇〇〇人以上の兵を有した太守たちと戦っていた。カレスは全軍を率いてアルタバゾスに加勢して戦いで王の軍勢を破った。そしてアルタバゾスは彼の厚意への感謝から多額の資金を彼に送り、これによって彼は全軍に物資を供給することができるようになった。最初アテナイ人はカレスの行動を支持していたが、後になって王が使節を送ってカレスを非難すると心変わりした。というのも王がアテナイの敵にアテナイ人との戦争において三〇〇隻の艦隊で以って彼らの側で参戦すると約束したという言葉が広く広まったからだ。かくして危険な状態に置かれたために民会は反乱を起こした同盟者に対する戦争をやめることを決定した。そして彼らが平和を求めているのを見て取ると、彼らはたやすく条約を締結した。(同上)」

 

なんというか、アテネの政治事情と当時のギリシアの勢力関係が良く分かっていないから、この話がどういう経緯なのかは僕にはあまり分からない。

 

全文を読めば分かるかもだけれど、ぶっちゃけギリシア史そんな興味ないし…。

 

まぁ、カレスが艦隊でペルシア軍を破ったならそれなり有能なんじゃないの?(適当)

 

ただ、岩明先生がもしこの文章を読んでいたとしたならば、この記述からはカレスがそれほどに有能であるとは判断しなかったらしい。

 

とはいえ、ペルシア軍を破った話は『ヒストリエ』でもされているから、今引用した文章自体は直接的にせよ間接的にせよ、参考にされてはいるのだろうけれども。

 

次の記述はその戦いでペルシア軍を蹴散らした後の話だと思う。

 

「それらのことが起こっていた一方、ペルシア王に反旗を翻したアルタバゾスは、王から彼との戦争を命じられて送られた太守たちとの戦争を続行していた。最初にアテナイの将軍のカレスと共に戦った時のアルタバゾスは太守たちに勇敢に抗戦していたが、カレスが去って一人取り残されるとテバイ人に援軍を送るよう説いた。彼らはパンメネスを将軍に選んで彼に五〇〇〇人の兵士を与えてアジアへと派遣した。パンメネスはアルタバゾスを助けて二度の大会戦で太守たちを破り、彼自身とボイオティア人は大きな栄光を得た。さて、〔オノマルコスに買収された〕テッサリア人が彼らを見殺しにして捨て置いた後にボイオティア人が、フォキス人との戦争での切迫した危機が彼らを脅かしている時にアジアへと海を越えて軍を送り、戦いでの勝利をほとんど証明したというこのことは驚くべきことであった。
 このことが起こっていた一方で、アルゴス人とラケダイモン人の間で戦争が起こり、オルネアイ市の近くで起こった戦闘でラケダイモン軍は勝利し、その後にオルネアイを包囲攻撃によって占領してスパルタへと戻った。アテナイの将軍カレスはヘレスポントスへと航行してセストスを占領し、住民のうち成人は殺して残りは奴隷に売った。(同上)」

 

カレス、普通に活躍してるよなと思う。

 

だから"英雄"なのだろうけれど。

 

このように『歴史叢書』にはカレスについての記述が結構あって、岩明先生はある程度その記述を参考にしている様子がある。

 

ここまでの引用だとカレスは無能であるということはないのだけれど、『歴史叢書』でのカレスについての最後の言及が『ヒストリエ』の"英雄"カレスに影響を与えたのではないかと思う。

 

「  かくしてフィリッポスはボイオティア人の支持を失ったが、にもかかわらず〔他の〕同盟諸国と共に戦うことを決心した。彼は到着が遅れてた最後の同盟軍を待ち、ボイオティアへと進撃した。彼の軍は三〇〇〇〇人以上の歩兵と二〇〇〇騎を下らない騎兵であった。双方は戦いに逸って精神を高揚させて熱意を燃やし、勇気では拮抗していたが、王は兵力と将軍としての能力で優位に立っていた。彼は多くの困難な戦いをしてそのほとんどで勝利しており、そのために軍事作戦において広範な経験を有していた。アテナイ人の方はというと、最良の将軍たち――イフィクラテス、カブリアス、そしてさらにティモテオス――は死に絶え、残っていた最良の将軍であるカレスは指揮官に必要な活気と慎重さにおいては凡庸な戦士と大して変わらなかった。(同上)」

 

この文章はフィリッポスとアテネ連合軍がカイロネイアで決戦する際の話なのだけれど、アテネの有能な将軍は既に死んでしまって、残った将軍の中で一番マシな人物が凡庸なカレスしかいなかったという話になる。

 

『ヒストリエ』におけるカレスは、無能なのはそうなのだけれども、その無能さは愚鈍や暗愚というよりも、才能に欠けた平凡な将軍というようなイメージが実際だと思う。

 

(10巻p.9)

(10巻p.109)

 

(10巻pp.111-119)

 

種々のテキストを鑑みるに、例えばネポスの『英雄伝』や『食卓の賢人たち』で言及されるカレスだとあまりに暗愚だし、同時代人のクセノフォンの『ギリシア史』やデモステネスの『弁論集』の記述を読むと別に無能ということもないのだけれど、岩明先生が読んでいて、実際に参考にしているであろうプルタルコスの『英雄伝』とディオドロスの『歴史叢書』のカレスは間抜けであったり凡将であったりして、『ヒストリエ』で素描されるところのカレスに非常に親和性を持っている。

 

実際、『英雄伝』に関しては僕によるねっとりとした調査で岩明先生が読んでいるらしいと既に確定的に明らかなのだから、『ヒストリエ』のカレスは『英雄伝』に由来を持っているし、何らか『歴史叢書』の情報も直接的にせよ間接的にせよ用いられているということで良いと思う。

 

まぁなんというか、カレスがペルシア軍を打ち破ったという話は多分、ディオドロスの『歴史叢書』にしか言及がないと思う。

 

だから、結論として、『ヒストリエ』のカレスが無能なのは、原作がプルタルコスの『英雄伝』だからということと、概説書か実際の翻訳文かは分からないけれど、『歴史叢書』の情報によってカレスという将軍は描かれているからという話で良いと思う。

 

当初立てた仮説である、カレスが無能なのは『英雄伝』由来であるという話は、あながち間違いでもないけれども、正解というには少し甘いそれだったなと思う。

 

一応、アテナイオスの『食卓の賢人たち』とアイスキネスの『弁論術』に言及があるカレスについて、来月図書館に行ったら確認して追記しようとは思っているけれども、どう考えても不要な作業なんだよなぁ…。

 

そもそも、今回と前回の記事内容、やっていることが大学の学部生の卒業論文と質的に全く差異がない。

 

『ヒストリエ』の話を取っ払って体裁を論文用に整えたら普通に学部の卒論として成り立つ内容だと僕は思うし、何だったら僕が書いた卒論より内容的にマシなクソであると思う。

 

大学生の頃に実存主義と物語論で僕は卒論を書いたけれども、今の僕だったらあの内容より数段マシなクソをひり出せる自信があるし、なんだったらこのカレスの解説記事の方がまだ全然マシだと思う。

 

とはいえ学部レベルでしかないのだけれど。

 

院だともっと字数が必要だったりするし、そもそも外国語の文献を読まなきゃいけないからね、しょうがないね。

 

僕は日本語しか読めないからなぁ…。

 

色々仕方ないね。

 

というカレスについての解説。

 

今回もまた苦行だったけれども、かつて漫画の解説書いてて苦行じゃなかったことなんて一度もないから、いつものように辛かったというだけになる。

 

今回、記事を作るだけで5時間かかってますね…。

 

修正に更に1時間半かかっている。

 

でもなぁ、こんな作業よりアリストテレスの『天体論』読むほうが辛かったんだよなぁ。

 

だからね、アリストテレスの『霊魂論』を読む必要がある某ロボット漫画の解説の続きはね…うん。

 

まぁどうしようもないね。

 

そんな感じです。

 

では。

 

・追記

この記事の『歴史叢書』のカレスの話は16巻の記述なのだけれど、15巻の方にもカレスが出てきていることを見逃していた。

 

一つ目はクセノフォンの『ギリシア史』にも言及があるプレイウス人と共に戦った話で、もう一つが何とも無能だったので持ってくることにする。

 

「アテナイ人は憤慨してレオステネスを裏切り者として処刑して財産を没収するよう告訴し、次いでカレスを艦隊を指揮する将軍に選び出して艦隊を与えて送り出した。しかし彼は敵を避けて同盟者を傷付けながら時を過ごした。というのも彼は同盟都市であったコルキュラへと航行して多くの殺人と没収が起こった暴力的な内戦を扇動し、その結果として同盟者の目にはアテナイ民主制への信用が下落したように見受けられた。かくして他の多くの無法行為を行ったカレスは何も良いことをせずただ国への信用を下げることしかしなかった。(参考)」

 

こういうことをしても罷免されていなかったばかりか、その後も何年もアテネで将軍をカレスが続けられていたというのはどうしてなのかとか、僕には良く分からない。

 

・追記2

図書館に行ってカレスについての後始末を済ませてきたので、確かめて来た資料について書いていくことにする。

 

まず、『食卓の賢人たち』のカレスについての言及なのだけれど、どうやら、前編で引用した部分がアテネのカレスについての全てであって、他の箇所に言及されるカレスは同名の別人の話であるらしい。

 

結局の所、ペルシア学者である伊藤があのように言及していたことに色々な発端があるけれども、彼はペルシア語や楔形文字は読めてもギリシア語が読めるかは定かではないし、伊藤が書いた『古代ペルシア』が出版されたころには日本語訳の『食卓の賢人たち』は出版されていなかったから、まぁねぇ。

 

まぁ余話程度のどうでも良い話だったし、ペルシアの碑文についての本でその事を責め立てるのは酷というか、お門違いだと思うので、色々仕方がないと思う。

 

・補足

どうやら伊藤はアテネのカレスとミュティレネのカレスを取り違えていたらしい。

 

アレクの部下にミュティレネのカレスが居て、でも文中ではカレスとしか呼ばれていないから、同一人物だと誤解して、伊藤が言っているのはミュティレのカレスの話であった様子がある。

 

…。

 

こっちの事情も考えてよ…。(切実)

 

アテネのカレスはミュティレネの守将もやってたから紛らわしいのはそうなんだけどさぁ。

 

補足以上

 

次に、アイスキネスの『使節職務不履行について』に関してなのだけれど、引用する必要ある…?という内容だった。

 

内容的に有能も無能もないし、ぜっったいに岩明先生はこの文章を読んでないからなぁ。

 

「そしてカレスの裁判で原告が決まって明かすことですが、一五〇隻の算段会戦を造船所から持ち出しておいて持ち帰れなかったそうですし、演壇や民会がらみのお雇い人への支払いは別としても、一五〇〇タラントンを兵隊ではなく、ディアレス某やデイピュロス某、ポリュポントス某といった、ギリシア中から集めた流れ者の法螺吹き大将たちのためにたちのために浪費したそうです。その者たちのために哀れな島嶼の住民から毎年六〇タラントンの拠出金を徴発し、航海領域から商船とギリシア人を捕まえてきました。(アイスキネス『弁論集』「使節職務不履行について」木曽明子訳 京都大学学術出版会 2012年 pp.134-135)」

 

…というか引用するためにカタカタ打ちこんでて思ったのだけれど、見てみたら『ヒストリエ』のカレスの登場よりこの本の方が出版が遅いじゃないか。

 

なのだから、どう考えても『ヒストリエ』のカレスと今の引用は関係ないのだけれど、ともかく、カレスはアイスキネスに上記のように悪し様に語られていて、この文章だけだとあまりいい印象を受けない。

 

流れ者の法螺吹き大将の所には注釈があって、「カレス配下の傭兵指揮官たち。傭兵については補注P参照(同上p.135)」と書かれていて、補注にカレスが率いた傭兵についての話があるという事に、この文章を書くために複写してきた紙を見ている今この瞬間、初めて気が付いた。

 

そのテキストは複写していないからもうどうしようもないのだけれど、まぁ多分、アテネが金払ってないという話が書いてあるのだと思う。

 

まぁデモステネスの翻訳をした専門家がそうと言及していたのだから、そうなのだと思う。

 

このアイスキネスの弁論はフィリッポスの時代の話なのだけれど、アレクサンドロスの時代にカレスが未だにアテネの有力な将軍であったと『アレクサンドロス大王東征記』に言及があって、そうとするとアイスキネスが先の引用の内容を告発したとしても、カレスは罷免されずに変わらずアテネで将軍をやり続けていたという事になって、アイスキネスの告発は認められなかったという事になると思う。

 

カレスの浪費に関しては、アテネの民会が仕方がないと判断するような出費だったのかなと個人的に思う。

 

という、何の価値もない補足でした。

 

まぁカレスの話自体がこの地球上で誰も得してないのだから、今更の話でしかないけれども。

 

・追記3

僕の方で事実誤認があったので補足しておく。

 

ディオドロスの『歴史叢書』は帝京大学の学会誌に載っているのはそうなのだけれども、どうやら、カレスの登場するあたりについての翻訳が載っているわけではないらしい。

 

あくまで載っているのはアレクサンドロスの活躍が書かれた17巻の翻訳のみで、カレスの活躍に言及がある15巻と16巻の翻訳は調べたところ載っていなかった。

 

つまり、岩明先生が学会誌を取り寄せて読んでいたとしても、カレスについての言及はそこに依っていないという事になる。

 

そうとなると『歴史叢書』の日本語訳はこの記事で引用しているネット上に存在する有志による訳のみという事になる。

 

一方でカレスがペルシア軍を破ったという話は『歴史叢書』以外で確認できていない。

 

よって、考えられる可能性は、カレスがペルシア軍を打ち破ったという事について言及がある未知の資料が存在してそれを岩明先生が読んでいるか、僕がこの記事で引用した『歴史叢書』の文章をまさに岩明先生が読んで『ヒストリエ』の材料として使ったかのどちらかになる。

 

どちらの可能性が高いのか、僕には分からないけれど、とにかく、カレスがペルシア軍を打ち破ったという記述を岩明先生が読まないで『ヒストリエ』の"英雄"カレスを描くことは出来ないのだから、何かしらのテキストで岩明先生はカレスがペルシア軍を打ち破ったという記述を読んだという事は確かだと思う。

 

この記事を書いてから一年以上後に関係資料に軽く目を通した際に知ったのだけれども、どうやら『歴史叢書』の翻訳は存在していなくても、その文章が解説書に引用されていたり、情報が用いられている場合があるらしい。

 

そういう事情から勘案するに、カイロネイアに関することが書かれた本があって、アテネ軍の説明をするに際して、カレスに軽く触れて、そこにペルシア軍撃破の話があるのかもしれない。

 

どの道、現状だと『歴史叢書』以外にその情報は見られないので、『ヒストリエ』のカレスの情報の初出は『歴史叢書』であると僕は想定している。

 

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