『ぼくらの』のコモ編の解説(後編) | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

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書いていくことにする。

 

前回まででコモ編の三話まで、単行本で言うと6巻までの解説が終わった。

 

『ぼくらの』の解説も折り返し地点をとうに過ぎて、当初の話では後半になればなるほど楽になっていくだろうという話だったけれども、一向に楽にはなって行きはしない。

 

それはさておき、コモ編の残りの解説なのだけれども、あんまり…解説するところはないよね…。

 

けれども、解説しなければ色々あれなので、とにかく書いていく。

 

そういえば前回の記事で言及し忘れたのだけれども、コエムシは敵のパイロットの事情を敵の地球に探りに行って、事情を知って上機嫌である様子が描かれている。

 

(6巻p.178)

 

これは3話の話で、2話の時点では不機嫌だったコエムシが上機嫌になる契機は敵のパイロットの事情を知ったということ以外に特に見つけられない。

 

(6巻p.158)

 

話としては敵のパイロットの事情を知って上機嫌になったコエムシは、気分が良いから自身が知っている世界の構造について話し出したということで良いのだけれども、敵のパイロットの事情を知ったところで機嫌が良くなるのか?という疑問がある。

 

おそらく、鬼頭先生の中で話の流れが決まっていて、「敵の事情を知ったコエムシが上機嫌になって、ついついコエムシになることで知り得た世界の根本成因について話し出してしまう」というそれがあって、じゃあコエムシがウキウキしてつい話してしまう理由として、あの悲惨な敵のパイロットの事情が想定できるのかということはそんなに考えていなかったのだと思う。

 

後半のコエムシはかなり人間的で、人間としての情を持った性格で描かれていて、そのコエムシがそんなサディスティックな理由で愉快な気分になるとは中々想定できない。

 

まぁ鬼頭先生は物語を構築する上で、キャラクターの情動のことはあまり想定していないということが理解できれば、このこともただ同じような問題なだけなのだろうと処理できるけれど。

 

前回の忘れ物にあがなったので、コモ編の残りの解説を続けていく。

 

4話はコモの発表会についての報道の話から始まる。

 

(7巻pp.6-9)

 

昔読んだときは気にならなかったけれども、マスコミは何を報道したくてこのようなニュースを作っているのだろう。

 

視聴者に何を伝えたくて番組を作っているのかイマイチ分からない。

 

ジアースのパイロットが発表会を開くという情報を伝えてどうしたいのやら。

 

前作の『なるたる』でもこのように、報道の意図が分からないニュースの描写があったけれど、あれは結局政府の命令でテレビ番組がニュースを作っていたわけであって、今回もそういう話なのかもしれない。

 

意図としては敵のパイロットに発表会を知らせて、おびき寄せるためにやっている事柄なのだけれど、お茶の間の視聴者は意味不明なニュースを見せられているだけになってしまうと思う。

 

続くページで"どんがら"という言葉が出てくる。

 

(7巻p.10)

 

この言葉自体は鬼頭先生の作品の中では初出ではなくて、『なるたる』でも登場する。

 

(『なるたる』5巻p.195)

 

『なるたる』の時には語句の説明がなくて、『ぼくらの』の時にはある所を見ると、心境の変化があったのか、担当の編集さんに「どんがらってどういう意味ですか?」とか聞かれたとかそう言うことがあって、注釈で説明を入れることになっているのだと思う。

 

僕自身、鬼頭先生の漫画以外で"どんがら"なんて言葉には出会ったことがない。

 

調べてみたら漢字では"胴空"と書くそうで、僕は漢字を見て初めて意味が分かった。

 

胴の中身が空っぽってことですね。

 

話を本編に戻すと、今回の趣旨について佐々見一佐が言及する。

 

(7巻pp.10-12)

 

この発表会は罠だということは良いのだけれども、じゃあ獲物をおびき寄せる餌は何なんだと素で思う。

 

佐々見さん的に敵は自分の地球は滅ぼすことは決めていて、一方でこっちの地球はどうするかについて苦悩しているという話になっていて、けれども、冷静に考えて、どうしてその苦悩がある前提なのかが分からない。

 

例えば敵がほんの数回しか勝っていないという話ならその苦悩の存在は理解できるけれども、ハムバグは単純計算で12勝していて、12個の世界を滅ぼした上でこの地球にやってきたのだから、今更一つの世界を滅ぼすか滅ぼさないかなんてどうでもいい問題であるような場合の方が多いのではないかと思う。

 

現にジアースのパイロットの内で、今後の戦いにおいて敵の地球を滅ぼすということについて苦悩を抱いたパイロットはいない。

 

ウシロはまぁ苦悩していたけれども、それはちょっと事情が違うわけであって、ハムバグのパイロットにしても、その苦悩があるとはとても思えない。

 

コモがこの戦闘の後にも生きていられるなら話は分かるのだけれども、コモは結局パイロットなわけであって、彼が憐憫の目で見た少女は、この地球を助けようと助けまいと哀れに死ぬだけになる。

 

とはいえ、物語としては敵に実際に苦悩があって、この地球を滅ぼすかどうか迷っていて、何故だか演奏を見て判断しようと思って実際に来て、コモの演奏に感銘を受けて、この地球を救うことになったのが『ぼくらの』の物語になる。

 

そういえば、鬼頭先生は旧日本軍の相手が都合よく動いてくれる前提での作戦行動について『ぼくらの』作中で揶揄していたけれども、鬼頭先生が想定したハムバグ戦の作戦もまさしくそれであって、まぁ作戦を外からあーだこーだ言うのは楽でも、実際に作戦を考えるのは大変なんだろうなと思う。

 

(8巻pp.190-191)

 

鬼頭先生自身に、自分が否定しているところの日本軍の作戦と同じような作戦を自分が立案したという自覚とかないと思う。

 

もしくは得てして、作戦立案というのはそういう性質のものなのかもしれない。

 

この後コモの発表会へと続くのだけれど、全体的に非常に抒情的な話が続いて、解説できるところも少ない。

 

(7巻pp.12-17)

 

コモはこの後沢山父親に迷惑をかけるとか言っていて、やはり、コモは本来的にそのようなことで苦悩する予定だったのではないかなと思わせるところはあるけれども、実際に描かれている物語は切なくはあるけれどもそこまで苦しくはないそれであって、何か解説を入れるということが野暮なことであるように思えてきて仕方がない。

 

この後発表会が始まって、それと同時に敵のパイロットが姿を現して、「あなたの演奏を聴かせてください」と言う。

 

(7巻pp.22-25)

 

その敵のパイロットの行動を見て、佐々見一佐は「まさか、あの男は古茂田孝美の演奏で、判断する気か?」と言う。

(7巻p.27)

 

「まさか、」ってことは想定外の行動だったのだろうか。

 

一応、セリフとしての意図は読者にこれからコモの演奏を敵のパイロットが聴いて、そのことで勝負の趨勢が決するというアナウンスのためにあるのだろうけれども、"まさか"ということはある程度想定外なわけであって、だったら何のためにこのシチュエーションを国を挙げて構築したんだと思ってしまう。

 

このことに関しては、鬼頭先生の練り込みが色々甘かったということで処理して良いと思う。

 

思いの外ふわふわした感じで物語を進行させていたのかもしれない。

 

この後にコモは演奏を始めるのだけれども、非常に抒情的な説話であって、世界を両肩に乗せて演奏を始めるコモは始め、そのプレッシャーに昔のように固い音しか出せなかったけれども、演奏していくうちに父親の言葉で世界の美しさに気付き、旋律の穢れの無さを思い出して、素晴らしい演奏を披露することになる。

 

その抒情性をここで示すには、もうなんというか全ページをそのまま引用するくらいしか方法はなくて、個人的にそれは解説になっているのか?と思うので、その抒情性については各自『ぼくらの』の単行本で得てもらうことにして、その最中にある細かい話を拾っていくことにする。

 


(7巻pp.38-39)

 

コモはピアノと自分が、そして世界と自分が繋がっていると言っている。

 

僕にはどういう話か分からないけれども、なんとなくインド的だなぁと個人的に思う。

 

一応、インドのバラモン教やヒンドゥー教にはそのような話はあって、『バガヴァッド・ギーター』というヒンドゥー教の聖典にそのような話はあるのだけれども、鬼頭先生がそんなことに詳しいとはとても思えないのであって、なんか紐解けばインドに最終的に至るけれども、別にインドとは大して関係のない本や創作物の中にそういう話があって、鬼頭先生はそういったものを読んだりしたことがあって、それを元にこのシーンを描いているのだと思う。

 

実際、究極的に元ネタは古代インドの宗教だと思うけれども、『ぼくらの』のこのシーンはその情報が巡り巡った結果であって、この描写と古代インドの宗教はほとんど関係ないし、鬼頭先生はインド由来だと理解していないと判断したほうが良いと思う。

 

その後コモは、世界は14の物理定数で成り立っており、その一つが違ったらこの世界は存在していなかったという話を述懐する。

 

(7巻p.41)

 

僕は物理学のことは良く分からないけれども、この14の物理定数は調べたらWikipediaにあった。(参考)

 

この中の一つの数字が違ったら宇宙は存在していなかったと書いてある本が存在しているのだと思う。

 

とはいえ、個人的にその話は全く無意味な議論であって、そのような状況は思考上のお遊び以上のことはないと思う。

 

そうと言及できることと、そのことが事実であるということには一切関係性がなくて、そのように数字が違うという状況は言及できるけれども、事実、そのような状況が存在しているわけではない。

 

可能世界なんてただの言葉の遊びでしかなくて、この14の定数についても、この世界にその定数がない場合なんて存在していない。

 

コモはけれどもそのことを奇跡として捉えて、その奇跡のような偶然の末にある世界についての感動を音に乗せて演奏を続けていく。

 

(7巻pp.41-43)

 

そして最後に、その感興を神充と表現する。

 

(7巻pp.44-45)

 

この"神充"という言葉は広辞苑にも載っていない謎の言葉であって、以前僕が調べた時一切分からなかったから、鬼頭先生が以前読んだ本に書いてあって、けれどもそれは造語で、一般的な言葉ではない専門用語なのだろうと考えていた。

 

と言っても、字面から意味は分かるのであって、まぁ神に満ちているような神秘的な気持ちなのだろうと思う。

 

一応の意味で"神充"をググり直したのだけれども、どうやら、井筒俊彦という哲学者の専門用語というか、井筒のエントゥシアスモスの訳語として"神充"という語があるらしい。(参考)

 

僕は井筒の本は『マホメット』というイスラム教についての薄い本しか読んだことがないから良く分からない。

 

哲学者や神話学者、宗教者は原典に書いてないことを書いてあるとして自身の意見を主張することを恥とも思っていない場合が非常に多くて、その中で特に神秘主義を専門とする井筒の本を読み進めようとは個人的に思えない。

 

ググった限り、"神充"は古代ギリシアの神秘体験であるエントゥシアスモスの訳語らしいけれども、よく分からない。

 

古代ギリシアの哲学のプラトンっておっさんの『イオン』という本にエントゥシアスモスという言葉は出てくるらしくて、そのことについての論文が引っかかった(参考)けれども、『イオン』なんて初めて聞いたんだよなぁ…。

 

ともかく"神充"という語は井筒由来であって、鬼頭先生が井筒を読んだかどうかは定かではないけれども、"神充"は井筒の著作に由来する語句で、おそらくは井筒の著書を読んだことがある人物が書いた本の中に"神充"という言葉があって、そういう由来でコモが"神充"という言葉を使っているのだと思う。

 

井筒より以前に使用例があったら話はまた別だけれども、とはいえ、そういう流れで鬼頭先生がこの言葉を使ったのだろうという話には変わりはない。

 

話を戻すと、コモの演奏を聴いた敵のパイロットはこの地球を残すことを決めて会場を後にする。

 

(7巻p.46)

 

死を受け入れて俯く彼に、古茂田一佐が訪れる。

 

 

(7巻pp.48-51)

 

何の説明もここには必要ないと思う。

 

そして、勝利と共にコモは死ぬ。

 

(7巻pp.53-57)

 

その知らせを聞いて、ジアースのコクピットに居たアンコは、「コモはお父さんに、ちゃんと見ててもらえたのかなぁ。」と言う。

 

(7巻pp.59-60)

 

これは次のアンコ編への布石であって、アンコはお父さん子なのだけれども、ニュースキャスターとして多忙な父親には殆ど構ってもらえずに、父親の愛に飢えているから、同じように父親との関係に悩みを持っていたコモについて思うところがあったのだと思う。

 

そして、死んだ我が子を抱いた古茂田一佐は、軍をやめることになり、その古茂田さんに佐々見一佐が慰みの言葉をかける。

 

(7巻pp.62-63)

 

そうしてコモ編は終わる。

 

コモ編は感傷的な物語なのであって、それを濁してまで言いたいような何かは特にない。

 

以上です。

 

では。

 

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