彼らはただ在っただけでしかないのだから | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

今日は神話の話。

神話とか宗教とか。

まぁ、神話ってなんなの?って話だけれど、人間は人に何かを伝える時に言葉を用いてそれを文脈化して伝える方法しか持っていない。

だから、伝えられる情報は原初そのあり方しかなくて、且つ、基本的に人間が人間を理解するには物語の形式しか取らない。

というか、数学的なものを除けばそれ以外に口頭で伝える方法は存在しない。

よって、情報は物語で相手に伝えられる。

それが神話の原初。

相手に伝えたい情報があったとして、それを伝えるには物語の形式が最も記憶に残る。

様々な訓示、人を殺してはいけないのは何故か、我々は何処から来たのか、種々の出来事の何故、その何故を伝えることを想定する。

勿論、短文で端的にそれを訓示することは可能だけれど、そんなの覚えちゃらんない。

しかも彼らはそれがそうである理由を知らないわけであって、また一方で物語の形だとなんだか実際は間違っていてもそんな風であるように思えてしまう。

だから、神話は物語られる。

それが原初。

今日はそういう話をしていく。

僕はなるたるの解説の時にやたらに『神話・伝承事典』を使った。

鬼頭先生が読んでるからね、仕方ないね。

この本は実際面白い。

神話というのはその神秘性、換言すれば説明と思考を放棄して、描写されるそれをただ正しいと判断する思考停止や、存在しないものを存在する前提として語る筆者の暴走などが、神話の学者の本では常態化している。

神学なんて、結局都合が悪いことが起きたら思考停止するしかない。

神は善でなければ「ならない」から。

だけれども、この『神話・伝承事典』は良かった。

キリスト教的な神秘性を一切顧みずに、ただひたすらに原初あった在り方を記述していく。

けれど、この本自体はクソであるというのが僕の判断になる。

まぁ、クソである部分を取り除いて玩味すればそれなりに旨味はある。

だとしても、この本のコンセプトである『失われた女神の復権』というエッセンスが駄目。

何故と言えば、記述内容全体が、「男性的な神の前には必ず女神が存在した」という願望を元に描かれているから。

少しでもそれをそうだと見いだせる瞬間がそのエピソードであったならば、他の種々の可能性は全て省かれて、女神が存在したという記述になってしまう。

だから駄目。

違う地域には違う考え方が存在して、違う根底がある。

それが唯物論的に全て女神が失われて群神の男神に代わって、唯一神が立つという発想を基本的に行う。

そう言った西洋的伝統的な発想が存在していて、それがあるならばその記述は疑うしかない。

疑ってそれを確かめると、大体そうとは言い切れなさそうという結論にしか至れない。

だから、この本は基本的に女神に関する記述は無視しなければならない。

だって、違う民族には違う伝統があるのだから、違う神話が存在していても何もおかしくないというのに、全ての民族の原初に女神が居て今はそれが失われているという方向性の記述しかない。

よって、信じるに値しない。

けれども、そんな神話を作ったのは同じ人間でしかないということがある。

僕は神話の学というものが嫌いだ。

ユングの流れをくむから、ユングの無根拠をそのまま根拠として扱ってるような部分がある。

ユングやフロイトの議論は根拠がない。

まぁ、カントもデカルトも根拠ないから、西洋的な合理主義的な発想の系譜になる。

僕はその無根拠が我慢ならないから、徹底的に廃絶する。

そして、願望も徹底的に除いていく。

除かないと『神話・伝承事典』みたいになってしまうから。

以下では、種々ある神話が実際どのようなものとしてあったかを書いていく。

まず、基本的に神話を作ったのは人間でしかないということ。

当たり前だと思うかもしれないけれど、神話に関係する本を読んでいるとそれが当たり前になっていない。

僕らと同じような思考形態しか持っていないのに、その神秘性と超自然性をさも存在するものが如く扱う傾向がある。

なんでそんな傾向があるかと言えば、昔はその方法しか語る術がなかったから。

今は普通にホモ・サピエンスが成立するに至る化石が見つかっているから問題ではないけれど、昔は神がある時点で人間を作ったと書いた聖書を信じる人々が神話を扱っていた。

だから、基本的に神秘性は信じるに値するものだった。

現代的な価値観で神秘性を考えると、統合失調症患者の妄言か、ホラ話、極限状態の脳が作った幻覚レベルでしかない。

今、急に系譜がない神話を話す人間が表れたなら、それは創作家か詐欺師かのどちらかしかありえない。

けれども、これが一度神話の話になると、その神秘性がさも正しいものであるというように扱われる。

理解が出来ない。

今も昔も、人間は人間のままだ。

僕は『史記』が好きだし、『グリーンランド人のサガ』を読んだし、少しだけマオリ族の神話を調べたし、ネイティブアメリカンの神話をいくつか読んだし、『ギルガメッシュ叙事詩』も読んだし、『シャー・ナーメ』の神話時代まで読んだし、アリストファネスの『女の平和』を読んだし、アイスキュロスの『テーバイ攻めの七将』を読んだし、マルクス・アウレリウス・アントニウスの『自省録』もさわりだけ読んだし、『古事記』も読んだし、古代ギリシア哲学も普通に勉強したし、古代インドの哲学もそれなりに勉強した。

彼らは共通する文化の基盤を持っていない。

けれども、やはりそこに描かれるのは人間しかいない。

微細な価値観の差はあるのだけれど、結局判断は人間的なそれしかない。

それは当たり前であって、人間の基本的な価値観は死を避けて、性に近づくという根本的な二つの動機に基づいているからそうなのであって、どこの世界の人間もそれを主軸に種々の行動を行う。

だから僕は、人間的な判断を神話の判断にも持ってくるべきだと思う。

人間としてそれがどうしてそうなのか、何故そう語る羽目になったのか、何故その語り口に安住したのか。

それを彼らもタダの人間であるという前提で書いていくことにする。

まず、基本的に神話は質問への答えになる。

我々は何処から来たのか。

古事記なら高天原から、聖書ならエデンの園から、インド神話なら…確か混沌からだったっけな。

仏教なら繰り返し繰り返しで始まりはない。

とにかく、僕らが普通に疑問に思うような、「自分たちは何処から来たのだろうか」という素朴な疑問に神話は答えを与えてくれる。

神話の答えが違うと思ったとしても、さりとて他の正しいそれを知らないから受け入れるしかない。

他には人は何故死ぬのか。

古事記ならイザナギがイザナミとの約束を破ったから、聖書なら原罪のせい、仏教ならつらく苦しいのがこの世界だから、って所なのだろうか。

そういった疑問への答えに神話の原初がある。

あとは意味不明な語り口だけれど、それは語っているのが人間だから仕方がない。

伝え聞いているうちに、話は煩雑になって原初は失われる。

僕の友人で野球が達者な人がいた。

栴檀若葉より芳しではないけれど、小学生のころから凄まじいバッティング技能を持っていたらしい。

それで、ホームランで学校の窓ガラスを割ったりだなんてことをしたらしいのだけれど、彼は成人してから自分が所属していた野球チームへ教えに行ったらしい。

すると、彼の話は子供たちに伝わっていて、なんでも学校にある銅像をホームランでぶっ壊したと伝わっていたとかなんとか。

これは良くある話だと思う。

僕らが普通に経験する出来事。

当然、神話の時代の人々も同じようにそれを経験した。

よく、神話では大洪水の話題がある。

なんだか、人類を揺るがした大洪水が人類の歴史に存在して、旧約聖書のノアの方舟は嘘じゃなかったとかなんとか。

これもそのレベルに過ぎない。

神話というものは、基本的に民族に依存する。

どういうことかというと、似たような神話が他の地域であったとするならば、それは同じ民族が違う地域へと移住した結果だという話。

移住というか、多くの場合はその神話を持った人々が侵略したという話に過ぎない。

日本の天孫降臨に近いエピソードが朝鮮半島にもあるらしいね。

マオリ族の神話に、黄泉の国の妻に会いに行き、その事から人間に死が生まれたという古事記と全く同じ内容のエピソードがある。

多分、ポリネシアの神話には多く同じ話があるだろうね。

日本はまず、縄文人がポリネシア人に侵略されて、その後に弥生人に侵略されて、そしてヤマト王朝の人々に侵略されたから、古事記のように入り組んでて訳が分からない神話が出来上がった。

ポリネシア人が何処まで北上したかは知らないけどね。

ローマ神話がギリシアの神々を受容したのも、普通にローマがギリシアを併呑したからに過ぎない。

支配層は被支配層の女を奪って娶るのだから、子供には二つの始祖を持つ話が受け継がれる。

基本的にこういう単純な構造しかない。

洪水神話についていえば、旧約聖書より前にアッカドの粘土板に存在するから実際にその一帯に大きな洪水があった云々語られるけれど、そもそも原初ではアッカド人も旧約聖書を書いたヘブライ人も同じ民族であったということに過ぎない。

同じセム語族系の人々で、違う地域へと移入して分布が広がったという話で、その共通の祖先にあたる人が酷い洪水の被害を経験したということに過ぎない。

彼らが住む地域を分かれる前に、農耕してたら都市がなくなる程の洪水があった。

これは記憶に残る。

それを子供たちに伝えていく。

伝えていくうちに、内容はどうなるだろう。

語り部である人間の伝えたいことは、その洪水のすさまじさや規模の大きさになる。

僕らが普通経験する対人間での話の膨れ上がり方でも相当凄まじいそれが存在する。

それを数百年、数千年単位で行ったらどうなるかという人間的な思考実験をすると分かることがある。

多分、その洪水はただの洪水でしかなかった。

まぁ、当たり前だけれどね。

地域一帯に起きた大きな洪水、というより、セム語系の言語を話していた人々が経験した洪水という出来事、でしかない。

このあたりの地域の人々について調べてみて、基本的に支配と被支配の構造しかなかった。

よく、シュメール人は何処から来たのか、宇宙人なんじゃないのかみたいな言説があるけれど、普通にセム語系の人々とは関係なしに農耕を始めたけれど、その肥沃な農地と耕す人が欲しくなったセム系の人々がシュメール人を襲撃して、命を取らない代わりに農作物を献上しろとした構造しかなかった。

そして、度重なる王朝の交代は、支配層の交代でしかなかった。

で、支配層は被支配層から女を召し上げるから、混血がどんどん進む。

シュメール人は消えてなくなった。

単純で人間的な構造しかない。

神話もそう言う人間的なものでしかない。

ある人間が、自分の事を大きく見せたかったとする。

ドラえもんのスネ夫じゃないけれど、父親が、または祖先がすごかったから俺も凄いと言うということは想定できる。

そして、その事に誰かが反論したとする。

男は全身全霊を以て激怒したかもしれない。

反論した誰かは、例えば僕が彼だったら、それ以上その話題には触れない。

その男は自分は相手をねじ伏せたと思うだろうか。

彼に子供が生まれたとする。

子供には自分の祖先がいかに偉大かが教えられるだろう。

子供は基本的に親を疑わない。

よく、この場面の事を洗脳と呼ぶけれど、洗脳と教育に本質的な差はない。

彼は息子に自分の偉大なる祖先の事を教育する。

これは民族の歴史のどの時点で起きたのだろうか。

それは分からないけれど、一度起きたならば、以後はそれが受け継がれ続ける。

人間は自分が偉大なものに所属していると知ると快を覚える。

日本の右翼の人々は、日本が如何に素晴らしいかを喧伝して回って、自分自身も日本が素晴らしいと思っている。

例えばそのように、基本的に人間は自分が何か強大なものに庇護されていると快の感情を見出す。

これについて僕はその理由を考えたのだけれど、人間は誰しもが子供だったからだろうという結論に至った。

誰しもが経験として親に庇護されて安楽に生きて、そこに快を見出したという体験が存在している。

まぁ、大体の人はそれを経験しているし、時代が古ければそのように親の庇護が得られない子供はみんな死んでいた。

だから基本的に人はそのような庇護について快の感情を見出す。

それ故に右翼の人々は天皇を敬うし、『シャー・ナーメ』でジャムシードという王は神より自分が偉いと宣言したかどで殺されたし、ルイ13世は絶対君主の身でありながら、神の下に使える王として権力をふるった。

キリスト教では父なる神に守られているという教説を取るけれど、これも同じ心理的な構造のもとの認識の誤作動であると思う。

とにかく、人間はそのような偉大さについて、自分をそれに預けるという行為に快を抱く。

だから自分の祖先が偉いから自分も偉いと勘違いする。

あと、偉いというのも人間的な判断で、偉い人間は偉くない人間に比べて、はるかに多くの利益を得ることを人間は知っている。

それを得るために神話がある。

基本的には人間的な構造しかない。

多くの神話の中の事柄も、そう言う風に利益の問題で語れる。

語れるのだけれど、原初あった目的とは離れて神話が存在する可能性が高い。

僕は色々日記に書いてきたけれど、書こうとした内容が本当に確かかどうか確かめてから書いている。

結構ね、その確かめる段階で自分がいい加減な理解しかしてなかった、というか本にはそんなこと書いてなかったみたいな場面が多い。

そうなるとその日記は没になるのだけれど、それはあくまで本という再アクセス可能な媒体があって、書く側がそれをしっかり確かめてから書いたというプロセスがあって初めて成り立つ。

昔の人は本なんかないから、確かめようがないから適当なことを言うしかない。

で、聞いた人はまたそれをいい加減に聞いていい加減にまた伝える。

それが神話だし、それが宗教になる。

結局、宗教の種々の流派の教えについて僕がどのそれを見ても思うことは一つしかない。

「こいつらまともに読んでねぇ…」ということ。

読解力の問題でしかない。

書いてないんだもの、そう言う風な原典に。

良く内容を理解してないで適当なこと言うから、色々な宗派が生まれるし、そのような事は宗教では信仰心さえあれば容認される。

僕だって同じ宗教を信じている仲間がいて、その人はもの凄い熱心だとしたら、多少間違っている解釈をしても咎める気にはなれない。

人間だから。

結局、宗教も神話もその現場には人間しかいない。

詳しい出来事、その神話や宗教がその様になった経緯は知りようがない。

それを知り得る材料が残っていないから。

けれども、それを作り上げて、それを伝えて、それを捻じ曲げたのは人間しかいない。

当たり前のことだけれど、誰しもがその当たり前を問題にしない。

哲学だってそうだ。

誰しもが、カントが間違っていることをなんとなく気づいている。

けれども、その事を誰しもが問題としない。

それは彼らが人間だから。

人間として、先人たちが肯定したそれぞれを声を大きくして否定する気が起きないから。

もっと人間的なレベルに話を変えると、ある漫画…アニメでもいいのだけれど、それのファンクラブがあったとする。

そのファンクラブでの集いで、一人が作中に描かれていないことを妄想して熱心にその素晴らしさを語ったらどうするだろうか。

多分、ことさら否定できない。

同じファンとして、そういうことはあまりしたくない。

今まで一度もなかったけれど、僕がもし他のなるたるの考察サイトの人との交流があったとしたならば、その人の考察を無碍にして一切合財否定してこき下ろすなんてことは出来ない。

人間だから。

これは哲学でも宗教でも同じ。

けれども、僕はひたすらにそのような人間的なものを恨む。

それがひたすらに物事の正しい在り方の認識を歪めるから。

僕は人間的な判断も必要だとは思う。

けれども、正しいものを正しいと認識する瞬間には絶対にいらないと理解できている。

それを徹底してやれば全てのことがもっと分かりやすくなるのにな、と夢想するけれどそれが叶わないということも理解している。

彼らが人間だから。

人間である以上、相手を否定することは不利益な場面が非常に多いから。

僕はそのどうしようもなさを考えると虚しくなるけれど、こういう風に日記に書くのは僕の自由なので書いていく。

どーせほとんど読まれてないしね。

そんな話。

では。