日記を更新する。
本当に日記更新するなら、色々あってウイグル料理を奢ってもらった話とかした方が良いのだけれど、キャンセルだ。
まぁ、書きたいこと溜まってるからね。
読んでいる人が読みたいことではないけれど。
ちなみにウイグル料理はスッゲー旨かったゾ。
あぁ!うめぇな!って感じに。
プラスチックと金たわしの破片入ってたけどな。
スッゲー旨かったゾ~。
もう満腹だからキャンセルした小龍包が平然と運ばれてきたけどな。
いや、味は本当においしかったです。
さて、表題通りの話を進めていく。
普通に、タイトルで分かるとは思うけれど、前回の日記に関連することになる。
前回の日記では、人間の無意識的判断というものは言語的な判断より信頼を置くべきであるという話だった。
けれども、今回はその彼が実は多くの事を知っていないという話をする。
彼っていうのはその無意識的判断をする自分のことです。
彼は知っている事しか知らんのです。
意味が分からないと思うけれど、以下ではそういう話をする。
長くはならないと思う。
基本的に僕らは長い歴史の中で多くの事を学習して、それを身に着けてきた。
仲間を殺さない、眠かったら寝る、けがをしたら休める、危険なところには近づかない。
これらは別段言語による判断は本来的には必要なく、なんとなく選択される当たり前の行動に過ぎない。
何故これらをの選択をするかと言えば、その事で生存に対する利益があるから。
前回書いた通り、人間は基本的な二つの原則、死を避けることと性に近づくこと、その二つとそれに対する認識の誤作動で全てが成り立っている。
というか、ありとあらゆる問題に於いて、その前提を当てはめたならば語れてしまう。
神が何故存在するかと考えたならば、生存のためにどのように神概念が良く作用するかは散々に書いてきた。
絶対的な理由がなければ相手を納得させることは出来ないけれど、神は疑ってはいけない主体なので、神の言葉という設定にすればそれは理由になる。
よって、神は道徳の権威になったし、神を疑うことをキリスト教は禁じたけれど、疑わない方が利益が高いという話に過ぎない。
これらはその微細な領域までに言語活動は必要なく、無判断無言語に神を信じれば利益が上がったからそうしているに過ぎない。
そう言う判断は言語に先んじてある。
どうやって獲得されただろう。
長い年月をかけたケーススタディの結果に過ぎない。
一般的な進化論では獲得形質は遺伝しないことになっているけれど、僕はそれはまだ解明されていないだけで遺伝すると考えている。
そうと考えたなら、急速な所謂進化を簡単に説明できるし、都合の良いものだけが残っているという現状、まさに神が設計したと思えてしまうような精密なそれも、今までの無限の偶然の積み重ねによる結果と考えることより遥かに分かりやすい。
けれども、遺伝子は経験したことしか受け継ぐことが出来ない。
なんだ、当たり前のことじゃないかと思うかもしれないけれど、実は結構重要なことになる。
本題に入る前に、僕の話をする。
僕は関東に住んでいるけれど、冬になると酷い手湿疹に悩まされる。
毎年、毎年だ。
手に湿疹が出来てしまう。
努力の問題じゃない。
何をやっても出来てしまった。
それをもう20年以上やってきた。
でも、ある一時期、手湿疹が出ないことがあった。
けれども、今はまたできるようになった。
その手湿疹ができない時期というのはどんな時期だったかというと、僕は現在木造の築六十年越えのぼろアパートに住んでいるけれど、冬になるとやたらに湿気が出る。
木造だとそういうことがままあるらしい。
なので、毎年毎年布団を腐らせていた。
その時期に手湿疹は出ていなかった。
シャワーを浴びたとして、その湿気が部屋から出ていくことがないのだから、布団が腐るのは当たり前と言えば当たり前だった。
そして近年、除湿機を導入した。
結果、布団は腐ることはなくなった。
代わりに訪れたのは手湿疹だった。
どうも、そもそも手湿疹というのは乾燥によって引き起こされるらしい。
僕の手は結構湿気が多い。
どうやらその状態がデフォルトなのだけど、冬になって乾燥して手の湿気が失われると手湿疹ができるらしい。
布団を腐らせていたあの頃は、部屋の凄まじい湿気によって東京の乾燥した空気が僕の手から水分を奪うことを防いだらしい。
何の話だ、と思うかもしれないけれど、これこそが今回僕が問題にしたい事。
遺伝というものは想定している範囲でしか優位な選択を行えないということ。
僕の祖先は隼人という蛮族であって、彼らは元々台湾に居た。
オーストロネシア語族の人々で、果てはマダガスカルやニュージーランド、イースター島に到達した人々になる。
彼らの末裔であると自分を考えて、この湿気を多く持つ手というものを考えると、成るほど意味が分かる。
手に湿気が多いほどにモノを掴むときに摩擦が生じやすくなってものが掴みやすくなる。
そのように湿度が多い地域ではむしろ有利な特質になる。
けれども、ここは東京だ。
酷い乾燥に晒される僕の手は、それに対応しきれずに湿疹を起こしてしまう。
ちなみに、僕の父も兄も冬場になると手湿疹を起こす。
その両名も、そして除湿機を導入するまでの僕も、何故手湿疹が起きるのかは理解できなかった。
けれど、今回の話の通りだと思う。
気温が高く湿度も高い場所では全く問題がなかったけれど、関東の乾燥した気候では不備が出る。
オーストロネシア語族の人々は湿潤で温暖な所に住んだ。
これで分かることは、生物というのは想定していない状況に対してどうしようもできないということ。
これからもしかしたら、手から湿気が減っていくような変化が次の世代あたりに起きるのかもしれないけれど、分からない。
とにかくわかることは、遺伝子は想定していない状況に対しては対応しきれないということ。
それは同じように動物的判断、無意識、言語による判断の前の判断でも言える。
まぁ、構造としては体の違う場所という話に過ぎないのだから、当たり前なのだけれど。
僕は、鬱病に意味があると思った。
他の多くの事柄、怒りや悲しみや、筋肉痛や胃痛、頭痛や発熱などと同じように意味があると思っていた。
これらは一々全てどのような意味があるかとかは今さら書かないけれど、それがあった方が良いからある。
怒った方が良いから怒るし、悲しんだ方が良いから悲しむ。
酷使するなと筋肉は、胃は、頭は警告を発するし、発熱は病原菌を殺すための防御反応だ。
これらは苦痛でしかない。
だけれども、意味がある。
だから、僕は鬱、そして絶望にも意味があると考えていた。。
けれどもそれは僕の間違いだった。
体は知っている事しか知らない。
鬱の話について、僕は運動すれば治ると書いたことがあるけれど、それは必ずしも正しくないと分かった。
同じ鬱病でも、異常をきたしてる脳の部位が違うということが分かった。
まぁ、これでも読んでください。
http://logmi.jp/11687
つまりは、僕や鬼頭先生の場合の鬱病の時は、運動が最も効果的だという話に過ぎない。
だから、鬱病全般の話をすることは出来ないのだけれど、とにかくこの鬱病について書きたい。
人間は長い歴史の中で、色々な事を学習習得してきた。
けれども、その歴史の中で、体を動かさずに食料を得られた時期というのはどれほどの期間、存在しただろうか。
食料を得るには狩りか、はたまた歩き回ることを前提にした採取しかありえなかった。
運動なしには食料を得られなかった。
運動せずに食料を得るだなんてそんなもの、農耕が始まった以降で、更にその農耕によって不平等と階級が生まれた後でしかない。
つまり7000年くらいまでしか遡ることは出来やしない。
要するに、そんな状況を肉体はご存じないということ。
肉体はそのような運動不足で不調を覚える。
けれども、長い長い歴史の中で、そのようなシチュエーションを経験したことが存在しない。
なので、どうすればいいか分からない。
とにかく異常であることも分かるし、その為にどうすればいいのか言語野以外の脳もひたすらに勘案するのだけれど、たどり着けない。
その果てが僕や鬼頭先生、そしてキルケゴールの鬱病になる。
まぁ、キルケゴールの鬱病の原因は知らんけどな。
答えが失われたという感覚、鬼頭先生の言葉だとパズルピースは紛失中だな。
どうにかしなきゃならないと思うのだけど、どうすればいいか分からない、それが鬱病になる。
あの感覚は凄まじい。
思い出したくもないね。
けれども、不調であるということは理解できるので、脳と肉体はその警告を発し続ける。
すると、その警告によって蝕まれる。
酷い話だ。
けれどもどうしようもない。
長い歴史でその事を学習する機会なんてありえなかったのだから。
どのようにシュミレートしても、食料生産より前に、運動なしにして食料を獲得する成体なんてものを想定できない。
だから、全ての事柄は、運動をするという前提で成り立っている。
よって、鬱病は鬱病たるということ。
まぁ、仕組みは簡単なのだけれど、それは分かってしまえばという話で、当時どうできたわけではない。
人間というものは想定している範囲でしか対応できない。
『のりりん』でも自転車を乗る時はヘルメットをかぶった方が良い、何故なら人間は走る速度までしか想定して出来てないから、自転車の速度で頭ぶつけたら死ぬ、って話がある。
今、引用しようと思ってのりりん読んだけど、碌に読んだことないからページ拾えなかった…。
代わりにのりりんの主人公とぼくが同じ中学ということが分かった。
えぇ…。
まぁ良い。
・追記
拾い出せました。
(鬼頭莫宏『のりりん』2巻p.40)
つまり想定している事しか対応できないということ。
同じような事は絶望にも言える。
つまり、僕は絶望にも意味があって、その深い苦しみがあると思っていた。
けれども実際のところは恐らく、絶望とは悲しみの限度を超えた状態で、結局そんなものを想定して人間は出来ていないから耐え難いということに過ぎない。
悲しみは何故必要なのだろう。
悲しみがなければ、簡単に人間は愛しい何かをないがしろにできてしまう。
愛する我が子がいたとして、悲しみがなければその子供が死んでも何も思わない。
けれども、悲しみがあればその我が子を失うという悲しみを避けるために様々な行動を取ることが出来る。
よって、悲しみはちゃんと意味があってある。
けれども絶望はどうだろう。
人間が絶望する多くのシチュエーションを頭に浮かべてみた。
そして次に行うのは、それがミクロバンドの社会でも起きえたのかということの勘案だった。
当然、いくらかの絶望はある。
例えば群れから追放されて完全に孤独になって、死を迎えること。
その絶望を避けるために、人間は孤独を恐れるわけだけれど、その絶望はその死から逃れられた場合のみしか遺伝していない。
つまりこの絶望は、想定している絶望であって、その想定はまた仲間を得ることが出来るということになる。
では他の絶望はどうだろう。
震災があった。
多くの人が一度に死んだ。
これはミクロバンドの社会ではありえただろうか。
あり得ない。
家族集団は100人もいない。
この絶望の質量を、人間は学習しきれていない。
だから、絶望して未だに立ち直れないなんてことがあり得てしまう。
他にどんな絶望があるだろうか。
けれども、多くの絶望はミクロバンドの社会ではありえたことではなかった。
だから、その絶望に対して個体はどうすればいいかの答えを出すことが叶わない。
そして、おそらくその絶望には答えがない。
僕の感情はその世界からの拒絶に嫌悪感を抱くけれど、おそらくはない。
耐えるしかない。
耐えられる道理が存在しないとしても。
まぁ、もしかしたら上記のURLの治療でどうにかなるのかもしれないけれど。
という日記。
どうなんだろうね。
どうせSKZ兄貴しかコメントくれないから、あんまりなぁ。
あと、兄貴とは別にそう言う言葉遣いでやり取りしているけれど、付き合う必要は、ないです。
あの汚らしい言葉遣いのせいでコメントがないのかなぁとふと思った瞬間もあったけれど、元からなかったことを思い出した。
アメブロ換算で先月24万アクセスのあのサイトの方も、先月は2件しかコメント無かったから、コメントを求めるのがそもそも烏滸がましいのかもしれない。
そんな感じ。
では。