これは2週間くらい前に書いたやつを修正したやつです。だから、まぁ多少はね?
古代日本史のことはもう書かないと言ったな、あれは嘘だ。
twitterでそう言ったのだけれど、2000~3000字程度で少し書きたくなった(追記:大嘘)。
色々、古代日本に朝鮮半島からの侵略があったという前提で色々な情報を見ていると、なんだか不思議なくらいに矛盾がない。
というより、辻褄が合う。
色々な細かいことが、あっ…(察し)となる。
朝鮮半島から騎馬技術と鉄器を持った人々が日本に侵入してその一番偉い人が天皇になったと考えると、なんというか不備が一切ない。
百済の移民受け入れとか、普通に意味が分からないわけであって、それが宗主国なら何にもおかしくない。
アメリカが大戦でイギリスと一緒に戦ったことを考えればそう言うものだと分かる。
そこら辺は詰めて色々調べてないから分からないけれど、百済の王から血縁の遠い豪族が日本へ植民したんじゃないですかね。
ただまぁ、古墳時代以降は分からない。
綿密にやってないからね。
一方で古墳初期まではかなり綿密にいろいろやった。
まず間違いないことは、前から住んでいる米作りを生業にしていた人々は、後に朝鮮半島からの侵略者に併呑された。
日本に前から住んでいると言っても、元は侵略者なのだけれど。
系譜としては『魏志倭人伝』に出てくる人たちですね。
刺青をしていると思う。
最初に日本に米を持ってきた人たちというのは、まぁ元々中国でコメ作りをしていた人々になる。
普通に考えて。
アメリカの植民者はインディアンに農耕を教えなかったわけであって、奴隷労働以外で現地の人にそういう技術を与えたという例を僕は知らない。
だから、普通に農耕技術を持った人が日本に上陸したとしたら、彼らは現地人を奴隷労働にしない限りでは邪魔になったら殺していた可能性が高い。
今の価値観だと酷い話だけれど、普通に考えてそうでしょ。
とにかく稲作の文化を持った人々が北方の諸民族に負けて押し出されて海に出た。
そして日本で稲作を行った。
けれども、それらの弥生人と古墳を作った人々は違う人っぽい。
大体さ、埴輪は古墳とセットだけれど、そう言う風に死者のために従者としての塑像を作るのは中国の文化であって、俑と名状されて、華北の文化になる。
いや、普通にさ。
で、巨大な王の墓と言えば秦の始皇帝とかが有名だけれど、兵馬俑は始皇帝のために作られた土づくりの兵士たちの像になる。
そうした俑の起源が何処かは知らないけれど、そもそもに中国の方の文化ということ。
良いんだよ?別に。
まったく同じようなものが日本でも生まれたと考えても。
だとするならば、その過渡期のものが存在するはずなわけだけれど、僕はそんなものを日本で出土したと聞いたことがない。
まぁ、埴輪については大陸から伝わったと分かっているけれど。
そして、この過渡期について言えば、縄文人と弥生人にも同じことが言える。
縄文土器と弥生土器に過渡期はない。
普通に、縄文土器をつくった集団が弥生土器をつくる集団に滅ぼされたと考えるしかない。
何故なら、弥生土器が出てくるようになると縄文土器が出てこなくなるわけであって、では過渡期があるかないかと言えばない。
じゃあ、もう版図が塗り替わったと考えるしかないわけだけれど、それを古墳では何故か皆そうとは考えない。
理由が分からない。
それとも墓制だけ輸入したというのだろうか。
キリシタン大名でさえ日本式の墓を選んでいるのに。
弥生土器を持っていた集団は銅器までしか持っておらず、騎馬技術もなかった。
弥生土器の次は土師器なのだけれど、土師器の説明を読むと弥生土器の延長にあると書いてある。
けれど、それがこの地域の最高技術だったと考えれば、別に何もおかしくない。
その当時、殊土器に関して言えば弥生土器形式が限度だった。
だから弥生人も古墳を作った人々も似たような土器を使った。
土師器の次は須恵器だけれど、この時点でやっと土器の技術のブレイクスルーがあったんじゃない?
知らないけど。
そういう風に普通に弥生人は騎馬民族に侵略されたのだと思う。
まぁそれでもそうした弥生人たちは土着の人々よりは有利だったんだろうけれど。
その前段階で普通にこの人たちも侵略してるし。
鹿児島の方は知らん。
侵略して、そのまま芋を作らせて奴隷として扱ったかもしれないし、そもそもに鹿児島侵攻に意味を見出さずに放っておいたならば、隼人というか僕のご先祖様はオーストロネシア語族の人々ということになる。
長い事蝦夷地は放置されたし、そういうことはままある。
混血が後世では進んだから、何て言うかもう分かりようもない話だけれど。
どの時点で血が混ざったかなんてわからないし、分かった所で何も意味がない。
弥生人に併合されたか、大和王朝の人々に併合されたかの違いしかない。
ただなんだかオーストロネシア語族の人っぽくはある。
まぁいいや。
で、そうやっていざこざも込々で弥生人が暮らしていると、大和王朝の人々が上陸する。
弥生人って括りだとヤマト王朝の人も弥生人だけどな。
具合の良い土地は既に先住民が占領しているから、普通にバイキングみたいに上陸して殺戮したと思う。
で、奴隷として殺さないで置いた人々を農奴として使う。
北九州のどのあたりだろうね、この出来事。
天孫降臨のエピソードから拾い出せるんじゃない?
でも適当だと思うよこのエピソード。
山から君臨したほうがカッコいいけれど、九州は碌な山ないもの。
というかそもそも、元居た民族集団に天孫降臨のエピソードは間違いなく存在する。
世界中で日本と朝鮮だけにしかないらしいね。
で、その天孫降臨のエピソードを語ろうと思ったけれど、良い山がないから適当な山にしたんじゃない?
そういう風に後の時代に適当に書いたのだと思う。
で、北九州のどっかで根城作って適当に人口伸ばして、次は阿蘇か出雲かに行く。
阿蘇氏は神道の神官なのだけれど、仏教徒ではなくて神社関係のそういう宗教の権威ということは、普通にヤマト王朝の関係者ということであって、そこを征服した時に置かれたのだと思う。
神道は日本古来の宗教だけれど、大和王朝の人々の信仰なわけであって、王権と宗教的権威はセットである以上、それ以外ない。
王の権威と宗教の権威はほぼイコールだし。
自分と一切関係ない民族の長をそのような自分の宗教の権威に置いた例を僕は一つも知らない。
ピサロとか、新大陸の人々をゴミ屑みたいに殺しているわけであって、現地の人たちは持ってて銅器までなのだから、普通に野蛮人でしかない。
そんなの滅ぼされる在り方以外僕は知らない。
で、阿蘇を征服した後は…まぁどっちが先かは知らないけれど、出雲に行く。
出雲は古代日本だとやたら重要視される場所だけれど、これって普通に早いうちに支配下に置いて、大和王朝の王にあたる人の親族に統治させたというところが実際だと思う。
色々古事記のエピソード読んでもなんだかよく分からないけれど、結局出雲も神道系だし、出雲大社という神道の施設もあって、神道はヤマト王朝系の宗教なのだから、そう考えた方が良い。
僕は何故そう考えないのかが分からない。
で、そのまま東進を続けて、近畿に腰を下ろす。
穀倉地帯だったんだろうね。
それまでの間、北九州はどういう統治してたんだろうね。
まぁいいや。
その後は西に行ったり、東に行ったり。
このあたりになると記紀に記述が見られる。
その記述の中で、九州の山門(ヤマト)という場所で、蛮族の女首領を討ち取ったという記述があるらしい。
あぁ…ここが邪馬台国だったんやな、って。
なんで北九州に上陸した直後にこいつらは滅ぼされなかったかは知らないけれど、神功皇后の東征の記述にそういう風に書いてあるらしい。
ダライ・ラマだって数百年特殊な世襲制を行っているのだから、違う場所のある民族が毎回女を首魁に置くような政治形態を持って居たとしても何もおかしくはない。
第一、魏志倭人伝を読む限り、女の首魁じゃなきゃ大乱が起きるんだから、それを続ける必然性しかない。
だから、山門という場所でその社会形態をヤマト王朝に滅ぼされるまで続けていたと考えて何処にも不備がない。
普通に考えて、卑弥呼が天皇の系譜である必然性は特にない。
ていうか、系譜であると考えるから意味不明な議論が起きる。
邪馬台国近畿説ってそういうことでしょ。
願望論は本当に害悪だと思う。
僕はこの記事に一切の願望を入れていない。
普通に、僕らが中国人だとして良く分からん島を調べるとしたら、第一村人発見の時点で取材開始すると思うの。
数百のクニに分かれていた、とかいう記述がある以上、碌に統制なんて取れてなかったんだから、近畿から九州まで同じ勢力圏と何故考えるのだろうか。
しかも彼らの身体的な特徴は、大体昔中国に居た人々のそれになる。
刺青とかして稲作してたからね、追い出された中国人。
でも、後の平安時代の人たちは刺青なんてしてないんだから系統が違うとはなぜ考えないのか。
僕は実際読んだわけじゃないけれど、日本書紀には刺青をしている現地の人々を見て驚いたって記述もあるらしい。
ヤマト王朝を作った人は刺青をしていなかったらしい。
でも、弥生人は稲作をしていた人たちだから、刺青をしていたのは弥生人ということになる。
ヤマト王朝の人々の名前が欲しいなぁ…。古墳人とかで良いんですかね?
とにかく、民族の系統が違う。
ヤマト王朝の人々は元々中国北方に居た人々。
古墳はスキタイとかの文化であって、俑の系譜にある埴輪は華北の文化であって、彼らは鉄器と騎馬技術を持っていた以上、普通にそう言う地域から来たと考えた方が良い。
僕は何故そう考えられないのかを答えられない。
鉄器は必ず古墳から出土して、反面甕棺墓からは銅器までしか出てこない。
首を刈られた遺骸が出土している吉野ヶ里遺跡でも銅器までなのだから、普通にヤマト王朝の人々と敵対してこの様だった可能性が高い。
あと、詳しくは面倒だから書かないけれど、卑弥呼の時代から100年くらいでヤマト王朝の人たちは上陸したみたいね。
その直後に中国は三国時代に入って自分のことで手いっぱいだから日本の記述がなくなる。
記述がない間に、粛々と日本を征服したらしい。
つーてもまぁ、関東への進出は結構時間かかったみたいだけれど。
で、弥生人の話に戻るけれど、彼らはぬののふくを着ていた。
貫頭衣というものなのだけれど、こういうの。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160428/08/ziro-irisa/ed/18/j/t02200330_0400060013631021985.jpg?caw=800)
(http://www.ranhaku.com/web04/c2/5_03jomonjin.html)
このこと書こうと念のために「縄文人 服」で調べたら「土偶はズボンを穿いている(よって縄文人はズボンを穿いていた)」って記述があって動揺した。
で、心配になって土偶を画像検索したけれど、ズボンを穿いていると断言できるそれはなかった。
あ、画像は縄文人のそれです。
弥生人で検索すると古墳を作った人々が引っかかるからもうどうしようもない。
弥生人はそんな感じの服を着ていた可能性が高い。
まぁ、『魏志倭人伝』にも書いてあるしな。
普通に、ズボン何てめんどくさいものを作る必要性がない。
じゃあ、なんでズボンが現われるかと言えば騎乗の為になる。
馬に乗るにはズボンが必要になる。
趙の武霊王も騎馬を取り入れる時にズボン様の服を導入している。
それまで上の画像が文明的になったような服を着ていた。
現代は結構ズボン穿いてるけれど、ズボン何てつくるのは面倒なわけであって、布そのままで出来る衣服の方が利益が高い。
というか、縄文人や弥生人がズボンを穿く契機が僕は分からない。
一方で、埴輪を見てみる。
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20160428/08/ziro-irisa/3a/72/j/t01710295_0171029513631025212.jpg?caw=800)
(http://www.city.ota.gunma.jp/005gyosei/0170-009kyoiku-bunka/bunmazai/otabunka26.htmlより)
しっかりズボンを穿いている。
まぁ、あからさまに足つくるのめんどくさくなったタイプの埴輪は別だけれど、とにかく彼らはズボンを穿いている人々ということが分かる。
そう言えばギリシア人は馬持ってたのになんでズボンじゃないんだろう、って思ったけどあいつらが使ってたのは戦車か。
あと中国人もズボンじゃないのはあれも戦車使ってたからか。
結構単純な話なのかもしれない。
そういう風に、何個も何個も状況証拠ばっかり持ってきているけれど、単純な話で、これらのことがある以上、普通に彼らは朝鮮半島から渡ってきたと考えた方が分かりやすい。
無理だよ、これらの文化だけ受け取って日本を建国しただなんて暴論。
まぁ、普通に感情的には僕だって嫌だけれどね、そんな天皇が朝鮮人だとか。
あと、騎馬民族が半島から渡ってきたって事には『古墳文化と古代日本』という参考文献があるけれど、それ以外は僕の独自研究【要出典】です。
正しいかどうかはご自身で精査してください。
あとね、前にちょっとだけジャレド・ダイアモンドの話をしたけれど、彼の『銃・病原菌・鉄』という本には、日本語版では削除された項があるらしい。
それは何かと言えば、古代日本に於いて朝鮮半島からの侵略者がアイヌを征服したという記述。
えぇ…(困惑)。
ちなみに、前の古代日本史の事を書いた時は、『銃・病原菌・鉄』を読んではいたけれど、日本語版で削除された章については一切知らなかった。
それを知った時は困惑が隠しきれなかった。
だって、「あーあ、ジャレド・ダイアモンドあたりがしっかり本にして説明してくれれば、こんな信仰みたいな古代日本史の理解が晴れて、天皇が朝鮮半島から渡ってきたってはっきりするのに」と僕は思っていたから。
ていうか、やりはしないけれど、手紙出そうかなぁと思ったことすらあった。
けれども、最初から書いてたんですね…。
僕は全く偶然に別途でジャレド・ダイアモンドと同じ結論に至ったということです。
で、前に懸念したとおり、日本では出版できなかったんですね…。
まぁアイヌ人ではないけどな、原住民。
あと、ジャレド・ダイアモンドを読むならアマゾンレビューもセットが良いと思います。
実にその通りだと思える意見を書いていた人がいました。
彼の指摘は間違いなく正しいので、『銃・病原菌・鉄』とかを読むならついでに読んでおいた方が良いですね…。
まぁ、僕自身、ジャレド・ダイアモンドのガバガバ記述には気づいてたけどな。
ダイアモンドは著書の中で、中国唯一の文字である漢字が云々言ってるのだけれど、普通に漢字以外にも文字がある。
漢字は秦の文字の系譜だけれど、それとは別に楚にも文字があった。
ダイアモンドはそれ知らなかったみたいですね。
あと、戦国武将が名乗り上げて戦ってたとか書いてある。
普通に元寇の時ですら名乗りは上げてなかったんだよなぁ。
まぁそう言ったガバガバなところを加味しても、十分面白いからおすすめだけれど。
ふぅ。
疲れてきた。
かなり書いたな。
まぁいいや。
では。