倫理学というくだらない学問について | 胙豆

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傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

そういえば、ニコニコ動画になるたるのアニメの本編が「ホモと見る」というタイトルで投稿された。

その結果、昨日のあのサイトのアクセス数が46,301だった。

ヴォ―スゲー。

このサイトの総アクセスより多分多いんだよなぁ。

まぁいいや。

今日は、倫理学について。

前に倫理について書こうとして5000字消えたけれど、どういう話をしようとしたか忘れちゃったよ。

まぁ、内容はいつもの根拠なしのあげつらいだったと思う。

そして今回も倫理学の根拠なしのあげつらい。

倫理学は根拠がない。

僕は、数ある哲学の分野の中で倫理学はマシなクソだと思っていた。

実際的な問題、道徳、人がどうあるべきか、等々の内容を倫理学は行うわけだから、使えるクソだと僕はある一時期考えていた。

けれども、いつものやり方、人間の原初的な価値判断、動物的なそれ、ミクロバンドの世界で想定されるそれを用いて倫理学を諮ってみると、果たして根拠なんてものが存在しない。

彼らの議論について、それを行うとすると彼らと同じ土俵で彼らと同じ知識で、彼らと同じ前提で議論を進めるしかない。

彼らが前提としているモノを前提として、その前提が上に築き上げられた問題設定を共有してそれをどう解決するかを議論する。

それが倫理学。

けれども、僕はその彼らの前提としているものが果たして本当に正しいかを問題にした。

すると彼らの問題は、砂上の楼閣、砂のお城の上のお話、いやそんな確かなものが存在しない、空白の上に成し遂げられているということを理解した。

彼らは色々な前提を持ってくる。

人が平等であるにはどうすればいいか、これを議論するならば、平等であることがある意味正しいという前提がある。

けれども考えてもらいたいのだけれど、平等であることは果たして本当に是なのだろうか。

僕は何故平等でなければならないか答えらえれない。

周りの人間が貧しくても、その事で妬みや僻みなどの不利益を被らないとしたならば、何にも問題はない。

ないよね?

だから別に平等であるということが正しいということもないのだけれどそれが前提になるし、その事が正しいという前提でよりそれを確実にするためにはどうすればいいかという議論が行われる。

けれども、何で平等でなければならないのか僕は答えられない。

半面、平等であることを声高らかに喧伝するような人間が多くの利益を得るということは理解できる。

倫理学ではこのような状況が非常に多い。

つまり、そう言っておいた方が利益が高いような事柄が多く、換言すれば耳触りの良い発想が前提になることが多く、何故その事が耳触りが良く聞こえるのかという吟味は行われない。

更に言えば、彼らはそれがただ単に耳触りが良いから採用されているということに気付いてすらいない。

僕は空恐ろしさと空悍ましさを倫理学から感じる。

自由の問題について。

自由であるというのが西洋哲学の前提になる。

では、何故自由でなければならないのか。

何せ、キリスト者は全員神の奴隷なのだから、自由である必要はない。

けれどもやはり、自由を声高らかに喧伝する人間は得る利益が高い。

よって、僕はその自由という発想は利益の問題でしかないと判断している。

それにそもそも、人間は自由ではない。

何代も前の世代に受けた征服、それによって年貢や上納金、税金と引き換えに命を取ったというだけであって、税金を払っている以上別に自由ではない。

天皇は税金を払っているか?

払っていない。

そういうことでしかない。

天皇に征服されて僕らは命と引き換えに税金を払っているに過ぎない。

だから、僕らは自由でもなんでもないのだけれど、哲学では倫理学では自由である前提で議論が進む。

意味が分からない。

けれども、彼らはその疑問を抱かない。

何故なら哲学の学がそう言う構造になっているから。

どういうことかというと、疑問をさしはさむ前に多量の質量の情報を一気に押し付けられてそれを脳に刻み込んで、それを吟味する前に色々な事情が目の前に来る。

大学の哲学科という一つの例を取ってみれば、試験のために色々な事を覚えるのだけれど、覚えたら即座に演習だ。

演習では得た知識を使ってそれが正しい前提で意見の交換を行う。

そしてレポートを書いて、合間にバイトしてサークル活動をして生きていく。

気づいたら卒業論文だ。

その後は院に行くのも良い。

院に行ったなら同じような繰り返しに更に難解な内容の学問、そして哲学科ならドイツ語かフランス語か、英語は前提だからそれも勉強しなければならない。

自分でその事が正しいかどうかを吟味する時間はない。

ショーペンハウエルは「読書は他人に代わりに考えてもらうことだ」と述べて、本を読むだけで考えない人を批判したけれど、その訓示を誰も受け止めていない。

いや、おそらくは受け止めていると思い込んでいる。

僕だって思い込んでいるんだから、ショーペンハウエルの『読書について』を読んだ人は皆きっと思い込んでいる。

でも実際はどうだろう。

倫理学の前提について吟味はしたのだろうか。

していない。

「最大多数の最大幸福」という概念がある。

これは、幸せな人が多ければ多いほどそれは素晴らしい事なのだから、一人でも多くの幸せな人を作りましょうと言う発想になる。

随分と耳触りが良い。

それはすなわち、疑ってかからなければならない。

僕はこの最大多数の最大幸福が間違っていると断言する。

何故なら、顔も知らない名前も知らない誰かの幸せなんて、僕にとっては心底どうでもいいからだ。

半面、何故どうでもよくないのかを僕は語ることが出来ない。

結局、人間は貪り搾取する形でしか利益を得られない。

農業だって、無限に見せかけて土地は痩せていくし、土壌は農業をすれば必然的に流れていく。

いつかはすべて失われるけれど、誰しもがそれが失われないものだと錯覚している。

幸福も大体同じようなものだ。

儲かっている人が居れば、損している人がいる。

損している人が居なかったら、鉱物や資源が失われている。

サービス業は知らんけどな。

つまり、私という個人が幸福である場合、多くの時に他の人の他のモノの不幸がある。

鉱山の所有者にとっては鉱物の減少は自分がやっていることとはいえ、量的な意味では不幸になる。

増えてなくて減ってるからね。

例えば僕がそうやって宝石だとか貴金属を得たとして、僕はきっと幸せだけれど、不幸せになっている人がいる場合もある。

けれども、不幸せな人がいたからなんだというのか、僕は答えられない。

半面、ここで「皆幸福の方が良い」と言うような人間が利益を多く得ることは容易に分かる。

人はそのような場面で僕ではなくてその人間に信頼を置く。

人間的で当たり前の話。

けれども、これこそが最大多数の最大幸福の正体だ。

つまり、実際には顔も名前も知らない誰か何て心底どうでもいい。

何故どうでもよくないかを僕は答えられない。

だから普通に最大多数の最大幸福という図式は別に正しくなんてない。

私という個人が幸福なら、顔も名前も知らない誰かの幸福なんてすこぶるどうでもいい。

そうと言うより遥かに、どうでもいいかよくないかではなくて、知る由もない。

知ることも出来ないものを問題にするのはカント以来の伝統だけれど、関わり合いにならない何かの事を慮っても何も生まない。

それこそまさに杞憂だ。

けれども、そう言う風に慮っていると周囲に示すような人間は、信頼を得る。

よって、そうした方が良いけれど、だからと言ってそのような顔も名前も知らない人のことがどうでも良くなくなるわけではない。

その事を倫理学は知らない。

そう言う判断がされているのを僕は見たことがない。

何せ、「「最大多数の最大幸福」という原理には、誰も異議をさしはさめないように思われる。(加藤尚武『現代倫理学入門』 講談社学芸文庫 1997年 p.65)」と書いてある。

彼らはそうした先哲の前提を疑わない。

僕は馬鹿じゃないのかと思う。

だから砂上の楼閣という言葉を用いたけれど、実際はもっと空虚だ。

もっと脆弱な何かの上に倫理学は成り立っている。

で、今日はその『現代倫理学入門』の話をする。

本当は全部読んでから記事を作りたかったのだけれど、あまりに馬鹿馬鹿しい議論に読むけれど目が滑って内容が入ってこなくなったため、もういいや、と思って読むのやめた。

得るものがない。

ただ、その本は15の章に分かれていて、それぞれの表題で倫理学の問題を扱っているから、それについて僕が判断する答えを書いていく。

倫理学が使い物にならないから僕がこんなことをする羽目になる。

早速やっていく。

…ここで一回区切ります。

時間を空けて読み返してみて、途中で疲れちゃって最後まで読めなかった。

なので、読んでいる人はそうなると思うので、区切ります。