日記を更新する。
なんか、あの漫画のせいで僕のtwitterのアカウントとかこのサイトとかが幾人かに割れたりしたのだけれど、そんなことは気にせずいつも通りの日記の更新をする。
日記です。
僕は常日頃から正しい事と正しくないことを判断することを好んで行っている。
何故その事が正しいか、反対に何故正しくないかを徹底的に突き詰める。
僕はその事を日常的な判断でも行う。
多くのことが合理性に基づいて成り立っており、反面多くの人がその合理性について何にも考えてないということを理解した。
考えるほどに皆暇じゃないからね、仕方ないね。
僕の問いはその事が何故間違っていると言えるのか答えられなくなったら終る。
残るのは少なくとも間違ってない判断になる。
その判断のはかりに自分を乗せると、どういう結論が導き出されるのか。
その判断の結果、僕は悲しみに埋没していく。
だけれども、その事はただ正しいから、ただひたすらに僕は嗚呼と思う。
さて、今日は孔子の話。
というか『論語』の感想。
論語何て読んでどうするのよ、って話だけれど、目的と概算があって読んだ。
概ねそれは果たされた。
でもその前に、論語がどうだったかということだけ書いておく。
想像の数十倍面白かった。
はぇ^~、びっくり。
面白いというか、その判断は正しいと僕もするような判断がなされていた。
何故そのような判断をしてしまいがちかと言えば、僕らの文化が儒教の土台に乗って成立しているからという話になる。
だから耳触りが良いんですね。
けれども、僕は耳触りの良い情報より審議の目を向けるものは存在しない。
耳触りの良い情報は、無判断で受け入れられがちになるから、そのような耳触りの良い情報ばかり集めていると、正しいことを正しいと判断出来なくなる。
その末路が右翼と左翼。
彼らは自分の耳触りの良い情報しか選択しない。
右翼なら日本が如何に素晴らしいか、天皇が如何に素晴らしいか、戦前が如何に塗り替えられた歴史か、日本人はどれ程に立派だったか、という情報しか摂取しない。
左翼ならば…いや、あの人たち何考えてるんでしょうね、ホント。
多分、耳触りが良いのは反自民、反右翼的な全てなんでしょうけれど。
彼らは自分にとって心地の良い情報しか目を通さない。
だから傍から見てあんなに頭が悪く見える。
そして問題は、自分がそのような誤った判断を行っているかいないかで、それを行わないようにするには、耳触りの良い情報は徹底的に疑い、心地の悪い情報は目をそらさずにしっかり見つめること。
さもなければ宗教者になってしまう。
彼らは本当に自分の信仰に都合の良い情報しか得ようとしない。
彼らは幸せだと思う。
けれども、僕は彼らのようなあり方では幸せになれない。
そして、『論語』を読んでいて、それが正しいな、耳触りが良いなと思ったならば、それは疑ってかかる。
その結果、僕らの普通良いと思う判断は、論語が正しいからそれが正しいと判断なのではなく、僕らの道徳教育、さもなければ全体的な風潮が、儒教的発想に基づいてなされているという事実が導き出される。
普段行っていて正しいと思うことが『論語』に書かれていたなら、それは論語が道理に適った本だから、ではなく、恐らくはそのような教育を僕らが受けてきたから、ということが実際の所になる。
そして、僕の関心は、論語で何故そのように孔子が語る羽目になったか、ということだった。
僕は孔子を優れた人物だとはちっとも思っていない。
良く居る年老いたおじいちゃん程度にしか思っていない。
するとどうだろう。
彼の言動はどのように映るのか。
隣の家のおじいちゃんが何だか色々言っているのと同レベルで孔子が色々語っていると考えて、孔子の言動を追っていく。
結果、導き出された判断は、「寂しがり屋の老人のtwittter=論語」という実にどうしようもないそれだった。
基本的に孔子の言動は道理に適っている。
孔子自身が何故それが正しいと判断できるのかは恐らく本人も分かっていないけれど、多くのことはその選択をすることで利益があるし、選択ではない記述の場合でも正しいようなことが多い。
一々どの言葉がとか持ってくるとめんどくさいからしないけれど、基本的に孔子の判断は正しい。
なのだけれど、一つだけ傾向性として根拠がない孔子の言葉がある。
それは、古いものを良いものだとして、年配者を敬わなければならないという判断になる。
これこそが孔子がただのさびしがり屋の老人でしかないという判断の理由になる。
老人は…自分の頃はよかったし、最近の若い者はたるんでると考えがちになる。
それはその老人の利益の問題であって、昔はよかった=若い頃良い日々を過ごしたと考えて生きることと、昔は悪かった=苦痛の多い人生だったと考えて日々を生きること、そのどちらの方が幸せかと言えば、当たり前のごとく前者であって、多くの老人がその選択をする。
だから、「最近の若いもんは」と老人は言う。
ただ、それは誤りで、昭和初期の少年犯罪の白書とか読んでると、ドン引くレベルの事件がたっくさんある。
小学生同士で殺し合いってのが結構な頻度である。
だから昔は良かったとは限らないのだけれど、老人は勘違いする。
実は、最近の若いもんはという言葉は、古代エジプトで記録に残ってるし、メソポタミアの粘土板でも残っている。
つまり老人はそう考えがちということ。
その方向性に孔子も則っている。
だから、孔子の考える、三皇五帝や周の政治の素晴らしさなんてものは、老人特有の思考形態から導き出された勘違い過ぎない。
あと、年上の者を敬いなさいと書いてあるのだけれど、これって結局孔子自身がそうしてもらいたいからということが理由になる。
つまり、儒教は老人の思想ということ。
年配者の方が知恵を持っているという場合は確かに多いのだけれど、普遍的ではないし、若者で賢い人はいくらでもいる。
そう言う傾向性があるだけで、別に儒教で言われる程に昔が良かったということもないし、年上の人が優れているということもない。
そこだけは間違っていると言える。
じゃあ、なんでこんな老人の妄言が取り入れられたかということについて、恐らくの答えを僕は持っている。
国家を年長者としたならば、儒教の教えは統制に有利、確かにそれはあるかもしれない。
けれど僕はもっと人間的な理由だと思う。
時の王、中国だから皇帝なんだけれど、その多く年配者だったから、儒教の教えが耳触りの良いものだったのだろということ。
結局、在位の年数のうち、青年でいられる時期より遥かに老人でいる時期の方が長い。
儒教の教えは同じようにあり続けるけれど、耳触りよく聞こえる期間の方が長いので、それが選択されたのだと思う。
儒教を最初に取り入れた帝国、漢の創始者である劉邦は、儒教嫌いで有名だった。
どれくらい嫌いかと言えば、『史記』読んでてちょっと信じられない記述が存在したほどに儒教嫌いだった。
「沛公(引用者注:劉邦)は儒者を好まれない。賓客で儒者の冠をかぶって来るものがあると、さっそく冠を脱がせて、その中に放尿する始末。そうでなくとも人と話す時は大いにののしるのが常である。儒者として沛公を説得することは、とうていだめだろう。(『世界の文学大系 史記』 p.214 酈生陸賈列伝三十七)」
これだけ嫌ってるのに、晩年期は儒教の礼節を取り入れている。
まぁ、儒教がそれだけ使い物になったのはそうなのだろうけれど、上の引用の時点での劉邦がまだ若かったから、儒教の教えが耳触りが悪かったのだと思う。
で、年老いたからその耳触りが変わったのだろうという推測です。
史記の記述何て信じてちゃ駄目だけれどね。
一人で一回の戦闘で数百人殺したってマジに書いてあることあるからね、史記。
物理的に殺せません。
当時は鋼鉄すらないので、武器が持ちません。
話を戻す。
『論語』そんな感じだったけれど、僕はそれ以上に遥かに、儒教という概念がくだらないそれであると判断する要因が存在した。
それは、注や翻訳になる。
本文に書いてないことが、注や翻訳に書いてある。
これは現代語訳に直した人が悪いんじゃない。
悪いのは、これまで論語に注釈を入れてきた人々だ。
どういうことかというと、伝徳的な儒教的な判断だと、確かにその注釈通りに解釈できるのだけれど、本文からその意味合いを読み取ることが出来ないような場合が多々あった。
本文に書いてないことを注釈に書いている。
僕はそれを何度も目の当たりにして、嗚呼と思った。
これが人間の営みなのだろうなと。
カトリックはいろいろなシーンで、聖書には書いていないけれど伝統として残っているような儀式が存在する。
具体例はめんどくさいからいいや。
まぁ、アリストテレスの学問をスコラ学として取り入れている時点で、そんなこと聖書に書いてないんだからどうしようもないんだけれど。
じゃあ、イスラム教はどうだろう。
ハディースがある。
ハディースはコーランに書いていないけれど、ムハンマドが言ったという設定になっている言行録になる。
ハディースはコーランに書いてはいない、日常的な判断を行うために使われている。
じゃあ、仏教は?
極楽浄土とか仏陀は言っていない。
阿頼耶識なんて、仏陀は想定していない。
ヒンドゥー教的な要素、後世に仏典に書かれるそれは仏陀の言葉ではない。
じゃあ儒教は?
朱子学がある。
朱子学は論語の注釈によって成り立っている。
荻生徂徠という日本人も、論語の注釈を入れている。
この注釈は、本文に書かれていない事が書かれている。
これこそが全てをごみにする。
原典をはるかに超えて、それぞれの宗教を一人歩きさせる。
僕は原理主義というわけではないのだけれど、彼ら宗教家が少なくとも聖典を根拠とする以上、その聖典に書かれていない何かを勝手に語って、開祖の思想を一人歩きさせるということが、何とも愚かなものに見えて仕方ない。
まぁ、彼らの開祖それ自体も別に根拠はないのだけれど。
そのような事を大体想定してから読み始めてみて、果たしてその通りにしかなっていない。
仕方ないね。
というお話。
お腹空いたからこれくらいで。
ああそうそう、だからって言って哲学もこれと同じレベルだよ。
宗教だと開祖が問題になるけれど、哲学だと哲学者が問題になる。
カントがああいったとか、ヘーゲルがこういったとか。
割かしどうでもいいことばかり。
確かに、哲学者たちが本で述べるようにカントがそう言ったのは確かだけれど、そもそもカントが正しくないからね、仕方ないね。
では。