オタク趣味は何故嫌われるのか | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

まぁ、最近は多くの事を考えていない。

考えてもどうしようもない問題については自分では考えないようにしている。

そう言えば昨日だか一昨日だかに、「君の考える生物の定義って何?」と聞かれた。

twitterで。

いや、そんなものは知らないけれど、疲れていた僕は返事を出さなくてはと「ドーキンスと大体同じなのでドーキンスを参照にしてください」と返す。

そうしたら、「遺伝子があたかも行動をとりうるものみたいなあたりはロマンチックだなぁと思う」と嫌味を言われる。

僕はそれに対して「別に遺伝子が行動を取るわけはないけれど、(ドーキンス)は説明としては分かりやすい」と返した。

けれども、イマイチ伝わってなかったみたいだった。

とりあえず、その直後に僕は寝落ちしているのだけれど、あれから考えて、自分がどのようにその物事に対して理解しているか、改めて文脈化してみた。

伝わらなかったのは僕の説明が悪いからでしかないので、それを確かにしたかった。

相手がどうこうより自分が確かにしたかった。

だからいきなり日記にこの事を書いている。

まず、生命の定義なんて知らない。

僕の関心が向くような対象ではない。

生命の定義が最新の学問で変わった所で、別に僕が問題にしている事柄への理解が変わるわけではない。

次に、ドーキンスなんだけれど、ドーキンスは遺伝子が意志を持って戦略家のようにふるまった結果、利他的な行動をしているように見せかけて実はすべて利己的な存在であるというような事を書いている。

僕は最初それを読んだ時、はっきり言って彼の議論は半分はそうだと思い、半分は疑いしかなかった。

「何処までそう言えるの?」僕の疑問はそれだった。

けれども、ドーキンスが好きな友人が居て、まぁ、この前の八王子の話だけれど、その時に僕はドーキンスに対して疑問を持っていると伝えた。

すると彼はドーキンスを擁護した。

僕はその瞬間にドーキンスをそれ以上間違っていると判断出来なくなってしまった。

僕は愚かで、その愚かな僕に対して彼は優秀であると僕は考えているので、その優秀な彼が正しいと判断するドーキンスは間違いを孕んでいない、僕は無意識で判断してしまった。

その日、彼と話した時にはドーキンスの本はまだ続きだったので、残りは正しい記述がされているものとして読み進めて行った。

まぁ、人間的な可謬だね。

僕は人間的な過ちをして、ドーキンスは正しいものとして認識してしまったが故に先の発言がある。

では実際問題ドーキンスは正しいのか?

そんなことは知らないね。

けれども、僕はドーキンスの遺伝子論については「本当にそうとしか言えないのか?」と判断している。

というよりも、一番上の「ドーキンスを参照にしてくれ」という言葉に込めた意味が違った。

僕が言いたかったのは、「生物何て自己の生存とセックスのことしか考えていない」ということだった。

哲学者は、神学者は、仏教とは「生きるとは何か?」という問いに様々な答えを与えてきた。

真善美を追求するためだ、神に近づくためだ、解脱するためだ。

けれどもそれら全てに根拠がない。

実際のところは、生きるとはセックスして子孫を残すことでしかない。

僕はそこについて言いたかったから、「ドーキンスを参照にしてくれ」と言いたかった。

僕が知っているそのような議論をした人はドーキンスが手近だったから。

というより、ドーキンスをそのタイミングで読んでたからドーキンスで頭が一杯だったからなんだけれど。

人間の行動は、生存することとセックスすること、それに付随する認識の誤作動しか存在しない。

認識の誤作動もドーキンスの用語だから、ドーキンスを参照にしてほしいと言ったのだけれど、ドーキンスというと遺伝子が意志を持って戦略性を重視して賭けをして生き残ると言った議論の方が有名だったようだ。

僕はそのような遺伝子のことが正しいか正しくないかなんて知らないし、普通に間違ってると思うけれど、一方で生物がそのような生存と生殖のための損得でしか動いていないことは知っている。

全てのことはそのレベルでしかない。

僕はその損得の話を酷くドーキンスがするから、ドーキンスは酷く正しいものだと思い違いをしていたけれど、言われてみりゃ僕だって普通にドーキンスの遺伝子の意志については懐疑しかしてなかった。

僕は自分を大きく見せるのが大嫌いだから、ここで言われて初めてそうなったのにも拘らず、自分を大きく見せるために初めからそうだったと思い違いをしていないか考えてみたけれど、普通に「そこまで動物が考えているか?」とは思っていた。

考えちゃいない。

結局結果だ。

「そうしなかったら生き残れなかった」のではなく「そうしなかった奴が滅んだ」に過ぎない。

遺伝子は何も知らないし考えていない。

なんとなくやってたらなんとなく生き残っただけであって、適当にやって上手く行ったパターンの積み重ねで何十億年やったのが今だ。

今残っている遺伝子が賢いのではなくて、滅んだ遺伝子を持つ生命体が運悪くその特質が環境にそぐわなかったに過ぎない。

インテリジェンントデザインを信じたくなるような気持ちも分かる程に複雑な結果だなぁとは思う。

けれど、基本的に原初は生存と生殖しかない。

それをすると有利だからそれを選択するようになったのではなく、生存と生殖を第一義に置かないような生物は、置くような生物に対して不利であるに過ぎない。

もし、存続が是であるとしたならば。

実際は是でもなんでもない。

ただ、そうしなければ存在できないだけであって、存在することに良いも悪いもないけれど、基本的に人間は自分を肯定したいから、生存して存在している自分を肯定するために、それを善と誤認識する。

死にたければ死ねばいいし、生き残りたければ生き残ればいい。

それだけに過ぎない。

さて、なんでこんな事を書いたかと言えば、以下の内容に関係があるから。

以下では「オタクの人の傾向性」について書く。

記憶にある、またはご自身がそうだったのかもしれないけれど、クラスに一人はオタクの人がいたと思う。

そして、そのようなオタク人たちは、大体にして同じ傾向性があったと思う。

少なくとも僕はあったと思った。

クラスに一人はいた、オタク的な人たち。

趣味は何だろう。

鉄道かな?アニメかな?読書かな?

それがなんであるにせよ、クラスに一人くらいはそういう人がいた。

僕はそれが疑問だった。

「何故鉄道なんだろう」という疑問。

そして、「何故そういう人たちは鉄道に関心を引かれるのだろう」。

僕は鉄道に一切の関心がなかった。

僕は彼らの気持ちが分からなかった。

そして次に「何故何処に行っても同じように鉄道、さもなければ似たような趣味に落ち着くのだろう」それが僕の疑問になった。

僕はいろいろな事を疑問に思う。

それに対して答えの筋道を立てる。

色々な筋道の立て方存在するけれど、いつも結局「生存と性行」に行き着いてしまう。

それで基本的に語れるし、語れるというかそれに根ざしているのだと思う。

そして、このクラスに一人はいた人々についても、似たような話で片付いてしまう。

まず、第一に、人間が最も楽しいと思えるものはコミュニケーションにある。

というより、第一に選択される人間の関心はコミュニケーションだということ。

友達と仲良くやっていくことが社会(学校や集団内)に出た人間が最初に得る快楽になる。

人間が生存するためには色々な要素が必要になる。

雄であるならばもしかしたらもっとも槍を遠くまで飛ばせるということが必要かもしれない。

獲物を追いかける足の速さが必要かもしれない。

けれども、僕らが生きる今ではそれらは意味を失っていることから分かるように、絶対的にその事は価値があるものではない。

まぁ足が速い奴が何処の学校でも人気者であることが多かったのはそういうことだけれど。

だけれど、一方でコミュニケーションはどうだろうか。

コミュニケーション、群れでの仲間内との融和、その事が生存を有利にしなかったことがあり得るのだろうか。

それはあり得たのかもしれないけれど、生存を有利にするようなパターンの方がよっぽど想定できる。

基本的に仲間内でよろしくやっていく方が生存できるので、人間はそれを選択しがちであって、その事を選択すると生存することを知っているから、その事を行うと快になる。

それだけに過ぎない。

だから、その事は第一義的な選択になる。

それ以上に集団内で生存を有利にする事柄が存在しない。

よって、子供たちにとってはそれが一番に選ばれて、子供たちは友達と遊ぶことを選ぶ。

けれども、その能力は誰しもに平等にあるわけではない。

上手くコミュニケーションを取れない子供も存在する。

普通、子供は友達と遊ぶことを選択して、子供たちで遊ぶけれども、その子供たちで遊ぶということに快楽を見いだせないような子供も出てくる。

そのような子供も、友達と遊ぶ子供のように同じ時間を与えられている。

その時間の中で子供たちは行動をする。

勿論、何もしなくても良いけれど、何もしないという選択はあまり選択されない。

そして、コミュニケーションの代替として先に上げたような趣味が出てくる。

僕は鉄道、読書、昆虫採集、図鑑、番号の暗記、アニメ、それらの物事に共通項を見つける。

言語的活動、特にコミュニケーションが存在しないということ。

恐らく、彼らそのような趣味を選択するような子供たちも、第一には友達と遊びたかったはずであって、恐らく遊ぼうと試みた。

けれども、そのコミュニケーションが上手く行かないので、漸次友達との遊びに費やされる時間は減少して行き、そのような苦痛を産まないようなもので時間が埋められていく。

そして出てくるのは「いわゆるオタク的な趣味」。

ここにこそオタクが嫌われる理由がある。

結局、そのようなオタク的な趣味を選択するような個体は、集団にとって害悪でしかなかった。

統率を取る時に、それに従わないような個体だから。

故に迫害され、故にないがしろにされる。

だから、先入観としてオタク的な趣味を持っている人々は嫌われる。

というより、オタク的な趣味を持っているような人々が、コミュニケーションを得意としないので、コミュニケーションを得意とするような人々からしたら、理解できないしつまらないし、扱いづらいしととにかく負の効果しか示さない。

だから、オタクではない人はオタクの人を気持ち悪いと判断する。

酷い不正義だと思うかもしれないけれど、人間は自己の生存とセックス以外原初にない。

よって、自己の生存に害するそのような存在はただの害悪だけれど、ただの害悪だと公言するような個体もまた害悪と判断されるから誰も言わないだけに過ぎない。

根底にあるのは損得だけだ。

趣味そのものに問題があるのではなくて、その趣味を選択する人の傾向性に問題がある。

コミュニケーションが不得意、それは言ってしまえば色々なパターンがあるけれど、中には人格障害の場合だって存在する。

そのような人である概算が高いのが、オタク趣味を持っている人、ということになる。

そのような判断をオタクではない人はするのだと思う。

知らないけど。

オタクと言ってもいろいろあって、普通にコミュニケーションは得意だけれども、それとは別にオタク的と称されるような文化に関心を持ってそれ故にオタクである人もいる。

そのような人たちにとって、オタクに対する眼差しは偏見に映るかもしれない。

けれども、それはその世界に入って行って初めて知った知識でしかない。

入らずにその世界を知る人たちは、その世界に居る人々、それも自分が観察した人々しか材料がない。

彼らが使う材料は、クラスに居た根暗で陰気で何を考えていたか分からなかった奴。

そのような材料を用いた場合、邪険に扱うなという方が無理であって、生物として正しい判断だと思う。

しかし、生物として群れなければ生きていけない、それが今ではない。

人間として対人関係が楽しいならそれをすればいいし、楽しくないのならしなければいい。

昔だったら対人関係を築かなかったら食料を分けてもらえなかったりとにかく死が近かったけれど、今は別に死が近いわけではないのだから、それで楽しめないならしなければ良いし、楽しいならすればいい。

それだけに過ぎない。

人間なんざ、生きる理由なんてないのだから、少なくとも苦を選ばなければいい。

苦を選ぶときは、それに相応する快が存在する場合だけでいい。

それだけに過ぎない。

そしてこれを読んでカッとなったとしたならば、それにもやはり生存と生殖しか理由がない。

これを読んでカッとなったとしたならば、僕から酷い侮蔑の言葉を与えられたと勘違いしたからなのだけれど、何故その侮蔑に怒りを感じるかが問題になる。

侮辱され尊厳を奪われてそれに対して何もしなかったならば、最後には命まで奪われることになりかねない。

よって、それを防ぐためにその怒りは役に立っていて、その怒りは得の為にあるということ。

そもそも、これ読んで怒る人がいるかどうかなんて知らないし、怒った所で僕にどうしろとという話に過ぎないのだけれど。

図星突かれると怒り出す人がいるのは、その事で不利益があるのだろうけれど、まだ文脈化出来てないから今日はいいや。

あと僕は自分のことオタクじゃないと思ってるけれど、艦これやってた時点でもう外から見たらそう判断されるからね、仕方ないね。

漫画スッゲーたくさん読んだし、なるたるの解説書いてるから外側から見たらもう、オタクでしかないからね、仕方ないね。

そんな話。

では。