彩られる虚飾、嗚呼その原初はいずこにぞ去りしや | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

この前、ニコニコ動画でパワーパフガールズの動画をホモたちと見ていたのだけれど、その中で博士が子供になってしまうシーンがあった。

とりあえず僕は「ケツの処女奪いたいけどな~俺もな~」ってコメントしたけれど、それを見た誰かが、「俺はむしろ精通を奪いたいけどな」と書いていた。

あかん、ガチの人が居らっしゃる…!

実際僕だって奪うなら精通ですよ。

けれどまぁ、僕はホモじゃないので、女性の方が精通を奪っていただかないと中々に素直に興奮は出来ないのだけれど。

そういえば前に『女装少年、家出中』というエロゲのコメントに「でも毛が生えたら捨てるんだろ?」というものがあって、僕以外にガチのショタコンの人っているんだなぁと思い知った。

さて、今日は特に書く内容は決めていない。

本当は「彩られる虚飾、嗚呼その原初は何処に去りしや」という記事を次は書くつもりだったけれど、そんな論理的な話はやらないね。

・追記 あ、結局そういう話になっちゃったからタイトルそれにしました。

古代メソポタミア関係の本を流し読みしていたら、なんというか楔形文字の話があった。

なんか最初は魚を意味する文字だったら本当に魚の形を、牛だったら本当に牛の形をしていたのだけれど、どんどん複雑化して煩雑な模様になっていっていた。

これが僕は世界の全てに言えるのだと思う。

まぁ、逆に抽象化して言ってどんどんなんだか角が取れていく場合があるけれど、そのどっちかしかない。

つまり、宗教だって社会習慣だって、本来的にもっともっと単純だったはずだと思う。

単純なものが複雑なものに、複雑なものがさらに複雑なものに、そして時に角が取れて曖昧になる。

そういったことを繰り返しているのがこの世界なのだから、その原初たる何かが存在するのだと思う。

それこそを追求すべきだと考えて、日々あらゆる原初を勘案している。

なんかぶつぶつしたものだったり、うじゃうじゃしている物に多く人は嫌悪感を抱くだろうけれど、それはおそらく最初は天然痘などの伝染病だったのだと思う。

天然痘は本当にぶつぶつが出て来るし、それに近づいたら感染するのだから、そう言った原初的な恐怖がぶつぶつに大して何か悍ましさを生んでいるのだと思う。

蛆虫が気持ち悪いのだって、蛆虫は人間に害するものにしか、死体だったり腐ったものだったりにしか湧かないのだから、それを気持ち悪いと思うという話。

そういう風に原初的なものが何か、という事が今の僕の関心なのだけれど、ちっとも哲学には関係ない。

この前、つい先の土曜日に今は亡きよく知らん哲学者の思い出会みたいなのに行ってきた。

どういう経緯だったかといえば、僕がツイッターに「上〇の元哲学科の樋〇先生が生きててクッソ笑った」というコメントをその今〇たる哲学者のツイッターにリツイートされた。

ここでぼかすのは、グーグルに引っかからないようにです。

僕はそれを見て「クッソ笑ったっていうツイートを良く知らない哲学者にリツイートされててクッソ笑った」と書いたのだけれど、それもまたリツイートされた。

まぁ、そこまでは良いのだけれど、その直後なんだかよく分からない会に誘われた。

正直、めんどくさそうだし、哲学的な議論とか本当に興味ないから断ろうと思ったけれど、実際マジで予定がなかったから行ってきた。

あっちがやたらに僕に構うからね。

なんか良く見たらその哲学者の名前を冠したツイッターなのだけれど、中の人は違っていて、実際その哲学者は死んでいるらしい。

それで中の人がやたらに僕に構う。

わざとらしくリツイートしたり、ダイレクトメッセージ送って来たり。

だからしょうがないから行ってきた。

行ってきて、どんな会だったかというと、その今〇某が残した詩をみんなで読みましょう会。

殺すぞ。

いやね、詩と哲学とかいう表題だから、詩の哲学をやると思ったんですよ、ハイデガーみたいに。

で、僕の関心は全ての者の原初についてだから、詩の原初、もっと言うならば詩というものを何故人は快く思うのか、という事に対する何かしらのアプローチの材料が得られるかもしれないと思ったのです。

まぁ、実際あんまり期待してなかったけれどね。

で、行ってみたら進行役の人が「私はこの詩はこういう意味だと思います」とひたすらに考察するだけで二時間。

別にそれは良いのだけれど、根拠ないよね?それ。

何でそう言えるの?

絶対書いた本人は何にも考えてないよ?

詩っていうものに論理は存在しない。

なんとなく心に浮かぶなんとなしの言葉のリズムを書き連ねて、それに加えてなんとなく心地いい意味を与えているに過ぎない。

いや、心地いい意味の言葉をリズミカルに並べているに過ぎない。

そこに論理はないのであって、ひたすらに感性なのです。

という事は理解している。

たしか哲学辞典に書いてあった。

けれども僕の問題は、それが何故快になるのか、という話。

それを知りたくて、そのヒントが欲しくて行ってきたのだけれど、殺すぞ

別に本当殺したいとか思ってるのではなくて、諧謔を込めての表現です。

詩というものは初め歌だったらしい。

漢文の授業で習った。

『詩経』という本が残っているけれど、そこに書いてある詩には曲が本来的にはあったらしい。

けれどそれは失われてしまっているという話だったけれど、おそらく全ての詩は歌に関連する何かなのだと思う。

人は歌う。

人は詠う。

まぁ、日本語的にも同じ「うたう」だしね。

けれども今度は何で歌うのか、という事が問題になる。

それは現状、答えが出ていないらしい。

僕としてはそれはやはり人間が言葉を使うからというところにあると思う。

つまり、人は言葉を使うのであるのだけれど、それには良い音と悪い音があって、その良い音を集めたものが歌なのだと思う。

悪い音と言うのは分かりやすくて、雷鳴、雪崩の音、崖崩れ、狼の遠吠え、悲鳴、そして追われる音。

そうした命の危険に関連する音が悪い音なのだと思う。

けれどもそのような音は多く、心拍数を上げる。

吊り橋効果は知っていると思うけれど、そのドキドキは色々違う解釈をされる。

これが人間の認識の誤作動なのだけれど、音楽の場合はどうだろう。

恐らく、メタルとか…まぁ、大きな音を出すような音楽は、恐らく原初においては恐怖の対象なのだと思う。

けれども、大きな音は心拍数を上げるのであって、心拍数が上がっている一方でそこに危険は存在しない。

とすると、この心拍数の上昇は不快なものへと文脈化されないはずだ。

それがそのような大きな音を伴う音楽の快の原初だと思う。

一方でクラシックはどうだろうか。

これははっきり言って分からない。

けれど、この事も最初に書いたように、単純なものから複雑なものへと変わって行ったはずであって、最初に本当に牧歌的な音があったはずだろうと思う。

それはどんな音だろうか。

安心の音だとしたら、きっとそれは心音だ。

自分の心音だっていい、抱かれる母のリズムだってそれは良い。

恐らくは、自身が最もリラックスするシーンで刻まれる心音のリズムがそれなのだと思う。

さもなければ、凪ぐ風か?

穏やかな日、危険がない日の波の音か?

それはきっと穏やかなものだと思う。

ひょっとしたら、海から離れた時にあの海の穏やかなさざ波の奏でる柔らかい音を、遠い森の奥で再現したのが音楽の始まりじゃないか?

結局、その再現された音と波の音は違うものだけれど、上に書いた大きな命の危険な音を勘違いする様に人間は多く勘違いして生きている。

つまり、波は本来的に生命の安全と全く関係ない…いや、関係なくはないけれど、とにかく波の荒れ方と命は直結的には繋がってはいないのだけれど、波が穏やかな日に穏やかな命の安らぎを感じ続けた結果、波の奏でるその穏やかさに命の安らぎを感じるようになったのではないだろうか。

そして、その安らぎを思い出したくて、それに似たものを再現したのではないだろうか。

これは波じゃないかもしれない。

もっともっと違うものなのかもしれない。

ただ、きっとそれは穏やかなものなんだと思う。

穏やかなものを再現しているのが音楽の原初なのではないだろうか。

とは言っても、穏やかさだけが音楽ではないわけであって、様々な情緒が音楽には存在する。

今日は穏やかな音楽と苛烈な音楽の原初を辿ったけれど、そのような作業を根気強く続けて行けば、いつかは音楽の原初にもたどり着けるのかもしれない。

とは言っても、それはきっと僕の内で終わる。

悲しいのかな、それって。

分からない。

とにかく詩にしたって、そのような原所があるはずなのだけれど、今回の会で行われたのは「この詩はこのような意味を込めて書かれたのだと思います、まる」という事のみ。

やっぱり、文学部的な営みの全てが不必要なのではないかと思う。

「そんなの勝手に思ってろよ」程度の事しか話されない。

絶対的真理足りえない。

そう言えるのは確かなのだけれど、こうも言えるはずだ、みたいなことが山積みだった。

けれども、僕は今回の参加は非常に有益だったと思う。

どういう文脈で有益だったかといえば、イメージのみで理解していた文学的は評論は妄想の列挙だといった判断が、実際にまるで価値がなく意味がないという事を実感として、実体験として知れたというある種失敗じみた文脈において、とても有益だった。

どうだろうか。

なるたるにしたってさ、色々ブログとかで書かれているけれど、お前がどのように解釈するかなんてどうでも良いんだよ!って内容ばっかり。

「なるたるは繰り返しの世界で、生まれ変わったのり夫があのハイヌウェレを作った」とか平然と書いてある。

絶対的に間違ってるわけであって、本当の理由はなるたるから導き出せる。

なのだけれど、この営みと文学部的な評論の営み、どう違うのだろう。

僕から見たら同じでしかない。

勝手に脳内でこねくり回してそこにないものを記述して言っている。

そんなものには興味がないね。

僕はしっかりとした基礎の上に全てを立ち上げたい。

僕の基礎は、「全て生存という目的に利する形で原初あった」という基礎。

しかし、人間は愚かだから勘違いを多くするのでいろいろなエラーが起きているという話。

それを精査していって、原初にどのようなものがあったのか、という関心のみが重要な関心と言える。

宗教だって最初は理由付け。

皆「なんで?」が分からなかったから、適当に誰かが作った「なんで?」の答えである宗教を信じたに過ぎない。

そうすれば考えなくて済むから。

人を殺しちゃいけないことはなんとなくわかるけれど、「なんで」なのかは分からない。

近親相姦はしたくないけれど、それが「なんで」かは分からない。

なんでかわからないと心地が悪い。

人を殺しちゃいけないのは、人を殺さない事がひいては自己の生存に繋がるからなのだけれど、聖書は端的に「汝殺すなかれ」と教えてくれる。

近親相姦はリスクを避けるためであって、何故思春期になると反抗期が起こるかといえば、生殖が可能になった子が親と交わるという事を本能的に避けるからなのだけれど、聖書は端的に「汝犯すなかれ」と教えてくれる。

自己の生存はほぼイコールで子孫の生存でもあるのだから、近親相姦の仕組みも人を殺してはいけない仕組みも、「自己の生存」という理由に帰結する。

このように全てに原初がある。

僕はその原初を本当に正しい形で理解したい。

聖書なんて嘘っぱちだ。

ただの思考停止だ。

本当は違う理由があるのだけれど、誤謬推理と思考停止で愚かな事を行っている。

僕はそのような事をしたくない。

だから原初を求める。

原初を、原初を。

そんな感じです。

こっちの日記はコメントは貰えないものだと思ってます。

だって、あのサイトってこの三日間毎日アクセス数が4000越えたのだけれど、コメント一件もなかったのだもの。

今日だって2000アクセスあったもの。

流石に色々機械が勝手に処理の問題で大量にアクセスしているとかあるだろうけれど、それにしたって結構読まれているのにコメントないんだもの。

「僕なるたるの舞台の藤沢入ってきたんだけどなぁ(チラチラ」って書いても別にリアクションないんだもの。

一回、少しアピールが足りなかったからもう少しアピールできるように(チラチラ感を増して書き直したけれど、結局反応ないんだもの。

だからもう、藤沢の話はしない。

今週中に鬼頭先生の記事を書いてあのサイトはを放棄する。

今日の時点で月のアクセスが四万アクセス越えてたけれど、放棄する。
 

 

 


(『フルメタルジャケット』より)

今日はちょっと寝れてなくてイライラしています。

そんな感じです。

では。


・追記
あとそうそう、あのサイトに居た頃は一人しか読んだ上でいいね!してくれてなかったから基本的にいいね!は宣伝だと思っています。

まぁ、一応いいね!を貰ったらアクセスするようにはしているのですが、いいね!返しとかはしません。

キリがないからね。

なんか、かなりの頻度でいいね!を戴いている方が一方二方居るのですが、読んでいない宣伝かどうか分かってないので、ちょっとどうすれば良いか考えあぐねいています。

しかも既にそんなような人からいいね!貰ってるし。