嗚呼恐らくは!その甘美は!合理性の中に! | 胙豆

胙豆

傲慢さに屠られ、その肉を空虚に捧げられる。

日記を更新する。

先月のあのサイトのアクセス数が出た。

40000アクセスだった。

何か前回の記事にも書いたような書かなかったようなだけれど、こっちの日記(未だに名前を覚えていない)は、大体1216アクセスだった。

もうこれ何のために更新してるかわかんねぇな。

それにしても四万アクセスは凄いなぁ(他人事)。

さて、今日は何の話を書こうか。

日記を更新しようという動機はあるのだけれど、具体的にどんなことを更新するかは考えていなかった。

鎌倉のことについて書こうかと思うけれど、この日記は二人しか読んでいないので、そのうち一人の方に関わる事をここで書くのはどうなのかという気持ちに勝てない。

なので書かない。

強いて言えば、どうすればよかったのだろうとは思うけれど、恐らく僕はどうすることも出来なかっただろうという事。

ところで、一切関係ない話をすることにして、僕は世界の全てを合理的に判断している。

合理的ってなんなのか、っていうのが問題だろうけれど、それを行う事、またそれがそうであることに対して、それがどのような理由によって成り立っているか、またはそのことについて吟味のない判断は存在しないかという事を考えて、吟味のない判断を取り除いて行動している。

具体的には、神社に行って賽銭を投げてお願いをするとしたならば、恐らくはほぼ全ての人が適当に心の中でお願い事を呟くだろうけれど、僕の場合は違う。

このお願い事が合理性によって成り立っているかを考える。

ここで例えば僕が宝くじを当てたいと願ったところで、それはイコールで叶えられることはない。

ここでお願いをしたという因果と、宝くじが当たったという因果は全く違う因果であって、それを繋げるのは、「神社でお祈りをしたから宝くじが当たった」と考えることは合理性に満ちていないと僕は判断する。

つまり、そのようなものは合理的な判断が存在しない馬鹿げた判断だと、僕は判断している。

よって、僕は神社に行っても絶対に祈らない。

それが僕の矜持だから。

神に祈らないという事が、僕を僕足らしめるから。

それが何故かも当然合理性によって成り立っているのだけれど、その話は長くなるのでしない。

簡単に言うならば、神様を信じている人たちは全く非合理的で愚かで弱々しく愚鈍で怯懦であると考えていて、少なくとも僕は神を信じていないという点において彼らより勝っていると考えているから。

恐らく、彼らは神様に祈る。

その事はその事で完結しているのだけれど、偶然的に訪れた幸福をその祈りと関連付ける。

それは合理的に考えるならば明らかな誤謬推理であって、正しい道理もない。

今神に祈ったことと、例えば癌が完治したことと一切の関連性はない。

例えば、震災で死んだ人たちに対して黙祷したところで、実際に死んだ人たちの何かに及ぼすことはあり得ないのであって、そんな黙祷は「良い事をしている」という自尊心を満足させるための空虚な行動に過ぎない。

僕が何が嫌いかと言えば、そのような傲慢さが嫌いで仕方ない。

直接的な及ぼしが存在しないのにも拘らず、善行をしたという満足感に埋没して行き、実際何ら人のために役立っていないのに役立っていると思い込んでいるような人々が愚かしく思えて仕方がない。

彼らには合理性がない。

ラッセルの議論の中で、キリスト教的な罪の概念の話がある。

日本人にしたってなんとなく罪の意識を持っていてるわけだけれど、キリスト教はそれを酷く重要視する。

けれども、慣習的に罪とされている概念、例えば同性愛や飲酒、喫煙、輸血や臓器移植と言った諸概念について、合理的判断に基づいて考えればそもそも罪であると言えるものの方がどれ程にあるのだろうか。

何故同性愛がいけないのか。

飲酒することが何故?

喫煙ならば聖書が書かれた時期には煙草は存在しないわけだから、スパスパ吸えばいい。

輸血はどうして?

臓器移植のどこに倫理的な問題がある?

そういうものを一つ一つ吟味していく必要がある。

そうすれば、以前罪だと思っていた事の多くの事が罪ではないという事が分かってくる。

つまりそういう事に過ぎない。

合理性を以て特に考えずに行っている諸事、験担ぎやお守り、ジンクスと言った日常の中にある合理性の欠けたものを一々合理性のはかりにかける。

すると、そんなものがちっとも合理性に満ちていないことが分かってくる。

お守りを持っていることと、受験に合格したこと、そこに一切の因果関係はない。

お守りを持っていた。受験に受かった。この二つが別個に存在するに過ぎない。

それ以上でもそれ以下でもない。

けれど、蒙昧な彼ら(漠然とした彼ら)は、そこに因果関係を求める。

それが僕には滑稽に見えて仕方がない。

そこに因果はないでしょ?と僕は問いかけるのだけれど、彼らは無判断だ。

そんなことない!と反論をするだろうけれど、更に僕がする「何で?」という問いかけには答えられない。

彼らの思考は停止している。

でもそれでいいと思う。

誰しもがそう考えられるわけではない。

彼らには彼らの信じるものがあって、僕のように一々考えている時間も余裕もないだろうから。

けれども、彼らのような考え方は僕には出来ないし、そのような思考停止は僕にはあり得ない。

現状これを書いているという事にも当然合理性を求める。

ここにある合理性は、僕がこれを書きたいから書いているという合理性がある。

これを書く選択肢と書かない選択肢があるわけだけれど、どちらの方が僕にとって幸福度が高いか、という判断をしている。

言葉にして文字にすることは一つの自己表現であって、自分を表現することに多く人間は快の感情を抱くのであって、僕はそれを選んでいるに過ぎない。

快を選択することが悪い事であるのは、愚鈍で無判断のストイックなキリスト者の内にあるだけであって、そのようなものを、快でないものを選択するようなことを僕が選ぶ道理がない。

快に属する行動を選択することに何か罪悪感めいた感情を抱くことは当然あるけれど、それが本当に罪であるかを吟味したならば、多くそれは罪ではない。

この場合も当然それなのであって、僕がこの日記を書くことによって快の感情を得るとして、それが悪い事か悪い事ではないかという判断を行う。

そこで悪い事である、という判断は見いだせないわけであって、とするとこの日記を更新しないという選択を選ぶという事はあり無くなってくる。

何故、快を選択してはいけないのか。

それは多く、快からかけ離れた行為が大きな快を生むという事を人間が経験的に知っているから。

これは分かりやすくて、筋肉痛を思い出してもらえばいい。

筋肉を傷めつけると筋肉痛になるけれど、その結果筋肉を鍛えられるという良い結果が出てくる。

筋肉痛は不快だけれど、筋肉が鍛えられることは快であるのは明白であって、人間は誰しもがこれを経験的に知っている。

それを全てに当てはめるから頭が悪い。

あてはめられない場合なんていくらでもあるのだけれど、「良薬口に苦し」と誰しもが思っている。

実際は「口に苦い良薬も存在する」という事に過ぎない。

それが無駄を作り上げる。

何のために滝に打たれるか、何のために断食するか、何のために座禅を組むか。

結局これは勘違いしているに過ぎない。

人間は苦痛を経験すればそれに見合う良いことが得られると勘違いしている。

得られるとは限らない。

得られる場合は当然あるにしても。

よって、不快を自分から選択していく。

けれども、不快を選択する場合はその不快の結果大きな快を得る場合だけでいい。

だから、僕はこの日記を書かないという事によって得るであろう不快を選択しないわけであって、書いたことによって得られる快を合理的に選択しているに過ぎない。

よって、この日記は合理的に書かれている。




のだけれど、読んでる人は分かるのだろうか…

読んでいる人が分かればそれに越したことはないのだけれど、一応論理的に書いているとは思っているけれど、読む人が理解できているかまでは分からない。

デカダン日記でのなるたるの話なんだけれど、正直七割くらい「こんなん僕が書かなくてもみんなわかってるでしょ…」って事を書いている。

けれど、多く僕が問題にしないレベルの事も皆わかってなかったりする。

だから、この日記もそんな難しい事を書いているつもりはないのだけれど、理解されないのかもしれない。

理解されないなら、そんなものに微塵の価値もない。

当たり前だよなぁ?

僕は上に書いたように考えて生きていくけれど、多くそのように人々は考えないのだから、僕はそのような話をしない。

けれども、今日は友人と久しぶりに会って、上に書いたような(あくまでそのような)話があったので、今回はそんな話をしている。

流石に祈りとかいう言葉は出てこなかったのだけれど、合理性に基づいていないものは全てよろしくないというのがお互いの理解だった。

例えば脳死の移植なんてどこにも倫理的な問題は存在していないとか。

だって、死んでるんだから、自分の死体なんて関知しようがないのだからどうでも良いでしょ…

何でどうでも良くないのか?というのが問題で、日本人の場合はただ何となく「いやだ」から駄目なのであって、そんなのちっとも合理的じゃない。

キリスト者は…ね。

死後復活しなきゃいけないから、全身のパーツ全て揃ってなきゃならんので、切り取っちゃいかんのです。

だけれど、普通に考えて復活なんてしようがないのだから、馬鹿だなぁと。

むしろより幸福を追求すべきであって、僕はそう考えないけれど、その臓器よって多くの人が幸福になれるのなら、それをしない理由は存在するのか、っていうのが問題。

存在しない。

僕は少し違って、別に他の人の幸福はどうでも良い。

けれども、それと同じくらい死後の自分の肉体なんてどうでも良い。

だから「勝手に使えば?」と思って、臓器提供のカードも持っている。

ぶっちゃけ墓も要らない。

何のために墓が必要なのか、という事に合理的な答えを見いだせなかった。

それは友人も同じらしい。

こういう風に考え方の基盤が近いと話が合うのかもしれない。

そんな感じです。

ひーどい日記だなぁ、と思うけれど、そんなに読んでいる人が居ないから別に…ね?

実質二人しか読んでませんので…はい。

ではまたいつか。