
太平洋のソロモン諸島に位置するガダルカナル島は「ガ島」と呼ばれていました。太平洋戦争下では連合軍の攻撃により補給路を断たれ、餓死者が続出したガダルカナル島は飢餓の島、つまり「餓島」(がとう)とも言われていたことは有名です。
ソロモン諸島には他にも「墓島」(ぼとう)と呼ばれていた島がありました。ガダルカナル島の北に位置するブーゲンビル島です。
1943(昭和18)年4月、山本五十六連合艦隊司令長官が、ブーゲンビル島上空で撃墜死されたことでも島の名は知られています。
「ブーゲンビル」なのに、何故「ブ島」でなく「墓島」(ぼとう)なのかというと、ブーゲンビル島はもともとドイツ領だったためです。それで当時の島名も日本では、ドイツ語で「ボーゲンビル島」と呼ばれていました。
墓島、つまりブーゲンビル島では、駐留していた将兵6万人以上のうち、2万人以上が飢餓や病気で衰弱死しました。そのほとんどが20代でありました。
第二次大戦下ではブーゲンビル島はオーストラリア領でしたが昭和17年3月、日本軍は豪軍と米軍の連絡航路を断ち切るための作戦として、ブーゲンビル島を占領しました。(FS作戦)
ブーゲンビル島では飛行場が建設されました。隣島のニューブリテン島・ラバウルからブーゲンビル島を経由し、ガダルカナル島へ連合軍への攻撃が実施されていました。ブーゲンビルは両島の中間基地の役割を果たしていました。
ところがガダルカナルが連合軍に押され、ブーゲンビル島へと撤退が始まると、今度は米軍のブーゲンビル島への攻撃が始まりました。
タロキナから上陸し島を席巻する勢いの米軍に、これを邀撃する日本軍の兵力は、わずか米軍の6分の一です。
米軍との激しい交戦に日本軍は壊滅的な損害を被り、守備隊であった歩兵第23連隊長・浜之上俊秋大佐は大本営に撤退を具申しました。しかし大本営はこれ拒否、浜之上連隊長はその後内地へ召還されたのち、左遷されています。
浜之上連隊長は手記により、大本営の作戦は机上の空論であると批判していました。
「之(これ)は戦斗(せんとう)よりも、虐殺に等しい例であった。遂に全滅に陥るとは必然。致方(いたしかた)はない。一片の恥を忍んで、敵の射程外に部隊を移動し、攻撃を準備する外(ほか)に道はない」
米軍はタロキナにその後飛行基地を建設し、ブーゲンビル島に駐留し続けましたが、以後は日米両軍の激しい衝突は生じませんでした。日本軍にとっては戦闘どころか、補給路を断たれ第一に食料の確保に苦心惨憺する有様でした。
こうして昭和20年8月の終戦まで、ブーゲンビル島ではガ島同様、栄養失調で大量の餓死者が生み出されていました。
南太平洋の島々では戦いにおいて、日本軍は最初にFS作戦(米豪遮断作戦)による日本軍の島嶼占領、次に連合軍の反撃、やがて日本軍の撤退・または小島での孤立化、最後に連合軍の飛び石作戦で補給路を断たれ、飢餓化という経緯を辿っています。
餓島、墓島は、さしずめその典型的な例といえます。
・『ラバウルの黒い雨』、川上 清、文芸社、2013年
・『戦艦大和最後の証言』、久山忍、産経新聞出版、2010年
・ウィキペディア『ブーゲンビル島の戦い』