死亡確定の特攻隊では士気が低下した | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


 
整列する士官 


 近未来に死亡時期が確定してしまうと、人間は「いつ死んでも構わない」という自暴自棄状態に陥りやすくなる、という内容です。

 

 最初に海軍予備学生として、昭和204月に戦艦大和に乗り組み、沖縄特攻(天一号作戦)に出撃した吉田満氏の手記を取り上げます。吉田氏は大和沈没後に救助され、その後は回天基地に駐在していました。

 

 「(大和特攻後)それからの五カ月を陸上の特攻基地勤務に過ごした私は、そこで終戦を迎えた。まっ先にきたのは、いかに生きるべきかという自問だった。いつでも死ねるという自暴自棄な気楽さによりかかっていた身には、平和の日々は明るくまぶし過ぎた」

 

 「終戦。復員。私を迎えたものは、肉親の涙であり、和やかな生活の慰めであった。だが私は、はからずも戦陣の粗暴と荒涼をなつかしむ自分を見出して愕然とした。

 

いつでも死ねる、いつでも死んでやる。それは何と毒々しい誘惑だったろう。そのおかげで、日常のこまかなつとめを、如何に平然と無視することが出来たろう。

 

だが今ここにあるのは、父母につかえ、一つの文字を心して書き、大過なき一日をよろこばねばならぬ自分にほかならぬのだ」

 

 当時の特攻隊員でも、このように「もうどうなってもいい」という、人生に自暴自棄的な心情を抱いた者も多かったのかもしれません。

 

「生」の対極は「死」です。結局「何が何でも生きたい」という生への望みが絶たれると今度は裏返って、「いつ死んでもいい」という反作用的な心境に到達しやすくなります。

 

従って日常生活もどうでもよくなってきますから、特攻隊員も日頃の勤務に身が入らないという状況が、ままあったのかもしれません。


機体のマーク 

 

一方、米軍も日本軍の特攻隊に劣らず、勇猛果敢であったという話も少なくありません。これは昭和204月の坊ノ岬沖海戦での、戦艦大和の乗組員の証言です。

 

「はっと気づくと、(大和の)高角砲が狂ったように弾丸を打ちあげている。銃も焦げよと機銃兵たちも奮闘している。

 

敵機は勇猛であった。操縦桿をにぎるパイロットの顔がみえるまで接近してくる。

 

――大和魂をもつ日本兵は、世界一勇敢な兵隊である。

 

 と聞かされてきたが、アメリカ兵たちも日本兵にひけをとらない。敵機たちは猛烈な対空砲火にひるまず急襲してくる。

 

 陽光のなか最新鋭の機体がキラキラときらめく。かぞえきれないかずの敵機が真っ青な空のなかに乱舞する。鳥のようだ」

 

 米軍には特攻作戦はありませんでしたが、日本軍との戦闘は勇敢さでは互角とも言えました。米兵は死ぬかもしれないが、万が一つに生きる可能性を掛けて、日本軍に攻撃を挑んできました。

 

 生きる希望があるという事は、まだ未来が継続する可能性があるということです。そのため戦闘以外の日常業務も未来への足掛かりの一環として、意欲的に取り組むことが出来ます。まだ未来があるという楽観的心情が維持できると、士気の向上にもつながるでしょう。

 

 ところが日本軍のように特攻隊員を養成し、彼らの未来を閉ざすことは現場の士気を大きく低下させることになったのではないでしょうか。特攻隊員に選出された時点で、既に彼らには非常に限定された生存期間しか残されておりません。

 

 そこで「もう死ぬんだからどうでもいいや」という心境に達し、前述しましたが日常業務もおざなりになってきます。

 

 結局、苦肉の策から日本軍は特攻隊を編み出しましたが、その反動として現場の士気の低下という隘路をさらに招いてしまいました。

 

 

『戦艦大和最後の証言』、久山忍、産経新聞出版、2010

『戦中派の死生観』、吉田満、文藝春秋、1980