戦艦霧島の烹炊所に勤務していた海軍兵の日常生活をご紹介しています。
「太陽といえば、われわれ主計科は陽にあたることが、ほとんどと言っていいほどなく、したがって、顔色は白く、最下級兵にいたっては、いつも怯えているせいもあってか、青白くさえ見える。
上陸しても、主計兵は腕のマークを見るまでもなく、なんとなくわかるほどであった。
艦隊勤務の歌のように、“あかがね色”の肌色には程遠く、弱々しい感じさえする。作業も文字通り“陽のあたらぬ場所”、他科の兵隊より遊びもおとなしい様であった」
烹炊班には会計検査というものが1年に1回か2回ありました。検査前になると食糧品の帳尻を合わせるため、倉庫にある余った麦を夜中にこっそり艦から海へ捨てる作業が秘密裏に行われていました。
「初めて『今晩麦をデッコ(捨てる)する』と言われたときは、何のことかわからなかった。残飯は捨て馴れていたが、倉庫にある麻袋入りの生の麦を捨てるとは、どういうことなのだろうと思った。
わたしたちの育った年代は、一粒の米も一粒の麦も、もったいないもったいないと教えられ、御飯を一粒こぼしただけでも怒られていたのだから、驚くのも無理はない。
それも、いつも残飯をデッコ(捨てること)するスカッパー(ゴミ捨て口)から捨てるのだから気持が悪かった」
「会計検査前になると、麦のデッコは毎晩のように続いた。一晩に2,3袋平均で、状況によって中止されたりしていた。月夜の晩は明る過ぎてできなかった。
なにもそんな手間をかけなくても、ドボンと投げ込んだらいいようなものだが、投身自殺者か転落者と勘違いされたりしたら大変なことになる恐れもある」
重巡洋艦「高雄」の烹炊所
筆者の海軍烹炊兵が人差し指を怪我した時の出来事です。
「人差し指といえば、気の合う同年兵としみじみと語り合ったことがあった。『陸軍は右の人差指を負傷したら除隊できるらしいぞ』とか・・・。『いや・・・陸軍なら人差指は三八銃の引金を引くのに重要だけど、海軍はダメだろう』とか・・・。
後で考えたらバカらしいことだが、今にも指を切り落としそうな話を、真面目な顔でやっていたものだ。海軍を、なんとかしてやめる方法はないだろうか。ということから、こんな話になった」
「同僚とこんな会話をかわせる時間は、ほとんどと言っていいほどない。たまたま二人で作業を命じられた時ぐらいである。普段は同年兵同士で口をきくことはなかった。みんなスネたようなふくれっ面で、毎日がシラケ切っていた。
一般社会からみたら、同じ艦内で生活していて横の連絡がないなんていったら、奇異な感じがするだろうが、軍艦の勤務は、乗組み前の想像にはほど遠く、戦友という感情が芽生える余地がないところであった。
なにもかも機械的に動いていて、人も機械も武器も、ただ物理的に作用し合って動いているようだった」
このような横の連携がない状況は、烹炊班だけでなく、海軍全体に共通して見られた光景であったとも言われています。また現在の海上自衛隊でも、同じ事情を抱えていると聞いたこともあります。
『海軍めしたき物語』、高橋猛、新潮文庫、1982年
『写真で見る海軍糧食史』藤田昌雄、光人社、2007年