
海軍の記録というと、組織の中でも花形であった兵科がメインとなっているため、地味な衣糧・会計を管理する主計科などの話はなかなかお目にかかれません。
回顧録一つとっても、海軍の兵科至上主義が垣間見えて興味深い所です。そんな当時の海軍組織の有様を踏まえ、烹炊班に所属していた海軍主計兵の日常を取り上げます。
「主計科というのは経理と衣糧に別れていて、経理は庶務と給与(会計)で、衣糧は文字通り被服の管理事務や食糧の管理をつかさどるとなっているのだが、両方共事務にたずさわるにはそれ相当の学校を出ていなければならない仕組になっているのだ。
私達の徴兵された主計兵というのは、衣糧の方に属し、その中の糧の方は烹炊(ほうすい)作業、つまり“めしたき兵”だったのである。
私が前掛け(エプロン)をつけさせられたときはガックリした。東京駅で見た主計兵のイメージは完全に崩れ世の中の厳しさを感じたことであった」
筆者は以前、東京駅でイケメンの水兵服を着た海軍主計兵を見て憧れていたのですが、職務内容を知らずに佐世保海兵団に入団したのち、主計科の現実を思い知らされて失望したようです。
「♪主計兵が兵隊ならばトンボ蝶々も鳥のうち
と歌われているにいたっては尚のことである。海軍内では兵科や機関科は兵隊さんだったが、主計科と衛生科(看護兵)は一段下に見られていたのである。
栄養学から調理術まで学科は専門的なものばかりで、その気になれば立派な調理師にもなれるものだったが、出鼻をくじかれて、やる気を失っていた私は、殴られない程度に学習していたのが私の海兵団生活だった。
主計科といえども海軍軍人には違いない。他科と同じように軍事訓練は一通りうける。むしろ、他科にバカにされるな!ということで分隊(軍事)訓練は厳しかったようである」
海軍では、まず兵科将校が最優先の指揮権を握っていました。次が機関科将校、主計科士官の指揮権はそのまた下に置かれていましたから、その指揮権の威光振りが職務にも反映されていたのでしょう。
一方米軍では「どの部署にもそれぞれの役割がある」という意識で、帝国海軍のように職務による差別意識は見られなかったようです。
1941(昭和16)年12月8日、主計兵で烹炊班勤務の筆者は戦艦霧島にて、真珠湾攻撃に参加していました。しかし汚れた前掛けのまま、甲板上で出撃機へ「帽振れ」をするにはためらいがありました。
「『総員見送り』のときは、払暁の海に零式艦戦の編隊が、機動部隊の上空で銀翼を紅に染めながら旋回し、見送りに応えていたに違いない。
私達主計兵も総員のうちには違いないが、晴れがましい壮途を見送るにはふさわしいとはいえないのである。まさか前掛け姿で、めししゃもじを振るわけにはいかないではないか。
旧兵達も『行って来い』とも言わないし、みんなも行く気もないらしかった。そんな暇があるか・・・といった顔付きである」
『海軍めしたき物語』、高橋猛、新潮文庫、1982年