海軍主計兵の見たミッドウェー海戦 | 太平洋戦争史と心霊世界

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烹炊所 

 帝国海軍主計科は庶務、経理、被服、糧食を担当する部署です。糧食のほうは烹炊(ほうすい)と呼ばれ、艦艇乗組員の食事を作るのが仕事でした。

 

 食事係のため、主計兵たちは軍艦内部の烹炊(ほうすい)所で一日炊事作業に明け暮れます。

 

従って戦闘状況下でも軍艦から飛び立っていく飛行士が、戦況をつぶさに観察できる立場にある一方で、軍艦の烹炊(ほうすい)所で働いている主計兵は密閉状態にあり、外で何が行われているのか全く分からない、という状況に置かれていました。

 

1942(昭和17)年65日、戦艦「霧島」はミッドウェー海戦に参加しましたが、主計兵の見た烹炊(ほうすい)所は以下のような様子でした。

 

「ウオーンウオーンと天窓が唸る。釜飯はフル回転で、次々と炊き出される五目飯の湯気は汗と共に天井まで一杯になって、天井からポタリポタリと雫が落ちていた。

 

ズシンズシンと大砲の発射音が伝わってくる。私達は戦況がどうなっているのか、全くわからない。旧兵も下士官も同じであった。みんな黙々と作業を続けている。

 

今までに経験した戦闘からすれば少し様子が違っているぐらいの程度で、特におびえた表情の者はいなかった。私自身も、戦況を想像する余裕もないほど忙しい作業だし、この大きな戦艦が沈む筈がないと思っていた。

 

敵の砲弾より、むしろ殺気立った旧兵の、いつ飛んでくるかわからないビンタのほうが恐かったのが実感だった」

 

結局、主計兵の乗った霧島はミッドウェーでは無事生き残り、内地へ帰還しました。しかし出撃した空母、「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4隻が米軍により撃沈されたのは歴史の通りです。

 

「私達が次の食事の用意に取りかかった頃には、艦の横揺れは少し少なくなったような気がしていたが、相変わらず天窓は唸っていた。

 

『オイ!高橋!ニンジン(玉ねぎだったか?)を取ってこい!』『ハッ!』『急げ!』

 

私は遮断されている烹炊(ほうすい)所から初めて戦闘中に出ていくことになった。野菜庫は上甲板から二メートルばかり上がったところにある。(中略)

 

やっと飛沫の間を抜けて一気に野菜庫に駆け登り、風圧を受けている扉に手をかけようとしたときである。チラリと私の横顔に、オレンジ色の明るい光のようなものを感じ、ハッとして振り向いた。それは心臓の鼓動が止まる程の驚きであった。


炎上する日本の空母 

 

燃えさかる我が航空母艦の姿が、私の眼に飛び込んできたからだ。距離にして二千メートルあるかなしか、海上で見ればすぐそこに見える位置である。しかも全速力で、我が艦に寄りそうかのように同航しているではないか。

 

私は一瞬目を疑った。が、まぎれもなく僚艦の哀れな姿であった。それが<加賀>であったか、<赤城>であったか未(いま)だに確かめることはできない。

 

飛行甲板の周囲からは、ボーッ、ボーッと炎が吹き出し、艦橋の下半分は煙に隠れて見えない。何であるかはわからないが、飛行甲板の後部あたりから、黒いものがポツリポツリと落ちているような気がした。(黒いものは乗組員だった)

 

燃えながら煙と航跡を後に引いて同航を続ける僚艦を、恐る恐るもう一度見た時の私の眼には、涙が一杯出ていたのを覚えている。

 

命令された野菜を、涙をふきながら配食鍋に詰め込んで、これで見納めとなった僚艦に別れを告げ、また、不気味なまでに静かな通路を烹炊所へと急いだ。(中略)

 

私は見てはならないものを見てしまった気がしていた。烹炊所は、配食棚のシャッターを降したまま、次の戦闘配食作業を続けていた。

 

いつもなら、一つや二つのビンタの音が聞こえるのだが、その日は、旧兵の口数も少なく、天窓の風の音だけが、湯気の中に響いていた。旧兵達は外の状況を知っているのだろうか・・・」



『海軍めしたき物語』、高橋猛、新潮文庫、1982年