根本 博 【後編】 -台湾独立を援助 | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


根本博と家族 

根本博と家族。右側が妻の錫。



 終戦後の1949(昭和24)年6月、李鉎源(り・しょうげん)と名乗る台湾人の要請により、根本博とその通訳の吉村是二は、密かに台湾へ小船で密航することになりました。「国共内戦」で台湾の蒋介石に加勢するためです。

 

 根本は蒋介石とも戦時中より交流がありました。蒋介石は終戦直後に根本中将と会談し、自らの死を覚悟して戦争責任を問う根本を制し、日本再建のため帰国するよう諭した経緯がありました。蒋介石は、

 

「われわれ中国の軍人は、日本軍の侵略に対して抗戦はしたが、日本軍人に対して憎悪の感情は持っていない。そうは言っても、日本軍人が信ずるか、どうかわからんが、本当なんだ。

 

両国とも国のため、命令にしたがって、戦ったわけだ。だからこそ戦争が終わった現在、対等な隣国の戦友にならねばならん」

 

 と語りました。「怨に報ゆるに徳を以てす」、という蒋介石の温情に感激した根本は、

 

「東亜の平和のため、そして閣下のために、私でお役に立つことがあればいつでも馳(は)せ参じます」

 

 と約束し、蒋介石のもとを辞しました。この終戦時の恩が、根本を台湾へと向かわせたのです。

 

 終戦時より既に中国各地で共産軍と国民党軍の衝突は始まっており、ソ連が共産軍に対し支援を強める中で、台湾の蒋介石は、アメリカや日本による支援が勝利への必須条件と考えていました。

 

 台湾へ渡航した根本らは蒋介石との再会を果たし、根本は湯 恩伯(とう・おんはく)の第5軍管区司令官顧問に中将として任命されました。



金門島 

中国本土に隣接する、台湾の金門島


 

 1949(昭和24)年10月の中華人民共和国成立後に、本土から僅か数キロ隔てた位置にある金門島で戦いがありました。根本はこの古寧頭戦役(こねいとうせんえき)とも呼ばれる戦闘で国民党軍を作戦指導し、大勝利を収めました。

 

根本中将は当時、中国人将校として「林保源」と名乗っていました。つまり彼の名は台湾では極秘中の極秘だったのです。現在でも根本博の名は台湾では知られていません。

 

その理由は、蒋介石が日本人の手を借りて金門島を守ったということが分かれば、蒋介石にとって大きな恥となったに違いない、という推察がなされています。



根本博と蒋介石 

昭和35年頃、台湾に招かれた根本博(左)。右が蒋介石。



 根本博は一見茫洋として掴みどころのない性格であったため、陸軍士官学校時代の教官であった、荒木貞夫からは「昼行燈」(ひるあんどん)と呼ばれていました。

 

 しかし蒋介石の温情を受け満州から日本へ帰国後、今度は蒋介石から援助を求められると、家財道具を売って旅費をひねり出し、台湾へと出港しました。

 

 個人として昔の恩義に報いる所は、とても「昼行燈」の評価は当たらないとも言われています。

 

 根本博には以前掲載したキスカ島撤退、占守島(しゅむしゅとう)の戦いを指揮した樋口季一郎とも共通項があります。

 

それは軍規という社会的規範が不適切と判断するや、潔く自己責任で良心に従い行動する誠実さです。これが彼らの名が現代でも敬意をもって語られる所以なのかもしれません。




・ウィキペディア『根本博』

・『戦略将軍 根本博』-ある軍司令官の深謀、小松茂朗、光人社、1987

・『この命、義に捧ぐ』-台湾を救った陸軍中将根本博の奇跡、門田隆将、集英社、2010