
根本 博、1891-1966年、享年74歳
以前あるブロガーさんから根本博の人物伝を、とのリクエストをいただいていました。今回遅くなりましたが、それを掲載します。
根本博中将は、昭和史に通暁している層には名が知られているようですが、一般的には無名の陸軍軍人であると思います。
根本の特筆すべき功績は2つあります。一つは終戦時に駐蒙軍司令官として、尚も攻め入るソ連軍の手から満州在住の邦人4万人を救出し、無事日本へ帰還させたことです。
2つ目は復員後の1949(昭和24)年、台湾(中華民国)に渡り蒋介石に協力。金門島の戦いにおいて司令官顧問として指揮し、中国人民解放軍を撃退し、台湾独立に貢献した経歴があります。
根本博は1891(明治24)年生まれの福島県出身。陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校を卒業(23期)。陸軍大学は34期。
根本は昭和19年冬、関東軍からモンゴルの駐蒙軍司令官として張家口(ちょうかこう)の司令部に着任しました。
昭和20年1月の時点で、駐蒙軍は混成二個師団で日本全体の面積に匹敵する地区を警備し、かつ国民党の傅作義(ふ・さくぎ)と八路軍に対抗せねばなりませんでした。
傅 作義(ふ・さくぎ)、1895-1974年、享年78歳
ちなみに国民党の傅作義(ふ・さくぎ)ですが、彼は「見危授命」、つまり人の危うきを見て自分の命を投げ出すという言葉をモットーとしていました。
日中戦争以前の5年間、彼は第35軍長兼、綏遠(すいえん)省政府主席として善政をしき、根本とも親交がありました。
根本はまた蒋介石とも昵懇(じっこん)の仲でもありました。若い時より「根本は支那人」と陰口を叩かれるほどの親中派で、傅作義の思想にも傾倒していたようです。根本のこのような一面が、のちの台湾独立運動の援助へと続いていきます。
昭和20年5月のドイツ降伏後、ソ連軍の動向が極めて険悪化しつつありました。根本はドイツが降伏したら、ソ連は必ず対日戦に参加すると推測していました。
しかし関東軍司令部は、ソ連軍が侵攻してきても、一般邦人にとっては無武装・無抵抗が最高の手段と考えていました。また一般日本人の間にも「ソ連軍は丸腰の日本人を絶対殺傷しない」という噂が流布されていました。
日ソ両国人の心情は全く違うと考えていた根本は、事態を憂慮し管内奥地の邦人から逐次、張家口へ在留邦人を集結させ始めました。
案の定、昭和20年8月9日の対日宣戦布告により、ソ連軍の満州侵攻が始まりました。8月15日の日本降伏後もソ連軍の進撃は止まりません。
大本営からも速やかに武装解除せよ、さもなくば処罰するとの命令が下されました。
それに反してソ連軍の本質を見抜いていた根本は、ここで投降すれば一般邦人をはじめとした日本軍は、ソ連軍に皆殺しにされるであろうことは容易に予測がついていました。
根本は部下の将兵を集合させ、こう命令しました。
「理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ連軍を断乎撃滅すべし。これに対する責任は、司令官たるこの根本が一切を負う」
彼はソ連軍を相手に絶対に武装解除しないことを決意していました。ポツダム宣言を受諾し、本国から武装解除命令が出ているにもかかわらず、これを拒否して戦闘を行うのは、戦勝国側から見ればそれだけで「戦争犯罪人」扱いとなります。
しかしその責任は全て、根本司令官個人が引き受けることを、部下に改めて明示したのです。
ソ連軍の奇襲が始まったのは8月20日、日本軍もこれを邀撃し、すさまじい白兵戦となりました。日本軍との激しい銃撃戦、斬り合いにソ連軍は戦意を喪失し始め、8月21日、日本軍にも撤退命令が下されました。
同時に21日の午前中に日本人居留民4万人は北京・天津方面へ脱出したとの報告がなされました。こうして根本司令官の駐蒙軍は、在留邦人の保護に成功し、最終的には居留民が引き揚げ船に乗るまで見届け、援助を尽くしました。
根本中将の指揮下にあった、独立混成第二旅団に所属していた渡邊曹長は以下のように述べています。
「軍隊とは国民を守るのが原点です。私は、あの時の根本閣下の命令は当然だったと思います。私たちの戦いは終戦になって以後のことなので、客観的にいえば、“反乱”ですよ。
でも、戦友は犬死ではなかった。そのおかげで、4万人が引き揚げて無事日本に帰って来られたのですから、結果的に4万の居留民を助けられたことは、私たちの誇りです。
隣の満州の関東軍は、武装解除に応じて、邦人があんなひどい目に遭ったわけですから、同じ将軍でも、わが根本閣下は違う、と私たちは今も誇りに思っています」