日本語の会話を聞いていると、10年前位から「食べられる」が「食べれる」、「見られる」が「見れる」という言葉に置き換えられることが相当多くなってないですか?
ここでの「食べられる」、「見られる」は「受け身」でなく、食べることができる、見ることができるという「可能」という意味で使っています。
でも調べてみたら、中には「食べれる」、「見れる」の「ら抜き言葉」が方言として使用されている地方もあるようです。
私は関東地方出身ですけど、家庭では「ら抜き言葉」は一切交わされていませんでした。それもあり、「食べれる」、「見れる」は未だに抵抗があって使えません。
では一体どこの地方で「ら抜き言葉」は標準として存在するのでしょうね。
ウィキペディアによると、実は関東でも「ら抜き言葉」の使用は大正時代から始まっていたそうです。1970年に調査された東京都内の小中学生1,539名は、「見られる」と「見れる」を以下のように使い分けていました。
・見られる:64.5%
・見れる:9.5%
・両方使用:24.1%
「ら抜き言葉」は東京でも、昔から細々と使われていたんですね。今では話者の過半数が「ら抜き言葉」を使用しているようにも見えますが、言葉というものは生き物で、この形式が絶対、という正解はないのかもしれません。
ちょうど喫煙が同じですね。一昔前、喫煙は当たり前の行為でしたが、その代わりノンスモーカーは煙害に苦しめられました。
今では喫煙自体が迷惑行為となり、少数派に転落したスモーカーが逆に肩身の狭い思いをするようになっています。
だから「ら抜き言葉」を話す日本人が大多数になれば、その使用法が正しいと言うように、日本語も移り変わっていくのかも・・・。
ら抜き言葉:「生で食べれるのは・・・」