昭和19年2月15日、トラックの通信隊はアメリカの通信を傍受します。翌朝警戒態勢が敷かれ、航空機による偵察が命じられます。
【元飛行隊長 肥田真幸さん(92)】
16日早朝、私の航空隊に敵を探しに行けという命令が来たわけです。それで3時50分、索敵に出したわけです。それが発見しなかったんですよ。敵を発見しなかったんです。
連合艦隊の司令長官に代わってトラックでの指揮を託されたのは、戦闘を指揮した経験がほとんどない第四艦隊司令長官の小林仁(まさみ)でした。小林は敵発見せずの報告を受け、すぐに警戒態勢を解除します。
第四艦隊司令長官、小林仁(まさみ)
5日前、部下を率いてトラックに着任した肥田真幸さん。肥田さんは、休みなく偵察を命じられていました。ようやく伝えられた警戒態勢の解除でした。
【元飛行隊長 肥田真幸さん(92)】
「休め」がかかったわけですよ。もう忙しくてしょうがないでしょ。よかったなあ、休めという号令がかかったからね。
そら急げっていうんで飛行機を運ぶやら、なんやかんらしてですね、17日の朝は索敵には行かなかったわけです、休めだから。それがエライことになったわけですね。
翌日の昭和19年2月17日早朝、アメリカ軍は空母から攻撃隊を出撃させます。トラックで空襲警報が出された時には、既にアメリカ軍は上空に飛来していました。2日間にわたるトラック大空襲の始まり。最初に狙われたのは航空基地でした。
【元警備隊 電測兵 樽見太助さん(87)】
ドラム缶が山積みであった。それが敵機の攻撃で誘爆して、ほとんどの零戦がみんな爆発した。
【元輸送船 甲板員 平山豊次さん(85)】
味方の飛行機と敵機が体当たりして、味方の飛行機は降りる飛行場がないわけです、燃えていますから。敵機に体当たりして落ちてくるのがいるわけですよ。
降りる所はないわけですから、自分だけヤラれるより相手の飛行機と一騎打ちした方がいいと判断したんでしょうけどね。
空襲開始から2時間足らずで航空部隊は壊滅。次に標的にされたのは連合艦隊の主力が去ったトラック諸島に残された、ほとんど防備を持たない輸送船でした。
次々とアメリカの標的となっていく輸送船。「赤城丸」も爆弾を受け海に沈みました。戦局悪化に伴い内地に引き上げるため、女性や子供を中心に500人以上の民間人が乗っていました。
通信兵だった白井桂司さんは、兵士や民間人合わせて50人と共に救助用ボートに乗り込み、一命を取り留めました。漂流を始めて1週間後。水や食料が尽きつつある中、上官の一人が民間人に告げた言葉を白井さんは覚えています。
【元通信兵 白井桂司さん(85)】
「軍人でない女子どもは死んでください、死ね」って。これからまだ兵隊は働いてまらわなならん。その人の飲む水とか食糧が減るでしょ。
そしたら、沖縄の人が「兵隊さん、元気で帰ってくださいよ」って言ったの、わしんとこにね。「ありがとうございました。お世話になりました」と言わんばかりに。死ぬ先に、なかなかそれだけ言えないよ。その時はかわいそうだのって思ったけど、まぁどうしようもない。
あの、兵隊さんありがとう・・・ここまで言うと、泣けちゃう。海に飛び込むとき、子ども連れて・・・。
日本軍が出した損害は輸送船31隻、艦艇10隻、航空機270機という膨大なものでした。命を落とした兵士や軍属、民間人は2,000人以上に上りました。
しかし国民に空襲の実態が伝えられることはありませんでした。(新聞記事)「トラック諸島に来襲せる機動部隊は同方面・帝国陸海軍の奮戦により、これを撃退せり」。
海軍内部では連合艦隊の責任を問う声が上がりましたが、処分されたのは島にいた現場の指揮官だけでした。連合艦隊上層部の責任が問われることはありませんでした。(終)