[証言記録 兵士たちの戦争]トラック諸島・消えた連合艦隊 【前編】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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戦跡 


 NHKのトラック島空襲についての動画がありますので、この一部の内容を掲載しました。本当はトラック島記事も2月の時期に合わせ書きたかったのですが、遅くなってしまいましたね。(以下より文字起し)

 

 

【動画】トラック諸島・消えた連合艦隊(43分)
http://p.tl/YzbS


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(昭和1819年にかけて)海軍軍令部は、連合艦隊の拠点にアメリカ軍が迫りつつあることに危機感を募らせます。

 

軍令部は連合艦隊に対して再三にわたり、トラック諸島から移動するよう要請します。しかし連合艦隊司令長官、古賀峯一はこれを受け入れず、トラックに留まり続けました。

 

彼は失った勝機を挽回するため、トラック諸島は米軍との決戦の場に最適であると考えていたためです。その決戦に備えてトラックには物資を運ぶ輸送船が続々と集まっていました。


大和と武蔵 

 

しかし昭和19210日、トラックの兵士たちは異変に気付きます。連合艦隊が消えていたのです。

 

 

【元航空隊 機関兵 大輪正行さん(89)】

 

通信隊の兵隊が「おい、連合艦隊がいねえぞ。出かけたから、もしかしたら空襲あるかもしらんぞ」ていう話は聞いたけんど・・・。

 

 

【元海軍士官の証言】

 

「連合艦隊が逃げやがった」、「ひでーもんだ」と、そういう気分で言ってましたな。逃げたって言葉は、そんなこと言ったらぶん殴られますけどね、内地でやれば。

 

 

連合艦隊司令部は作戦を変更。旗艦「武蔵」をはじめ、主力15隻に移動を指示していたのです。この頃、連合艦隊司令部が決戦兵力の一部と期待していた島々の航空部隊は壊滅していました。


トラック島地図 


そのため司令部はトラックを拠点とした決戦は時期を逸したと判断。後方のパラオに下がり、態勢を立て直したうえで再度決戦に臨もうとしたのです。

 

当時の古賀司令長官の考えが、参謀長の戦後の回想に記されています。「古賀長官の作戦は一言にしていえば、少しでも戦果の多いものにしようというのにあった」。

司令部の関心は少しでも有利な条件のもとでアメリカ軍との決戦を行う事に集中していたのです。

 

連合艦隊の主力部隊が去った後、島には決戦のため集結していた多くの艦船が、なぜか残されました。最も多かったのが兵員や物資の輸送を命じられていた輸送船でした。乗組員は船と共に徴用された民間人でした。

 

 

【元輸送船 甲板員 高橋太一郎さん(85)】

 

(輸送船は)消耗品だっていうのがあの頃の海軍の考え方ですよ。使えるだけ使えっちゅうことなの、消耗品だから。

 

必ず船は荷物を積んで走る時は護衛艦(駆逐艦)を付けるんです、油が大事だから。ところが、あげてしまったら、お前ら勝手に油積みに行けっていう、もう護衛艦なしです。

 

 後編に続きます。