トラック島空襲 | 太平洋戦争史と心霊世界

太平洋戦争史と心霊世界

海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


トラック島空襲 

トラック島を攻撃中の米軍爆撃機、SBDドーントレス



 東京から4千キロ南東に位置するトラック諸島は、戦時中には南太平洋での日本海軍の一大拠点地となっていました。

 

海軍はこの広大な環礁に囲まれた島々に数か所の飛行場、船舶修理施設、計5万トン貯蔵可能な重油タンクなどの補給施設を所有していました。

 

 昭和1811月、日本海軍の最前線であるマキン・タラワ両島が米軍の攻撃で陥落。米軍とトラック島の日本海軍の距離は1千海里(約2千キロ)に迫り、トラック島にも米軍偵察機が連日のように飛来するようになりました。


トラック島地図 

 

 この情勢を憂慮し、連合艦隊司令長官の古賀峯一大将は昭和19210日、司令部をトラックからパラオに、主力部隊をパラオと内地へ移動させました。古賀長官自らは戦艦「武蔵」に座乗し、打ち合わせのため帰朝しました。 

 

 その1週間後の217日、第五艦隊司令長官スプルーアンス大将率いる米機動部隊がトラック島に襲来しました。これは「トラック島空襲」、または「海軍丁事件」とも呼ばれています。

 

 二日間にわたる空襲は、日本海軍に以下の甚大な被害をもたらしました。

 

・航空機:270機喪失

・軽巡2隻を含む艦艇12隻が沈没

・高性能の輸送船が30隻沈没

 

 ほかに重油タンクや船舶修理施設、莫大な補給物資を焼失し、トラック島は一夜にして灰燼と化してしまいました。結果としてこの空襲で、南太平洋での海軍の作戦は事実上麻痺してしまったのです。

 

 トラック島空襲での大惨事となった原因は、第四艦隊司令長官であった小林仁(まさし)中将の判断ミスとされています。



 

小林 仁(まさみ / まさし)、18901977年(享年87歳)


 

 古賀長官が210日にトラック島から退避した時点から、同島は警戒態勢に入っていなければなりませんでした。その責任はトラック島の最先任指揮官であった、小林中将にあります。

 

 しかし小林中将はこのような対策を一切講じておらず、空襲の前日である21617日、なぜか警戒配備を解除してしまいました。

 

 連合艦隊の司令長官以下が退避行動に出ているのですから、米軍との動向も抜き差しならない状況にあるはずです。

 

 にもかかわらずトラック島では空襲当日、警戒配備を解除し、偵察行動を行わず、将兵には外出許可を出し、小林中将自らは趣味の魚釣りに興じていました。

 

 小林指揮官はのちにこの失態を問われ、病気の理由で更迭、予備役編入という顛末となりました。しかしこれが欧米の軍隊であれば、軍法会議、即銃殺に相当する重罪とされています。



号令台 

海軍基地跡の号令台(トラック諸島・夏島)


 

 小林中将は戦後まで生き残りましたが、海上自衛隊幹部学校教官を務めた竹下高見が、小林からトラック空襲についての証言を得ようと試みたことがありました。

 

「(前略)トラックとか、テニアンとか、サイパン辺りは、意識の問題もあると思うんですね。(中略)

 私は、戦史部におります時に、小林中将に二回ほどなんとか聞きだそうと思いまして、お話伺いましたけれども、トラック空襲については一言もしゃべられませんでした」

 

 ミッドウェー海戦の際も、出撃前から巷では「次はミッドウェー」という声が流布されていましたが、その事自体が軍紀の弛緩を表していました。

 

竹下氏の語る「意識の問題」とは、ミッドウェー同様の過失を指しているのではないでしょうか。

 

 

・ウィキペディア、『トラック島空襲』

・ウィキペディア、『小林 仁』

・『海軍の失敗』、是本信義、光人社、2008