飛び石作戦 | 太平洋戦争史と心霊世界

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硫黄島での回想シーン 


 飛び石作戦とは、太平洋戦争で米軍が島伝いにとった侵攻作戦です。英語では「アイランドホッピング」(Island Hopping)、または別名「蛙飛び作戦」(Leapfrogging)とも呼ばれていました。

 

 米軍が飛び石作戦を行った目的は、ラバウルなど侵攻困難な日本軍基地への上陸を避けながら、サイパン島など日本本土に近く、日本軍の戦力が弱い拠点を集中的に攻撃し陥落させ、兵力の消耗を防ぐことでした。



飛び石作戦2 

米軍の飛び石作戦



  攻略は例えば上の図のようにABCDという島があるとするなら、最初に日本本土に近いB島を攻撃してA島の孤立化を図ります。次にC島ではなくD島を空襲して制空・制海権を得ると共に、C島は自然壊滅に任せます。

 

 制海権・制空権を失った島には当然補給物資も届かなくなるため、駐在していた日本軍は米軍が攻撃せずとも自ら自滅していきます。

 

 ラバウルは米軍と豪軍を分断させるための、日本海軍の重要な前哨基地でした。攻略に手間がかかると判断した米軍は194310月~11月にラバウル空襲を行ったものの、上陸は行いませんでした。


ラバウルとトラック諸島 

 

 翌年1944(昭和19)年2月には米軍によって、日本海軍の根拠地であったトラック島が空襲され、島は一夜にして廃墟と化し、航空兵力も失われました。

 

そこで海軍はラバウルの海軍航空隊を全部トラック島へ移駐させました。こうしてラバウルは前哨基地としての意義を失い、米軍に制海権を断たれて孤立化していきます。

 

 戦略的意義を失ったのはニューギニアも同様でした。陸軍第八方面軍は海軍の拠点であるラバウル・トラック島を守るため、海軍からの強い要請もありニューギニア・ソロモンに出兵していました。

 

 しかしラバウル・トラック島が無力化したため、陸軍でもニューギニアを守る意義を失ってしまいました。

 

最終的にニューギニアの日本軍は大本営陸軍部にも見捨てられ、補給を断たれた日本軍は、終戦まで飢餓地獄の中を生きることになりました。ニューギニアでの日本軍の死因の7割は、餓死であったと言われています。

 

 トラック島も同様で空襲で壊滅的打撃を被り、制海権を失い本土からの補給が途絶えた末、多数の飢餓者を生み出しました。

 

 トラック島だけでなく、ウェーク島など太平洋の多くの小島では飢餓状態が出現しました。これは小さな珊瑚礁の島は平坦な砂地で地味が悪く、耕作して自活しようにも農作に適さない場所が多かったことも原因の一つでした。

 

 しかしラバウルを中心とするニューブリテン島は、補給が途絶えてからの2年間、現地での長期自活が可能であった稀有なケースとなりました。

 

 その理由はニューギニアのように直接の戦場とはならず、農業に専念できたことと、土地が肥沃で耕作に適していたためです。それでも栄養の片寄は避けられず、将兵の体力低下など問題が発生しました。

 

 

・ウィキペディア、『アイランドホッピング』

・『海軍の失敗』、是本信義、光人社、2008

・『餓死(うえじに)した英霊たち』、藤原 彰、青木書店、2001年