習志野駐屯地と空挺館(くうていかん)【後編】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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習志野駐屯地1  空挺館(旧御馬見所・きゅうごばけんじょ)。

 

習志野駐屯地の訪問記、史料館でもある空挺館を中心に取り上げています。


習志野駐屯地2  騎兵隊で使用した軍馬の防毒覆い。こんなのあるんですね!(・・;)


習志野駐屯地3 

軍馬に防毒覆いを被せ、騎乗した人間と共に上から薬剤を撒いて、効果を確認するテスト中の場面。


習志野駐屯地4 

米軍用ビール缶。

 

 御馬見所(ごばけんじょ)は終戦後の昭和20年、米軍に接収され司令官の宿舎となりました。上のビール缶は御馬見所の天井裏からのちに発見されたもの。米軍は屋根裏で一体何をやっていたのでしょうか。( ̄_ ̄ i)


習志野駐屯地5  太平洋戦争でのパレンバン空挺作戦の写真。

 

他は現在の陸自の空挺団の前身となった、帝国陸軍挺進団(落下傘部隊)の展示物がありました。


習志野駐屯地6 

ウィキペディアで調べたら「(陸上自衛隊の)第1空挺団は、初代空挺教育隊長を務める衣笠駿雄元陸軍少佐(第1空挺団初代団長)に率いられ、帝国陸軍挺進団の元隊員らから構成される第1次研究員20名によって創設された」とのこと。

 

 あれっ!?、陸上自衛隊って、旧陸軍軍人は入隊禁止じゃなかったのでは?それとも空挺団には経験者が必要だったので、やむなく入隊を許可したのでしょうか。


習志野駐屯地7 

「出撃直前の高千穂部隊」。昭和1912月、フィリピンの南サンフェルナンドで。

 

 昭和19年は食糧難の時期でしたが、マッチョな人がいます。戦時中の映画を見ると、華奢な俳優が兵隊役を演じていたりしますが、実際の将兵はこんな印象だったのでしょうね。


習志野駐屯地8 

 御馬見所(ごばけんじょ)も陸上自衛隊の空挺団駐屯地となってから、「空挺館」と改名されました。


習志野駐屯地9 

97式操縦者用落下傘。

 

「昭和15220日、陸軍落下傘部隊として初めての落下傘降下に使われたのがこの97式落下傘でした。・・・飛行機事故のときの救急用なため、足の骨一本くらい折れても命が助かればよいという代物でした」

 

 なんとも恐ろしい落下傘ですね~!(@Д@;


習志野駐屯地10  「軍馬慰霊の碑」

 

 習志野には騎兵学校もありました。石碑は第二代騎兵学校長であった秋山好古(よしふる)大将の揮毫(きごう)です。


習志野駐屯地11  敷地内で。殉職者の慰霊碑。


習志野駐屯地12  亡くなられた隊員の名前と当時の状況が彫られてありました。

 

 一番最後の事故は平成19年、演習中に予備傘(パラシュート)が開かずそのまま着地し殉職。24歳の方でした・・・。


習志野駐屯地13  降下訓練塔。

 

 もしかして、ここからバンジージャンプまがいな訓練をする?午前中のイベントで何か催されたのかもしれないけど、既に宴の後・・・。

 

 時間がなくて空挺館も駆け足だったので、また機会があったら再度ゆっくり見に行きたいですね。