
何を信じ、何を拠り所にして生きるかという信念が見つからない人生は、海図も羅針盤もない航海にも似ているのではないでしょうか。以下にその一例があります。
「『悪意の対話者』を描いた面白い小説がある。ジェームズ・クラベルの「23分間の奇跡」(青島幸男訳・集英社文庫)という短編である。これは新任の女性教師と生徒たちとの間で繰り広げられる、世にも恐ろしい対話を描いた作品だ。
教師の価値観と生徒たちの価値観は絶望的に対立しており、そのことは両者ともに重々承知している。そのような厳しい状況において、教師は生徒たちと『お互いの合意の下で妥協を成立』させていくのである。
一例を挙げよう。教室には国旗が飾ってある。生徒たちは『国旗は大切なものである』と教え込まれている。毎朝、国旗に向かって忠誠を誓うように教え込まれている。
だが、新任の女性教師は『ある理由』から、その国旗を教室に飾っておくわけにはいかない。国旗に忠誠を誓わせるわけにもいかない。そこで生徒たちに向かって問いかける。
国旗に『忠誠を誓う』とはどういう意味か?国旗が国の象徴とはどういう意味か?国旗よりも人間の生命のほうが大切なのではないか?国を大切に思う気持ちがあれば、国旗なんて必要ないのではないか?――どの質問にも生徒たちはまともに答えることができない。
生徒たちは混乱し、追い込まれていく。ここで女性教師は最後の一手に出る。
この国旗はとても美しいので、少し切り分けてもらえないか?国旗が大切なものなら、みんなも少しずつ切り分けて持っていたらどうか?――すると生徒たちは自らはさみを持ち出し、みんなで楽しそうに大切な国旗を切り裂いてしまったのである。
この小説の見どころは、対話者に徹する女性教師の姿勢にある。生徒たちは自由に発言することが許されている。生徒たちの発言に対して、女性教師は絶対に『NO』とは言わない。その代わりに要所で質問するのである。
質問に答えられれば称賛し、答えられなければ親切に教える。女性教師から何かを提案することもあるが、その提案を受け入れるかどうかを決めるのは生徒たちである。この女性教師が『悪意の対話者』でなければ、これほどよい先生もいないだろう。
だが、彼女は明確な『悪意』をもって対話に臨んでいる。ごくわずかな時間で生徒たちを完全に『洗脳』してしまうのである。
なぜ生徒たちは丸め込まれたのか?それは自分たちの信念についてまじめに考えたことがなかったからだ。教え込まれたことを無批判に覚え込んでいただけだからだ。
なぜ国旗は大切なのか?なぜ国旗に忠誠を誓うのか?そもそも国旗とは何なのか?こういったことを一度でも考えたことがあれば、大切な国旗を大喜びで切り刻むことはなかっただろう。そのことの悲劇性に気がつかないこともなかっただろう」
現実でも国旗を巡る争いを巷で見聞します。ヘイトスピーチを行うある過激保守団体ではデモ活動の際、常に日章旗や旭日旗を持参するよう呼びかけているそうです。
ヘイトスピーチは国際的にも人種・民族差別とみなされ、客観的には活動者の属する国家の評判を汚す行為です。従ってそのようなデモの場に、日章旗を持ち込むなら、国旗のイメージは傍目にどう映るでしょうか?
まず「日章旗は過激派ご用達の危ない国旗」という印象が作られ、次第に「日の丸に敬意を払うのはおかしな人達」というように、国旗への悪印象が増してくるのではないですか。
つまり上記で挙げた、国旗を切り刻むという行為と同義なのです。恐らく活動者の大半も、国旗を掲げてヘイトスピーチするという行為は何を意味するのか、認識していないのではないでしょうか。
ヘイトスピーチを行う会では実は、一般日本人が真相を知れば仰天する根本的な問題を抱えているという噂があります。
そのためデモの場に国旗を持参しろという呼びかけにも、ある隠された意図があるらしいのですが、ここでは詳述を控えます。
一見日本の為に働いている活動にも見えますが、なぜわざわざ日本という国家のイメージダウンを図るのか?その目的が何なのか看破しようとするなら、右翼・左翼などの形式に捉われていては真実が見えなくなります。
ここでもやはり、国旗とは自分にとって何なのか、国家とは何か、そして何に価値観を置き生きるのか、という自分自身の信条が明確にならない限り、この謎も解けないと思います。
『不都合な相手と話す技術』-フィンランド式「対話力」入門、北川達夫、東洋経済新報社、2010年