
淵田美津雄中尉(昭和3年頃)
1942年6月、淵田美津雄はミッドウェー海戦へ飛行隊の総指揮官として参加するのですが、作戦当日の5日、彼は空母赤城の病室のベッドに横たわっていました。虫垂炎に罹ったため手術して、前日抜糸したばかりだったのです。
それでも飛行機の試運転の爆音が響いてくると矢も盾も堪らず、淵田は病室を抜け、脳貧血でよろめきながら飛行甲板に赴き、指揮を取り始めました。しかし彼は出撃できないため、友永丈市大尉がミッドウェー飛行隊長として淵田の代行を務めました。
ミッドウェー海戦は史実が示す通り、淵田の乗艦していた赤城をはじめ、4隻の空母が撃沈されました。
空母赤城の飛行甲板は爆撃を受け火の海となり、居場所のなくなった淵田は搭乗員待機室へ向かいました。
「淵田は急いで、搭乗員待機室に行くと、そこでは多数の負傷者が、応急手当てを受けていた。淵田は、自分がますます混乱するのが分かった。
『なぜ、下の病室に収容しないのか』と救助隊員のひとりに声をかけた。
『艦内はどこも火につつまれていて、だれも病室には辿りつけません』と隊員は答えた。
それを聞いたとき、生々しい恐怖心が淵田を襲った。彼はその病室にはまだ三十数人の人間が残っていることを知っていた。そしてそれらの者は、いまや為す術なく火に捉われていることだろう。
淵田は自分にできることを探そうとして、彼のキャビンにむかったが、すぐに煙と火のためにふたたび待機室に戻らねばならなかった。
そのとき淵田は、自分の運命について考えてみた。もしも自分が、部下の出撃に立ち合おうと思わなかったら、彼はいまごろ病室か自分のキャビンで焼け死んでいただろう。
そして彼は、人間の精神にやどる英知には、超常的な現象を導き出す働きがあることを知った」
赤城からは総員退艦命令が出され、淵田も最後に艦橋を離れました。しかし避難途中に爆風で身体ごと飛ばされ、飛行甲板に叩きつけられ両足を骨折してしまいました。
「『よし』彼は自分自身に言い聞かせた。もしも自分の人生がここで終わるのなら、それは致し方のないことだ。覚悟はできている。彼の軍服が燻(くすぶ)りはじめていた。
このとき、予期せぬ幸運が彼を訪れた。二人の下士官が彼のそばを駆け抜けようとして、彼を発見した。
彼らは淵田を外側の通路に運び出し、錨のある甲板に到着したとき、南雲のスタッフを運ぶ最後のボートが火の『赤城』を離れようとしているのを見て、二人の下士官は大声で呼び止とめ、そして呼び戻した」
淵田は病室を離れて焼死を免れ、また両足を骨折して下士官に救助されたことで、二度の幸運を得ました。
それだけでなく、淵田の代行の飛行隊長として出撃した友永丈市大尉は戦死していますから、淵田総指揮官はミッドウェーで3度命を救われたと言っても過言ではないでしょう。