淵田美津雄 -天佑神助の人生 【前編・スピリチュアリズム】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


淵田美津雄 

淵田美津雄(19021976)、享年73



 淵田美津雄大佐は真珠湾攻撃の際の飛行隊長として有名ですが、彼はまた人生全般を通じ、天佑にも恵まれ死地を何度も潜り抜けてきた人物でもありました。

 

 ここでは飛行隊長という死に極めて近い職務を務めながら、有為転変を経て戦後を生きた彼の人生について、心霊的視点を用いて取り上げます。ですから実証的とは言えない解説も入ってきますので、その点ご了承ください。

 

 淵田美津雄は奈良県に生まれ、1924(大正13)年に海軍兵学校(52期)を卒業。同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいました。1938(昭和13)年には海軍大学校を卒業。

 

早くから飛行士を志望し、1930(昭和5)年の27歳の時には空母加賀の偵察隊に所属していました。最初の窮地は連合艦隊が移動途中の台湾海峡で、行方不明になった潜水艦の艦長の捜索のため、偵察機で海上を飛行していた際の出来事でした。

 

淵田を含めた定員2名の偵察機は、捜索途中の洋上で帰投すべき加賀の姿を見失ってしまいました。燃料はあと十分で底を尽きようとしていました。



海軍兵学校時代 

海軍兵学校時代(大正108月)


 

「私(淵田)は万事休したと思った。雲高五百米、飛行機はその下際すれすれに飛んでいるのであるが、見渡す海面はしけていて、白く泡立つ波頭意外に、なんにも見えない。いよいよ最期が来たと私は観念した。

 

その時であった。突如、私の胸の中で誰かが『高度を上げよ、高度を上げよ』と囁(ささや)くように思えるのであった。だが高度を上げたってどうなるものでもない。頭上五百米以上は、どこまでつづくか分からない密雲である。

 

けれども、『高度を上げよ』との囁きは執拗に胸から消えない。外(ほか)に手段もないことである。私は、この声に従おうと決心した」

 

この後、飛行機を上昇させると雲の中での盲目飛行となりましたが、それでも高度を上げ続けました。燃料計はゼロを指しています。やがて雲の上に出ると、前方の雲の切れ間にかすかに帆船が認められました。

 

「一般に飛行機は、その高度の四倍は滑走できるのである。従っていま高度二千七百米に上っているのだから、距離一万米の滑走はがっつりである。私は、これはなんという運のいいことかと、にんまりした」

 

こうして幸運を得た淵田機は帆船の横に着水すると、それは中国人のジャンク船でした。彼らはなかなか親切で、救助した淵田らを汕頭(スワトウ、中国広東省)の日本領事館に送り届け、淵田らは無事母艦加賀へ帰還することができました。



真珠湾攻撃前日 

真珠湾攻撃前日の淵田飛行隊長(中央)


 

1941(昭和16)年128日、真珠湾攻撃において、淵田美津雄は飛行部隊の総指揮官を務めましたが、当日は自らも空母赤城から出撃しました。

 

ところが真珠湾入口に差し掛かったところ、米軍の対空砲火が火を噴き、それによって淵田機は被弾してしまいました。

 

「ピシリッと音がして、飛行機がグラリと揺れた。松崎大尉が聞いて来た。

 

『隊長、どこをやられましたか』

 

 私も、どこをやられたか確かめようとしていたとき、水木兵曹が答えた。

 

『左舷胴体後部に弾片があたって穴をあけました。操縦索が切れて、ストランド(鉄製のワイヤー)一本でもっています。補強しようにも手がとどきません』」

 

 これは実に危険な状態だったのですが、淵田総指揮官はそのまま攻撃隊を指揮し続けました。戦闘後は飛行時間も航続時間5時間のところ、4時間半を飛び、燃料も払底しようとしていました。

 

 淵田を含む攻撃隊は爆撃後が終了すると赤城に帰投し、機体の整備を受けました。

 

 「私の機体を点検した先任整備下士官は、私に言った。

 

『総隊長、燃料はかっきりでした。もう少し早く帰って貰わんと危ないですよ。それに操縦索も切れかけていて、危なかったですよ』

 

 と。私は答えて言った。

 

『戦争だよ。燃料がなくたって、操縦索が切れたって、飛ぶよ』」

 

 淵田総隊長はこのように向う見ずな一面も持っていましたが、艦艇勤務より死亡率の高い空に出撃して行っても、不思議と窮地をすり抜け生還するという、強運の持ち主でした。