
淵田美津雄(1902-1976)、享年73歳
淵田美津雄大佐は真珠湾攻撃の際の飛行隊長として有名ですが、彼はまた人生全般を通じ、天佑にも恵まれ死地を何度も潜り抜けてきた人物でもありました。
ここでは飛行隊長という死に極めて近い職務を務めながら、有為転変を経て戦後を生きた彼の人生について、心霊的視点を用いて取り上げます。ですから実証的とは言えない解説も入ってきますので、その点ご了承ください。
淵田美津雄は奈良県に生まれ、1924(大正13)年に海軍兵学校(52期)を卒業。同期に源田実、高松宮宣仁親王らがいました。1938(昭和13)年には海軍大学校を卒業。
早くから飛行士を志望し、1930(昭和5)年の27歳の時には空母加賀の偵察隊に所属していました。最初の窮地は連合艦隊が移動途中の台湾海峡で、行方不明になった潜水艦の艦長の捜索のため、偵察機で海上を飛行していた際の出来事でした。
淵田を含めた定員2名の偵察機は、捜索途中の洋上で帰投すべき加賀の姿を見失ってしまいました。燃料はあと十分で底を尽きようとしていました。
海軍兵学校時代(大正10年8月)
「私(淵田)は万事休したと思った。雲高五百米、飛行機はその下際すれすれに飛んでいるのであるが、見渡す海面はしけていて、白く泡立つ波頭意外に、なんにも見えない。いよいよ最期が来たと私は観念した。
その時であった。突如、私の胸の中で誰かが『高度を上げよ、高度を上げよ』と囁(ささや)くように思えるのであった。だが高度を上げたってどうなるものでもない。頭上五百米以上は、どこまでつづくか分からない密雲である。
けれども、『高度を上げよ』との囁きは執拗に胸から消えない。外(ほか)に手段もないことである。私は、この声に従おうと決心した」
この後、飛行機を上昇させると雲の中での盲目飛行となりましたが、それでも高度を上げ続けました。燃料計はゼロを指しています。やがて雲の上に出ると、前方の雲の切れ間にかすかに帆船が認められました。
「一般に飛行機は、その高度の四倍は滑走できるのである。従っていま高度二千七百米に上っているのだから、距離一万米の滑走はがっつりである。私は、これはなんという運のいいことかと、にんまりした」
こうして幸運を得た淵田機は帆船の横に着水すると、それは中国人のジャンク船でした。彼らはなかなか親切で、救助した淵田らを汕頭(スワトウ、中国広東省)の日本領事館に送り届け、淵田らは無事母艦加賀へ帰還することができました。
真珠湾攻撃前日の淵田飛行隊長(中央)
1941(昭和16)年12月8日、真珠湾攻撃において、淵田美津雄は飛行部隊の総指揮官を務めましたが、当日は自らも空母赤城から出撃しました。
ところが真珠湾入口に差し掛かったところ、米軍の対空砲火が火を噴き、それによって淵田機は被弾してしまいました。
「ピシリッと音がして、飛行機がグラリと揺れた。松崎大尉が聞いて来た。
『隊長、どこをやられましたか』
私も、どこをやられたか確かめようとしていたとき、水木兵曹が答えた。
『左舷胴体後部に弾片があたって穴をあけました。操縦索が切れて、ストランド(鉄製のワイヤー)一本でもっています。補強しようにも手がとどきません』」
これは実に危険な状態だったのですが、淵田総指揮官はそのまま攻撃隊を指揮し続けました。戦闘後は飛行時間も航続時間5時間のところ、4時間半を飛び、燃料も払底しようとしていました。
淵田を含む攻撃隊は爆撃後が終了すると赤城に帰投し、機体の整備を受けました。
「私の機体を点検した先任整備下士官は、私に言った。
『総隊長、燃料はかっきりでした。もう少し早く帰って貰わんと危ないですよ。それに操縦索も切れかけていて、危なかったですよ』
と。私は答えて言った。
『戦争だよ。燃料がなくたって、操縦索が切れたって、飛ぶよ』」
淵田総隊長はこのように向う見ずな一面も持っていましたが、艦艇勤務より死亡率の高い空に出撃して行っても、不思議と窮地をすり抜け生還するという、強運の持ち主でした。