淵田美津雄 -天佑神助の人生 【後編・スピリチュアリズム】 | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


家族と共に 

家族と共に(昭和13年)



 ミッドウェーで両足を折った淵田美津雄は、入院を経て松葉杖を手にしましたが、両足が使えず長らく歩行も困難を極めました。その間にも彼の同僚で雷撃隊長だった村田重治など、親しい仲間が戦死していきました。

 

 「禍福は糾(あざな)える縄の如し」と言いますが、淵田にとって肢体障害が生き残りへの人生へと繋がりました。この時期彼はミッドウェーの調査票の作成や、横須賀航空隊の教官、海軍大学校の教官など以降、陸での職務に終始しました。

 

 19458月、淵田は出張会議のため広島市に滞在していました。会議日程は3日を費やして5日の昼前に終わり、その翌朝6日まで彼は広島市内に宿泊する予定でした。

 

ところが東京の海軍総司令部から突如、奈良県にある大和基地に立ち寄るよう命令が下り、淵田は急きょ予定を変更して5日のうちに広島を去りました。

 

そして翌朝86日には広島への原爆投下です。話を聞いて淵田はびっくり仰天しましたが、今度は調査団として原爆投下2日目の広島を訪れるよう下令されました。

 

当時は放射能の情報などろくになかったため、防御装備も施さずに調査団は瓦礫の街に入っていったのです。

 

そのため調査団に参加した多くは、その後原爆症で死亡しました。しかし淵田には生涯放射能の悪影響が出ることはありませんでした。


旭日旗 

 

終戦直前にも僥倖とも言うべき事件がありました。淵田は降伏に異を唱え、ポツダム宣言受諾は阻止すべきという意向を抱いていました。

 

813日、彼は大西瀧治郎と共に陸海軍の決起部隊による宮城占拠を実現しようと奔走していました。しかしこの日偶然にも、兵学校の同期であった高松宮に出会いました。

 

「『待ちたまえ』

 

 宮は不機嫌な声で、淵田をそばの小さな部屋にさそった。(中略)宮は言った。

 

『私は皇居から今、帰ってきたところである。親しく天皇と個人的に語らうことができた。天皇はただちに降伏することを本心から望んでおられる。何よりも、国民の平和をお望みなのだ』

 

 この数少ない言葉をきいて、急に、人生にドラマを求めていた自分が恥ずかしくなった。たとえようもない矮小感である。彼(淵田)は熱病から醒めたように言った。

 

『クーデターは止めにします』」

 

 思いがけなく天皇の弟宮であり、江田島のクラスメイトであった高松宮が通りかかり、淵田の決起計画をあきらめさせたのです。

 

共謀していた大西瀧治郎は、間もなく終戦直後に割腹自殺を遂げています。また宮城事件に係わった陸軍将校たちは、最後に自決したのは周知のとおりです。



淵田・伝道の頃 

アイダホで伝道をしていた頃(19597月)


 

 淵田美津雄の生涯は、偶然というには偶然過ぎる出来事が重なり合う人生で成り立っていました。その人生が彼に人知の力を超えた何物かの存在を感じさせ、戦後彼がキリスト教伝道者として歩むための契機となった節があります。

 

心霊的に解説すると、彼は自分の内なる声をよく聞きわけることができる人だったのではないでしょうか。

 

霊が見える、霊の声が聞こえるなどの、特別の霊能がないように見えても、内面から湧き出てくる声をよくキャッチできる人がいます。

 

その声の多くは本人の守護霊、背後霊などから寄せられます。本人が守護霊の存在を意識するほど、背後の声はより聞きやすくなります。

 

彼は凶事を避ける幸運の人でした。このような人に付き従えば災難も少なくなるのでは、と考えられますが、本人がカルマを持つ場合、そのトラブルは必ずやってきます。従って常時幸運が保たれるのかというと、人によってはそうとも限りません。

 

淵田美津雄の場合も毀誉褒貶の人生を体験し、戦争体験をも昇華させ、伝道や日米親善に生きる人生に到達するまでは、死ねなかったのだろうと思います。

 

 

・『真珠湾攻撃総隊長の回想 淵田美津雄自叙伝』、中田整一 編、講談社、2007

・『真珠湾のサムライ 淵田美津雄』-伝道者となったパールハーバー攻撃隊長の生涯、甲斐克彦、光人社、1996