元外交官でロシア・民族問題専門の佐藤優氏が、ウクライナの複雑な情勢を歴史的背景から解説しています。
■佐藤優が歴史的背景から解説!~ウクライナ情勢が激化する中、米軍がイージス艦を派遣した理由~(16:32)
http://www.youtube.com/watch?v=zGU69vFxp9c
(以下より文字起こしした佐藤氏の解説)
今回の異議申し立て運動の中心となっているグループは、西ウクライナのガリツィア地方の出身者である。西ウクライナのガリツィア地方の中心都市はリボフ、ウクライナ語はウボフになる。ここは1945年にソ連の赤軍が占領するまで、一度もロシア(ソ連)領になったことがない地域。
ウクライナ(白)、西ウクライナのガリツィア地方(黄色)
歴史的にはオーストリア=ハプスブルクの領土で、そのあとはポーランド領になっており、住民はみんなウクライナ人。ウクライナ語をもともと喋っている訳であるが、19世紀にロシア帝国のウクライナでは、強力なロシア語化政策が行われた。
だから都市部において新聞、雑誌、本をウクライナ語で発行することができなり、高等教育機関でもウクライナ語での教育もなされなくなった。ウクライナ語は、地方の農民が話す言葉になった。
一方ウクライナの東部では、当時も今もウクライナ語を喋る人はほとんどいない。ところが、このガリツィア地方のウクライナは、ハプスブルク帝国が複数言語主義を採っていた関係で、リボフ大学では高等教育を含めてウクライナ語で教育された。
それから、第二次世界大戦が始まって、ナチス・ドイツがウクライナに侵攻してきた時に、ガリツィア地方出身のウクライナ人で、ナチスに協力した人たちがいたのは事実である。
ガリツィア地方は歴史的な反ユダヤ主義が非常に強い。だから今回の広場で占拠しているグループの中に、反ユダヤ主義的な傾向は明らかにある。
首都キエフの聖ソフィア大聖堂
もう一つは宗教が違う。このガリツィア地方はカトリックで、それ以外のウクライナの圧倒的大多数が(ロシア)正教会である。ところがガリツィア地方のカトリック教会は見た目が正教会と全く一緒となっている。
カトリック教会では神父が結婚しない。ロシア正教では現場で仕事をする神父はノンキャリアで、この人達は結婚している。片や修道院に入って幹部になる人達は独身制であり、独身制と結婚制と両方が入っている。
ガリツィア地方でのカトリック教会は、神父が妻帯している。これはユニア教会と言って直訳すると「統一教会」となるが、日本語だと特殊なニュアンスがある。従って東方帰一教会とか、東方典礼カトリック教会とかの言い方をしている。
要するに、16世紀にルター、ツグィングリ、カルバンの宗教改革が起きるが、その宗教改革はポーランドからチェコまでが宗教改革の影響下に入った。カトリックの方は宗教改革とは言わず、ルターたちのことを。信仰分裂と呼ぶ。それでトリエントの公会議でカトリックは対抗宗教改革をやる。
それで軍隊方式で作ったのがイエズス会である。イエズス会によってプロテスタントを駆逐させたら、ものすごい力が強いんで、プロテスタント地域を全部制覇して、さらにその東の正教の世界に入ってしまった。
正教会の人達っていうのは絶対に妥協しない。妥協しないっていうのは政治的に妥協しないのではなくて、今までの習慣を変えるのが嫌だっていうんで妥協しない。
だからカトリックは柔軟に対応して、習慣は今まででいい。その代わりローマ教皇が一番偉いんだという事と、聖霊がどこから派出するかという教義について、2点だけ認めればカトリックですという形にした。
この時の処理の仕方が謀略的・陰謀的だという気持ちをロシア正教会は持っているから、未だその影響があってバチカンとロシアの関係は良くない。
1945年にソ連の赤軍がガリツィア地方に入ってきた時に、このユニア教会をロシア教会と無理やり併合させた。そしたらこの人達は「嫌だ」。
逆にソ連政府はウクライナ語はウクライナで使うようにするってことだから、ウクライナ語は優遇せずって言う腹があった。
ウクライナのデモ
ところが宗教に関してはロシアと一緒にやらせようとして、大変な抵抗運動が起きた。1950年代の半ばまで「森の兄弟たち」というグループがあって、武装反ソ運動が起きていた。
だからガリツィア地方はゴルバチョフがペレストロイカやった際に、外国人を一切立ち入りさせなかった。そしてソ連と徹底的に闘うというウクライナ人たちは、ソ連支配を潔しとせずに亡命した。
ところが、ソ連との関係悪くしたくない、あと亡命者は受け入れられないということでアメリカやオーストラリア、西ヨーロッパにはあまり亡命しなかった。
アメリカは逆に、亡命したウクライナ人を「ソ連はそんな悪い国じゃないから帰った方がいいよ」と説得して帰した。返された連中は銃殺になるか強制収容所に入れられた。
そのウクライナ人をほとんど受け入れたのは実はカナダである。今ロシアにいるウクライナ人は280万人~290万人と言われている。それに対しカナダに120万人ウクライナ人が住む。
アメリカにいるウクライナ人は89万人。アメリカのウクライナ人はウクライナ語ほとんど忘れている。
カナダにいるウクライナ人はエドモントン、冬はマイナス40度位になり凄い寒い。エドモントンを中心にウクライナ人が住んでいて、今でもウクライナ語喋っている。
カナダで一番多く喋られているのが英語、その次がケベック州を中心にフランス語、3番目が実は、ウクライナ語。それ位カナダにおけるウクライナコミュニティは強い力を持つ。
そして1980年代の終わり、ペレストロイカで国境が開かれた時に、カナダのウクライナ人コミュニティが西ウクライナの民族主義者、反ソ主義者、ソ連からの分離主義者に資金援助を行った。
従ってかつてIRAが、アメリカに住んでいるアイルランド系からの資金援助でテロ活動を行ったのと同じ構造がウクライナに生まれた。しかも分離独立するプロセスにおいて、この西ウクライナは人口にしては7分の一位である。ところが政治的な影響としては半分位ある。(後編に続く)