東京大空襲と戦争体験談集 | 太平洋戦争史と心霊世界

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海軍を中心とした15年戦争史、自衛隊、霊界通信『シルバーバーチの霊訓』、
自身の病気(炎症性乳がん)について書いています。


東京大空襲の写真 

東京都慰霊堂の空襲写真。震災・空襲で亡くなった身元不明者の遺骨が安置されている。



 日が過ぎてしまったのですが、310日には東京大空襲がありました。翌311日は東日本大震災の津波で亡くなられた方がおり、火と水の災害が立て続けに発生した2日間となっています。

 

 以下に東京大空襲を含む戦争体験談を見つけましたのでご紹介します。

 

 

■東京大空襲・体験談

http://www.geocities.jp/jisedainitakusu/sub02.html

 

■戦争体験談(東京大空襲含む)

http://www.sakado-gr.org/sensou-taiken/mokuzi.htm

 

 

 東京大空襲は昭和20310日、夜中の12時過ぎから始まりました。下町の町工場が立つ密集地を中心に焼夷弾が投下され、約10万人以上の市民が死亡しました。これは単独の空襲としては史上最大の犠牲者数です。


消火する消防隊 

 

 上にご紹介した体験談の中に、米軍は最初に市街地周辺に爆弾を落として市民を中心部へ誘い込み、そこに集中的に焼夷弾を投下し一挙に殲滅した、という記述があります。しかし米軍にはそのような作戦報告書は見つからず、体験者の誤解ではないかとも言われています。

 

 米軍の作戦によると、実際には目標が煙で見えなくなるため、風下の東部側から順に爆撃するよう指示が出されていました。それが意図的に市民の退路を断つような作戦に見えたようです。

 

 日本側でも空襲への対応に対し不手際がありました。日本軍は米軍機編隊が首都圏に飛来してきたのは探知していましたが、途中で房総半島沖に退去したものと誤認し空襲警報を発令していませんでした。

 

 空襲警報が30分でも1時間でも早く知らされていたなら、犠牲者はもう少し減ったのではないかと言う批判が元被災者から提起されています。


焼け出された市民 

 

 もう一つ、犠牲者が増えた原因に310日の大空襲が、空襲対策のマニュアルを超えた想定外の大規模火災に拡大してしまったことがありました。

 

 市民は普段空襲の消火訓練を受けており、空襲の際はまず火災を鎮火させるという決まりとなっていました。

 

310日の大空襲も最初は「まず火を消してから逃げろ」と避難者は、周辺から引きとめられました。

 

そこで逃げかかったのにわざわざ近所まで戻ってきて消火活動を始め、いつの間にか人間の手に負えない程の猛火となり、火災に巻き込まれ亡くなった犠牲者も少なからずいたそうです。

 

規則を順守してマニュアル通りに消火活動に勤しむ所は、赤信号の前では必ず待つ生真面目な日本人ならではの姿に重なり、悲哀を誘います。