元外交官で作家の佐藤優氏が語るインテリジェンス、つまりスパイ活動についてご紹介します。
■命の値段
「日本外務省は中東の某情報大国の政府高官で、クレムリンに食い込み、エリツィン一族にもアクセスのある人物の力を借りることにした。『FSB長官のプーチンに注目しろ』とはじめて私に囁(ささや)いたのもこの人物だ。
この某国政府高官は、自国だけでなく、第三国とロシアの間で生じた問題の処理も行った。たいへんなインテリであるが、恐ろしい面もあわせもっている。
『サトウさん、ロシアや中央アジアで、仕事を進める上で殺してしまった方がいい奴がいるときは、ブダペストにいる有名なアサシン(殺し屋)を紹介してやる』
『いくらかかるんですか』
『難しさにもよるが、安ければ五千ドル、最高でも三十万ドルだ。暗殺の相場はそれほど高くない』
『ほんとうに必要になったらお願いします』
『ただし、相手がユダヤ人のときは引き受けないよ。アサシンもユダヤ人なので、同族は殺さない』
『わかりました』
某国政府高官は、私が実際に殺人を委託することなどないと最初からわかっている。逆に、
『サトウ、モスクワや中央アジアではやりすぎるなよ。命の値段は君が思っているよりも安い。とくに寡占資本家(オリガルヒヤ)とぶつかるような工作をすると殺し屋に狙われる』
■上司は部下に命令ではなく「お願い」する
「インテリジェンスの世界では、上司と部下の間に、不思議な関係がある。
一般の官庁や企業では、上司は部下に命令をする。命令がよほど理不尽でない限り、部下は『はいわかりました』と言って命令を聞く。しかし、インテリジェンス機関において、上司は部下に対して命令ではなく、『お願い』をする。
これは、インテリジェンス業務の本質ともかかわってくるのであるが、違法行為や身辺に危険が及ぶような任務の場合、実際に工作に従事する者が、納得した上で任務を引き受けなければ、必ず失敗する。そこで、『お願い』という形をとるのである」
■現代の拷問
「現代の尋問技術では、相手が知っていることを全部吐かせることができる。アラブ諸国やイランは、文化として、拷問を用いる。例えば、殴ったり、電気警棒を押し付けたりする。
もっとも、最悪の場合でも、爪の間に針を刺したり、ペンチで生爪を剥がすくらいだ。気絶するかもしれないが、命までは奪われない。
拷問のやり方でもっとも効果的な手法は、被尋問者には暴力を一切加えずに、目の前で、被尋問者がもっとも愛する人、妻や子供に対して拷問を加え、自白を迫る手法である。アラブ諸国やイランの秘密警察がよく用いる方法だ。
エジプトに潜入したモサドの伝説的な工作員ウォルフガング・ロッツが、1965年にエジプトの国家保安局(秘密警察)に逮捕されたときも、夫人に対して拷問が加えられた。裸にし、腹を蹴り上げ、冷水につけるなどの拷問を加え、それでロッツに対して圧力を加えた。
モサドは絶対に機関員を見捨てない。その救出のために最後の最後まで努力する。1967年の六日戦争(第三次中東戦争)後、翌68年のエジプト将兵との捕虜交換で、ロッツ夫妻はイスラエルに帰国した。しかしロッツ夫人はエジプトの秘密警察による拷問が原因で、しばらくしてから死んだ」
『交渉術』、佐藤優、文春文庫、2011年