
太平洋戦争で学徒出陣し戦病死した学徒兵の日記・遺書などをご紹介します。
■山根明(陸軍・享年20歳):昭和19(1944)年11月5日の日記より
鶴見祐輔の『米国国民性と日米関係の将来』を読む。流石慧眼に、大正十一年早くも日米関係の前途不安なるを警告す。面白き書なり。
今の日本人にして米国を理解せるもの幾許(いくばく)ぞ。否理解せんと志せる者すら幾人をかぞうべき。学徒にありても如何?敵を知り己を知らざれば勝を得がたし。嗚呼――。
(片仮名を読みやすいよう平仮名に直しました。)
■上村元太(陸軍・享年24歳):1943(昭和18)年7月5日の日記より
「生きて帰る」俺にはまだまだ山ほど人生がある。いや、俺ばかりではない。生きとし、生けるものすべてだ。それがみんな死の中で育ち、ほんものの死へ這入(はい)っていかなくてはならぬとは。
「生ける屍」キザな言葉だが、その凡(およ)そ未来と希望をなげうっている言葉に、真実性があるのだろう。
赤紙をうけとった後の俺がいまだに死を恐れ生活をおほほする(思いこがれる)のは、莫迦(ばか)げ切った話なのか。
■松岡欣平(陸軍・享年21歳):1943(昭和18)年11月某日の日記より
『無法松の一生』を見た。入営前の心境であったためか、妙に印象が深い。阪妻の熱演によるためか。
運動会、提灯行列、太鼓等々、すべて走馬灯のごとく走ってゆく。すべてが過去の淡い夢と消えてしまった。いつの日にか提灯行列を見ることが出来よう。いつの日にか運動会の喜びにひたれよう。俺は気が狂いそうだ。俺は太鼓が打ってみたい。俺は提灯行列をやってみたいのだ。長袖の着物がみたいのだ。
戦争、戦争、戦争、それは現在の自分にとってあまりにも強い宿命的な存在なのである。世はまさに闇だ。戦争に何の倫理があるのだ。大義のための戦、大義なんて何だ。痴者の寝言にすぎない。
宿命と感ずる以上、自分は戦に出ることは何とも思わない。しかしそれで宿命は解決されるのであろうか。世の中は再び平和をとりもどせるのであろうか。