豪・キャンベラの国立戦争記念館
現在の日本-オーストラリアの関係自体は良好に関わらず、オーストラリア人は太平洋戦争下での日本軍の行為には、未だにわだかまりを持つ人も多いと言われます。
その原因の一つと見られるのが、オーストラリア人の捕虜問題です。日本では捕虜問題は史実でもあまり取り上げられず、とりわけ未開拓の分野ではないでしょうか。
ここでは日本軍の管理下で起きた、オーストラリア人の捕虜に関する事件を振り返ってみます。
まず日本軍の捕虜となったオーストラリア人は22,376人。そのうち8.031人が死亡し、死亡率は35.9%でした。
これは日本軍の捕虜となった英米軍捕虜の死亡率は約27%と比べると、やや高い数字です。ちなみにドイツ軍の捕虜となった英米軍捕虜の死亡率は4%でした。
■日豪軍のラバウル攻防
ラバウルのあるニューブリテン島は第一次大戦後、オーストラリアが管理していました。ラバウルの街には本国から派遣された公務員や家族が住み、周辺地域にはプランテーション経営者や宣教師たちも多く住んでいました。
ラバウルには1941年3月から4月にかけ、豪陸軍ラーク部隊の1,000人が守備隊員として配備され、婦女子のほぼ全員は1941年末に本国に避難していました。
1941(昭和16)年12月8日の日米開戦と同時に、日本は太平洋を南下しました。1942(昭和17)年1月23日、侵攻してきた日本軍にオーストラリア軍は全く歯が立たず、ラバウルは占領されました。
これが最初の日豪戦となり、豪軍の降伏により多くの豪兵と民間人が日本軍の捕虜となりました。その中には看護婦、宣教師、修道女なども含まれていました。
1942年2月、島の東岸にあるトル・プランテーションで、日本軍による豪兵捕虜、160人の虐殺事件が起きました。
また同年6月、ラバウルから海南島へ向け、1,000人のオーストラリア人捕虜を乗せ出港した輸送船・モンテビデオ丸がフィリピン沖で米軍潜水艦の攻撃を受け沈没。一部の日本人乗員を除き、捕虜全員が死亡するという事件がありました。
豪兵処刑の写真(戦争記念館)
■日本軍のシンガポール攻撃
開戦と同時に日本軍はマレー半島を南下し、シンガポールは日本の猛攻により陥落しました。1942年2月15日、パーシバル英陸軍将軍は降伏し、日本の占領下に入りました。
この時の捕虜、15,000人は豪軍将兵だったのにかかわらず、日本国内では捕虜の国籍はすべて英国将兵と報道されていました。
これを見てもオーストラリア軍は、当時から日本人の意識にほとんど上らない存在であったようです。
1942年11月から翌年10月まで、シンガポールから連合軍捕虜(英・豪・蘭)たちは、タイとビルマを結ぶ泰緬(たいめん)鉄道の建設のために駆り出されました。
ここでジャングルを切り開く突貫工事に従事しながら、13,000人の豪軍捕虜のうち2,800人が栄養失調、病気などで死亡しました。
■「サンダカン死の行進」
1945年初頭、日本軍は約2,000名の英豪軍捕虜を、ボルネオ島のサンダカン収容所から内陸部のラナウまで移動させました。
移動は3回に分けて行われましたが、その距離260キロを徒歩で移動させられました。第1回目の移動で捕虜は30キロの荷物を背負わされ、靴を履いていた者は約1割。食料状況が悪化すると、途中でカエルやカタツムリを食べて飢えをしのぎました。
既に収容所生活で衰弱していた捕虜たちは次々と倒れ、落伍者は見捨てられたり、射殺されました。結局生き残ったのは、途中で逃亡した豪兵捕虜6名のみで、サンダカン収容所での生存率は1%に満たず、捕虜の99%超が死亡しました。
次回は、オーストラリア人が対日戦(太平洋戦争)に何故こだわるのかを考察します。
・「サンダカン死の行進」(ウィキペディア)
・『日本とオーストラリアの太平洋戦争』-記憶の国境線を問う、鎌田真弓編、御茶ノ水書房、2012