
引き上げられる日本軍の特殊潜航艇
前回は1942年5月末に日本海軍が実施した、特殊潜航艇でのシドニー湾攻撃について掲載しました。
■日本軍のオーストラリア本土攻撃 【中編】-特殊潜航艇のシドニー攻撃
3隻の特殊潜航艇はその後、1隻が行方不明、沈められた2隻はオーストラリア側で引き揚げ作業が行われました。
松尾艇、中馬艇の船体と共に、内部から計4名の日本海軍軍人の遺体も回収されました。遺体は検視後、6月9日に、軍人として一番栄誉ある海軍葬による葬儀が行われました。
葬儀にはシドニー湾防衛司令官のミュアーヘッド・グールド海軍少将やヘディンガ-・スイス総領事、新聞記者などが出席し、遺体は日章旗で覆われた棺に納められ、その後荼毘に付されました。
海軍葬の様子は豪の国営放送が録音し、日本に向けても放送されています。火葬後、遺灰は日本に交換船で送り返されました。
遺骨と共に横浜港に到着した日英交換船「鎌倉丸」。礼をして出迎える人々。
この海軍葬はオーストラリアの世論に波紋を投げかけました。世論は圧倒的に反対の意を示しました。
中でも愛国主義団体は、日本軍の潜航艇の攻撃で自軍の水兵が死亡したにもかかわらず、海軍葬を決定したと、ミュアーヘッド・グールド少将を非難しました。グールド少将は周りの反対を押し切って、日本軍人の海軍葬の決定をしたと言われていたからです。
ミュアヘッド・グールド少将
この件に関し、グールド少将は1942年6月下旬に国営ラジオ放送で、なぜ海軍葬を決定したのかを説明しました。その際のスピーチが以下のものです。
「私はこの人々を火葬するにあたって軍としての栄誉を与えたが、それは本来ならば敵の手によって戦死したわが方にされるべき扱いであるとの批判をうけた。
しかし私はあえて問いたい。このような勇敢な人々に対して、十分な栄誉を払うべきではないかと。
鉄の棺のようなものに乗り込んで出撃するには、最大の勇気を必要とするのである。私の順番が回ってきた時には臆病になりたくはないが、平時でもあのようなものに乗ってシドニー湾を横切る勇気は私にはないと告白しなければならない。
彼らの勇気は、ある国のみに限られた所有物でもなければ伝統でもない。われわれの国の勇者たちにも、敵にも共通するものであり、戦争やその結果がどれほど悲惨であろうとも、認識され世界中で賛美される勇気である。
彼らは最高の愛国者たちだった。彼らの千分の一の犠牲をも払う準備がある者が、我々の中に幾人いるであろうか。
戦闘の煙や大砲や爆弾の轟音の真っ只中では、雄々しく従ったり、あるいは絶望的で可能性が希薄であっても、勇ましく先導しながら我々の生命を勇敢に捧げることはそれほど難しくないかもしれない。
しかし作戦を冷静に実行に移すためには、彼らは最後の犠牲を払う何日も前、いや何週間も前から、可能な限りの最高の愛国心を持ってしたのだった」
このラジオ放送を聞いたニューサウス・ウェールズ州図書館長、ジョン・メカトーフは、グールド少将に直接連絡をして、放送原稿を図書館に寄贈するよう依頼し、原稿は現在州立図書館内に永久保存されています。
シドニー湾
また海軍葬に対しての地元紙のシドニー・モーニング・ヘラルドの社説は「敵は死んでしまったのだ」という見出しを付け、グールド少将を擁護する意見を述べています。
以上のように圧倒的反対の世論に対し、当時のオーストラリア人知識層や軍人の間では、海軍葬は納得のいく決定だったようです。
グールド少将の放送原稿の保存にしても、メカトーフ図書館長は後世のために保存するようにと、明確な指示を出していました。
従って当時の知識層は海軍葬やスピーチに対し、後世の目を意識した上での行動であるとの、暗黙の合意を持っていたのではないかと推測されます。
また海軍葬の実施は、直接的には日本側に捕えられていたオーストラリア人捕虜の待遇改善への期待も込められていました。
しかるに日本へ向けた海軍葬のラジオ放送も、惻隠の情を催すセンチメンタリズムから発した動機ばかりではないことがわかります。
・特殊潜航艇によるシドニー港攻撃(ウィキペディア)
・『日本とオーストラリアの太平洋戦争』-記憶の国境線を問う、鎌田真弓編、御茶ノ水書房、2012