前回、ダーウィンをはじめとする日本軍の豪北部地域への空爆を取り上げました。この出来事は、本土を一度も攻撃されたことのなかったオーストラリアにとって、大変な衝撃となりました。
豪北部空襲に追い打ちをかけるように3か月後の1942(昭和17)年5月、日本海軍による特殊潜航艇がシドニー湾に侵入し、人々を恐怖に陥れました。
■特殊潜航艇のシドニー攻撃
シドニー湾攻撃に臨み、日本海軍では潜水艦の伊21、伊22、伊24、伊27、伊29の5隻が参加しました。
1942年5月末から6月の未明にかけて、潜水艦に搭載されていた特殊潜航艇(小型潜水艦)3隻が、シドニー湾の豪海軍基地を攻撃しました。目的は停泊していた連合軍の艦船破壊です。
1941年12月の真珠湾攻撃の際も、特潜での攻撃が実施されていました。ところが乗組員10人中9人が戦死、1人が捕虜という成果を憂慮し、軍令部では真珠湾同様のシドニー湾攻撃には消極的でした。
軍令部の意向に関わらず当作戦が遂行されたという事は、誰か積極的に推進した人物が存在していたのでしょう。残念ながらここでは仔細までは掴めませんでした。
3隻の潜航艇は艇長の名をとって中馬(ちゅうま)艇、松尾艇、伴(ばん)艇と名付けられていました。
松尾艇の艇長、松尾 敬宇中佐(享年24歳)
中馬艇は湾入口に張られていた防潜網に巻き付き、身動きが取れなくなり自爆。松尾艇は豪海軍の爆雷により沈められました。
伴艇は米海軍の重巡「シカゴ」を発見、魚雷2本を発射しましたが狙いは外れ、1本は岸壁に当たり爆発。しかしその衝撃で宿舎用船舶「クッタブル」が沈没しました。
爆沈、着底した宿泊船「クッタブル」
その後伴艇は母艦と落ち合うことなく行方不明となり、その存在は長年オーストラリア内でミステリーとされてきました。ところが2006年11月、伴艇はダイバーによりシドニー湾外の海底で発見され、豪国内で大きなニュースとなりました。
伴艇が発射した魚雷。不発で岸に乗り上げた。
攻撃終了後には、松尾艇と中馬艇2隻の潜航艇の引き揚げ作業が始まりました。オーストラリアでは艇の引き上げ前から既に、戦時募金を集める目的で特殊潜航艇の展示計画が持ち出されていました。
潜航艇の最初の展示は1942年8月、シドニーで始まり、その後国内巡回ツアーでは1943年3月まで、総距離4,000キロを踏破しました。最後に潜航艇はキャンベラの戦争記念館に到着し、恒久的に展示されることになりました。
1942年11月、国内ツアーのためトレーラーで牽引される潜航艇の一部。
展示中の潜航艇にチョークで名前を書く見学者。(1942年11月)
・特殊潜航艇によるシドニー港攻撃(ウィキペディア)
・『物語 オーストラリアの歴史』-多文化ミドルパワーの実験、竹田いさみ、中公新書、2000年
・『日本とオーストラリアの太平洋戦争』-記憶の国境線を問う、鎌田真弓編、御茶ノ水書房、2012